「老親は子が養うべき」という風潮にモノ申す
適度な距離を保たないと家族みんなが苦しむ
適度な距離を保たないと家族みんなが苦しむ
平成30年6月9日 東洋経済オンライン
郡山 史郎 : CEAFOM代表
日本には、かつて親が定年を迎えたら子が養うという社会構造があった。日本の公的年金は賦課方式であり、現役世代の保険料が年金給付の財源となっている。子の世代が親の世代を養う構造になっているのだ。
だが、それは本質的に間違っている。中国から輸入された儒教に「孝」、すなわち「子は親を敬い、親は子を心配する」という考え方があり、その影響で日本でも親孝行が奨励されるようになったにすぎない。本来、生き物は親のためには何もしない。親は子どもの面倒をみて、子どもは孫の面倒をみる。そうやって世代交代が続いていく。親は、子の犠牲になるのが自然界の基本原理であって、子が親を養う生き物は人間だけである。
したがって、子どもは親の面倒をみなくていいし、親は子どもに面倒をみられてはいけない。介護などはしてもいけないし、されてもいけない。子どもは親の犠牲になるべきではない。もちろん私も絶対に介護されない人生を送るために、必死で抵抗している。
中略
親子関係は少し疎遠なほうがいい
一方で、親として子どもの面倒はみなければならない。子どもが頼ってきたら世話をするのが親の務めであり、自然界の生き物もそれは同じだ。理想をいえば、家族は少しくらい疎遠なほうがいい。少なくとも、子どもが独立して離れていったのに、親のほうから「遊びに来い」「孫の顔を見せに来い」などと介入するのはよくない。子どもが親のもとから離れていくのは自然なことなのだと悟り、必要以上に世話を焼くのは避けたほうが賢明だろう。
私の知人で横浜に家を買った人がいる。ところが隣の土地が空いて、そこに親が引っ越してきてしまった。仕方なく親に合鍵を渡したら、留守中でも勝手に家に入ってきてあれこれ世話を焼き、困っているとこぼしていた。「老後の面倒をみることを期待されているようで、すごく嫌だ」と彼は言っている。親としてはいつまでも子どもは子どもという気持ちだろうが、子どもの側からすれば「ありがた迷惑」だろう。
親を子が養うという儒教的な考え方がある東アジアと違って、欧米では、高齢者は社会が面倒をみるという社会構造になっている。高齢者用の住宅もあり、親は高齢になっても子どもとは別れて暮らすのがふつうだ。それで親子関係が疎遠になるかといえば、そんなことはない。クリスマスや誕生日などにはみんなで集まって楽しいひとときを過ごすし、病気など困ったときにはどんなに離れていても駆けつけてくる。
やはり子どもや孫とは適度な距離を保ち、お互いに自立するのがいちばんいい。そのためには早めに人生設計をして、定年後も仕事をしながら楽しく生きることである。
【 所 感 】
たしかに、現状わが国が措かれている社会保障環境を鑑みたならば、氏の言うこと一理あるものと思うのだが、だからといって、氏のいうこと全てが、いつの世にも通用する話ではない。然るに、一時的な対処法としてのみ、当記事を話半分で読むほうが良いだろう。
しかも、わが国における「親孝行」が、古代支那の儒教から影響を与えられたものとする、とんでも話しにはうんざりさせられる。儒教が大陸から伝わったはるか以前より、わが国は農耕民族として一家で田畑を守り、そして家を守ってきた。その中で年老いていく両親や祖父母の世話をするのは当然のこととされており、子が親を養うなどという"傲慢"なものではない。
であるから、冒頭の、「日本には、かつて親が定年を迎えたら子が養うという社会構造があった。」という氏の"かつて"とは、戦後における日本社会構造のことをいい、「世話をする」と「養う」とでは、全く意味が違ってくる。しかしながら、戦後における日本社会構造そのものが、現在の日本社会においては、まさに負の産物と成り果ててしまっているのは確かなことであり、これについては、氏の「介護などはしてもいけないし、されてもいけない。子どもは親の犠牲になるべきではない。」という意見には賛成であるが、しかし所詮は、戦争の生き残りの論に過ぎない。
なぜなら、昭和期を思えば、早くに氏の言われたことに気がつかれた中年や、お年寄りのなかには、子供に迷惑をかけまいと、ホームレスとなり余生を迎えた人も大勢いたが、それを「乞食!」といって、笑いものにしていたではないか。そんな方々に対する謝罪の言葉すらないのか、と。
そんな昭和という時代が過ぎ早30年、新しき時代を迎えようとするなかで、私たち日本人が、今後どのように繁栄してくことができるのか、そのことを、しっかりと歴史から学び、そして先人たちの言葉を思い出し、現状を打破する策を考えながら、尚且つ、未来を見据え考えることの大事さというものを忘れてはならない。
さらに、「親子関係は少し疎遠なほうがいい」という論調は、あまりに無責任でしかなく、「親を子が養うという儒教的な考え方がある東アジアと違って、欧米では、高齢者は社会が面倒をみるという社会構造になっている。」と、あくまで「子が親を養う」が前提での論であり、結果、この西欧的な家族化(核家族=ファミリー化)が進んだことにより、昨今の親族間殺人というものが、深刻な社会問題となっているのではないか。地域を破壊し、日本の伝統的家族を破壊し、尚、この期に及んでこの論調は、実に許し難い。
きっと、世間で幼き子供が実の親に殺されたニュースを見ても、何も思わないのだろう・・・、ま、それがビジネスマンの"性"かもしれないが・・・、実に嘆かわしいことだ・・・。
最後に、生意気なことを抜かしてしまいましたが、生涯ビジネスマンとして、長きに渡りわが国の経済を支えてこられた氏に対して、心からの感謝の念を捧げたいと同時に、今後の活躍を願うところでもあります。
