ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

久々にWhillで

2020-10-31 12:06:26 | 日記
けさは久しぶりに電動カートWhillに乗って近所にお散歩に出かけた。恐る恐るのびくびくものだった。Whillに乗るのは3か月ぶりだったし、途中でいつ動かなくなるか、不安をかかえていたからである。

おとといのことだった。温かく風もない日だったので、久しぶりにWhillに乗ってみようという気になった。ところがいざ乗ってみると、うんともすんとも言わない。故障したらしい。さっそく福祉機器サービス会社の担当者を呼んで、診てもらった。ところが、その人がスイッチを入れると、あらら不思議、わがWhillは何事もなかったように、ちゃんと動くではないか。バッテリーと本体との接点が接触不良を起こしているのではないか、との見立てだった。3か月も放っておいたので、接点に埃が付いてしまったのだろう。

というわけで、わがWhillはきょうは無事、動いてくれたのだが、またいつご機嫌を損ねないとも限らない。途中で止まってしまったとき、救助に来てもらえるよう、念のため待機していてくれと妻に頼んで家を出た。

久しぶりだったせいか、段差ではまだ身体が緊張し、ついつい身構えてしまう。以前の運転感覚は徐々に取り戻して行くしかないのだろう。けさは西風が冷たく、道路には所々落ち葉が積もって、秋の深まりを感じさせた。

帰宅したら、激しく咳き込んだ。喉がいがらっぽい。そういえば、デイサの送迎車のドライバー(兼トレーナー、兼所長)が、「そろそろブタクサの花粉が飛び始めましたね」と言っていた。あの毒々しい黄色の花は見かけなかったが、ブタクサの花粉がしっかり宙を舞っていたのだろう。

きょうは肩慣らしの試運転。運転感覚を取り戻すのが目的だから、商店のある方角には行かず、買い物もしなかった。私の日常がそうであるように、なんとなく物足りない。
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問題としての多様性(承前)

2020-10-30 11:02:25 | 日記
(承前)
さてさて、これは困った。私は戸惑いを禁じ得ない。それというのも、私は次のように書く心積もりでいたからである。

「スガ首相殿、多様性ですか。それは良い考えです。多様性は組織を活性化するカンフル剤になりますからね。そうそう、それでしたら、まずは手始めにわが国を動かしている巨大な組織に、――あなたが統括しているわが国の官僚組織に、この考え方を持ち込んではいかがでしょうか。今の霞が関は東大卒が多数を占め、多様性ならぬ一様性に支配されています。これではいかにもマズい。まずは東大卒を切り捨て、いろんな大学の出身者を集めるのです。」

だが、残念ながらこの主張は成り立たない。「今の霞が関は東大卒が多数を占め、多様性ならぬ一様性に支配されている」という見方は、現状認識として完全に誤っているからである。我が国の官僚組織は、統括者である首相の意図とは全く別の要因によって、すでに多様性に支配されつつある。それが否定できない現状なのだ。

霞が関が現在でもまだ東大卒オンリーの世界であれば、この組織に多様性の考え方を持ち込む試みは、東大卒の幹部クラスから猛反発を食らい、スガ首相は(もし彼がそれを実行するのであれば)立往生をせざるを得なかっただろう。人を食った顔のこの「パンケーキおじさん」がおちいるに違いないその窮状を、高みから眺めて楽しもうという私の秘かな企みは、しかしながらあえなく頓挫したことになる。

それにしても、スガ首相の国会答弁の下原稿を書いた官僚は、どういう現状認識を持っていたのだろうか。東大卒の占める割合が減少の一途をたどり、官僚組織が多様性に支配されつつある、という認識を持っていれば、このゴーストライターが東大卒だったとしても、そうでなかったとしても、「日本学術会議に多様性を!」という鉄砲玉が「いや、霞が関にこそ多様性を!」というブーメランとなって組織に返ってくることを、我が事として恐れる心配はない。彼はそこまで読んでいたのだろうか。

いやあ、いずれにしても天邪鬼爺の企みは、完全にお手上げである。う~む、霞が関の官僚はやっぱり手強い。スガ首相も日々感じていることだろうが、軽々しく彼らを侮ることはできない。そんなことを痛感した天邪鬼爺のきのうきょうである。
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問題としての多様性