【 ご訪問、有難うございました。 】
日本には、かつて親が定年を迎えたら子が養うという社会構造があった。日本の公的年金は賦課方式であり、現役世代の保険料が年金給付の財源となっている。子の世代が親の世代を養う構造になっているのだ。
だが、それは本質的に間違っている。中国から輸入された儒教に「孝」、すなわち「子は親を敬い、親は子を心配する」という考え方があり、その影響で日本でも親孝行が奨励されるようになったにすぎない。本来、生き物は親のためには何もしない。親は子どもの面倒をみて、子どもは孫の面倒をみる。そうやって世代交代が続いていく。親は、子の犠牲になるのが自然界の基本原理であって、子が親を養う生き物は人間だけである。
したがって、子どもは親の面倒をみなくていいし、親は子どもに面倒をみられてはいけない。介護などはしてもいけないし、されてもいけない。子どもは親の犠牲になるべきではない。もちろん私も絶対に介護されない人生を送るために、必死で抵抗している。
中略
親子関係は少し疎遠なほうがいい
一方で、親として子どもの面倒はみなければならない。子どもが頼ってきたら世話をするのが親の務めであり、自然界の生き物もそれは同じだ。理想をいえば、家族は少しくらい疎遠なほうがいい。少なくとも、子どもが独立して離れていったのに、親のほうから「遊びに来い」「孫の顔を見せに来い」などと介入するのはよくない。子どもが親のもとから離れていくのは自然なことなのだと悟り、必要以上に世話を焼くのは避けたほうが賢明だろう。
私の知人で横浜に家を買った人がいる。ところが隣の土地が空いて、そこに親が引っ越してきてしまった。仕方なく親に合鍵を渡したら、留守中でも勝手に家に入ってきてあれこれ世話を焼き、困っているとこぼしていた。「老後の面倒をみることを期待されているようで、すごく嫌だ」と彼は言っている。親としてはいつまでも子どもは子どもという気持ちだろうが、子どもの側からすれば「ありがた迷惑」だろう。
親を子が養うという儒教的な考え方がある東アジアと違って、欧米では、高齢者は社会が面倒をみるという社会構造になっている。高齢者用の住宅もあり、親は高齢になっても子どもとは別れて暮らすのがふつうだ。それで親子関係が疎遠になるかといえば、そんなことはない。クリスマスや誕生日などにはみんなで集まって楽しいひとときを過ごすし、病気など困ったときにはどんなに離れていても駆けつけてくる。
やはり子どもや孫とは適度な距離を保ち、お互いに自立するのがいちばんいい。そのためには早めに人生設計をして、定年後も仕事をしながら楽しく生きることである。
【 所 感 】
たしかに、現状わが国が措かれている社会保障環境を鑑みたならば、氏の言うこと一理あるものと思うのだが、だからといって、氏のいうこと全てが、いつの世にも通用する話ではない。然るに、一時的な対処法としてのみ、当記事を話半分で読むほうが良いだろう。
しかも、わが国における「親孝行」が、古代支那の儒教から影響を与えられたものとする、とんでも話しにはうんざりさせられる。儒教が大陸から伝わったはるか以前より、わが国は農耕民族として一家で田畑を守り、そして家を守ってきた。その中で年老いていく両親や祖父母の世話をするのは当然のこととされており、子が親を養うなどという"傲慢"なものではない。
であるから、冒頭の、「日本には、かつて親が定年を迎えたら子が養うという社会構造があった。」という氏の"かつて"とは、戦後における日本社会構造のことをいい、「世話をする」と「養う」とでは、全く意味が違ってくる。しかしながら、戦後における日本社会構造そのものが、現在の日本社会においては、まさに負の産物と成り果ててしまっているのは確かなことであり、これについては、氏の「介護などはしてもいけないし、されてもいけない。子どもは親の犠牲になるべきではない。」という意見には賛成であるが、しかし所詮は、戦争の生き残りの論に過ぎない。
なぜなら、昭和期を思えば、早くに氏の言われたことに気がつかれた中年や、お年寄りのなかには、子供に迷惑をかけまいと、ホームレスとなり余生を迎えた人も大勢いたが、それを「乞食!」といって、笑いものにしていたではないか。そんな方々に対する謝罪の言葉すらないのか、と。
そんな昭和という時代が過ぎ早30年、新しき時代を迎えようとするなかで、私たち日本人が、今後どのように繁栄してくことができるのか、そのことを、しっかりと歴史から学び、そして先人たちの言葉を思い出し、現状を打破する策を考えながら、尚且つ、未来を見据え考えることの大事さというものを忘れてはならない。
さらに、「親子関係は少し疎遠なほうがいい」という論調は、あまりに無責任でしかなく、「親を子が養うという儒教的な考え方がある東アジアと違って、欧米では、高齢者は社会が面倒をみるという社会構造になっている。」と、あくまで「子が親を養う」が前提での論であり、結果、この西欧的な家族化(核家族=ファミリー化)が進んだことにより、昨今の親族間殺人というものが、深刻な社会問題となっているのではないか。地域を破壊し、日本の伝統的家族を破壊し、尚、この期に及んでこの論調は、実に許し難い。
きっと、世間で幼き子供が実の親に殺されたニュースを見ても、何も思わないのだろう・・・、ま、それがビジネスマンの"性"かもしれないが・・・、実に嘆かわしいことだ・・・。
最後に、生意気なことを抜かしてしまいましたが、生涯ビジネスマンとして、長きに渡りわが国の経済を支えてこられた氏に対して、心からの感謝の念を捧げたいと同時に、今後の活躍を願うところでもあります。
【 ご訪問、有難うございました。 】