2020-10-29 21:13:18 | 日記
スガ首相が野党の追及に対して、さっそく反撃に出たようだ。反撃の武器は「多様性」という多義的であいまいな言葉である。こんなニュースを見た。

「菅首相が就任後、初の国会答弁に立った。野党第1党の立憲民主党からは、枝野幸男代表と泉健太政調会長がそろって質問に立ち、今国会の最大の焦点である日本学術会議の任命拒否問題をただした。
首相は(中略)この日の答弁では、『民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りがでないことも踏まえた多様性を念頭に、私が任命権者として判断を行ったものだ』と説明した。」
(朝日新聞DIGITAL10月29日配信)

多様性とは、多義的であいまいではあるものの、何とも魅力的な響きを持つ言葉ではないか。組織に多様な人材が必要なことは、さまざまな角度から語られている。たとえばこんな具合である。

「異なる視点の発想が相乗し合うことでイノベーションは生まれます。つまり、多様な人材の多様なアイデアや経験を活かせる組織は、イノベーションが生まれやすい環境です。イノベーションには、製品開発のプロダクトイノベーションと、業務効率化のプロセスイノベーションがあります。」
(SAP Concur 2018.8.8《「多様性」って何?今、組織と働く人に求められる多様性の効果とは》)

スガ首相の国会答弁のニュースを見て、私がまず思い出したのは、今から30年ほど前に宮澤喜一首相がとった措置である。記憶違いだったら申し訳ないが、首相に就任したばかりの宮澤氏は、東大卒のキャリア官僚が多い現状は問題だとして、すぐにでも東大卒のキャリア官僚を減らすと宣言した。霞が関の官僚が東大卒ばかりで占められる現状を、宮澤首相は望ましくない事態だと感じたのである。宮澤首相自身が東大卒のキャリア官僚だった経歴を持つだけに、この措置は何とも滑稽に見え、同時にまた説得力を感じた記憶がある。

ネットで調べると、だがそんな話も今は昔。近年では、東大生のキャリア官僚離れが著しく、国家公務員試験の合格者に占める東大生の割合は徐々に減りつつあるという。国会対応で残業が多いとか、民間企業に比べて給料が低いとか、キャリア官僚になるデメリットは多々あるようだが、一昔前にはそれでもキャリア官僚を志望する東大生が多かった。定年退職後の天下りを考えれば、現役時のデメリットを補って余りあるメリットがあると考えられたためだろう。

問題は、今現在である。霞が関の官僚に占める東大卒の比率が減った現状では、出身大学で見る限り、官僚の多様化もだいぶ進んだのだろう。

さてさて、これは困った。きょうデイサから帰ってから、夕食後にでも続きを書き継ごうと思っていたが、疲れ果てて、その余力がない。「これは困った」と書かざるを得ない理由を書こうにも、その気力が湧いてこないのだ。疲労感と焦りの気持ちだけがある。う~む、困った。続きはまたあした。
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自由とは何か

2020-10-28 12:10:17 | 日記
けさ読んだブログには、「年金世代の生きがい『自由な時間』」というタイトルが付けられていた。このタイトルを見て、私はそれからずっと「自由とは何だろう?」と考えている。

まず浮かんだのが、自由とは、あれも出来る、これも出来ると思う可能性のことではないか、という考えである。人間というものは、自分に出来ないことは真面目に考えようとはしないものだ。ああ空を飛ぶことができたらなあ、などとは誰も考えたり、切望したりはしない。自由とは、自分の出来る範囲で、あれも出来る、これも出来ると思う可能性のことだと言ったほうが正確だろう。

「自分の出来る範囲」にこだわるのは、私が歳とともに「自分の出来る範囲」の狭小化を実感しているからである。昔には出来たことが、今は出来なくなった。若いころの私は、茨城県の自宅から一般道を車で夜通し運転して、秋田県までのドライブを楽しんだりしたものだが、五十路を越えてからは、そんなことも出来なくなった。

加えて私の場合は、60歳を越えた9年前、脳出血に斃れ、片麻痺の身体になったために、「出来る範囲」が極端に狭まってしまった経緯がある。自室を出て、ホイホイと気ままに街を歩くことが出来なくなった。でも、「ああ、街を自由気ままに出歩けたらなあ」と嘆いたりすることはない。出来なくなってしまったことは、ほのかな郷愁の対象になり、真摯な切望の対象ではなくなってしまったのである。

自分の出来る範囲で、あれがしたい、それともこれにしようかと迷うのは、たとえば、きょうの昼食は味噌ラーメンにしようか、それとも醤油ラーメンにしようかと迷ったり、きょうはこれからブログを書こうか、それとも書かずにテレビでも見てぼんやり過ごそうかと思ったりするときである。

ブログを書く/書かない、の例について言えば、これすら自分の自由にはならないと言うべきだろう。ブログを書いている時間と、書かずにぼんやりテレビを見て過ごす時間とを比較したとき、私は後者の時間の味気なさを想像し、ブログを書く自分の時間を――充実した自分だけの時間を、おのずと選択せざるを得ないからである。これは言ってみれば、ある種、選択の余地のない選択である。その意味では、これは運命に似ている。私が片麻痺の身体でなかったとしても、この選択は変わらないだろう。

選択の余地のないまま、私は必然の流れに乗り、決まった道へと運ばれていく。それを我々は、自分の自由な選択の結果だと思いがちだ。自由と必然との、いわく言い難いビミョーかつ奇妙な関係。うまく言えないが、自由とはそういうものではないだろうか。

今後、もし私がブログを更新しないことがあるとすれば、それは私の(選択というより)必然に対する反抗の姿勢の表明だと理解していただきたい。マンネリ化しつつあるブログ書きの時間より、天邪鬼爺は必然に反抗する自分の緊張感のほうを優先したのだと、そう理解していただきたい。
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ゼロエミッションをめざして

2020-10-27 11:36:06 | 日記
あちら立てればこちらが立たず。この不両立の関係を小池都知事ふうにシャレた言葉でいえば「トレードオフの関係」ということになる。このトレードオフ関係の端的な例が、エネルギーと地球環境の関係だろう。エネルギーの安定供給をめざせば、温室効果ガス(つまり二酸化炭素)の排出量が増え、地球の温暖化が避けられない。

きのうスガ首相は国会で所信表明演説を行い、「2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」と宣言した。このニュースを聞いたとき、妻は「どうせ原発を再稼働する口実にするんでしょ」と呟いたが、たしかに、温室効果ガスの排出をゼロにし、なおかつエネルギーを持続的・安定的に確保しようと思えば、だれもが思いつくのは、「石炭火力発電を捨てて、これを原子力発電に切り替える」というやり方だろう。太陽光発電、風力発電などの再エネ発電には発電量や供給安定性の面で問題がある。

けさネット記事に目を通していて知ったことだが、「温室効果ガス排出ゼロ」を達成するもう一つの有力な手立てがある。「排出したCO2を回収して燃料などを合成する『カーボンリサイクル』」のやり方である。この「カーボンリサイクル」が実用化されるのはまだまだ先の話だろうが、人類の未来に光明を投げかける魅力的な話ではある。

でも、もっとうまいやり方はないものだろうか、と、非凡な妄想頭をひねっていたら、一つの名案(迷案?)がひらめいた。振動のエネルギーを電気エネルギーに変換する装置を使い、人力を電力に変えればよいのではないか。

たとえば皇居ランナーと呼ばれる奇特な人種がいる。一説によれば、休日には約8,000人のランナーが皇居の周りを走り、年間では延べ150万人のランナーが走ることになるという。これらの莫大な人的リソースを利用しない手はない。皇居周辺の道路にエネルギーの変換装置を数多敷設し、150万人分の人力を効率よく電気エネルギーに変えるのだ。皇居と同じような周辺環境を全国のあちこちに作れば、延べゥン千万人分の人力が有効資源として活用できることになる。

いかがだろうか。もしイグノーベル賞の候補にノミネートされたら、私はこれを断るつもりだ。なにしろ賞金ゼロだからね。
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