そんな中、恋心を抱く相手へは、"本命チョコ"といい、そうでない相手には"義理チョコ"というそうです。
ですから、本命だけなら、恋心を抱いた相手にプレゼントするだけなので、チョコレート1個で済みます。ところが義理ともなると、複数の相手にプレゼントするわけですから、相当数のチョコレートが必要となります。これって相当大変だと思われるのですが・・・。
しかし、世の女性たちは2月14日に合わせ、必要なだけのチョコレートを集めるために手作りであったりとか、有名店へ予約したりなど、その姿はまさに無我夢中の様相であります。
そこで今回は、そんな「義理」というものについて、少しばかり考えてみようかなと思います。
まず、「義」と「理」をわけて考えてみます。
「理」とは「ことわり」、「ことわり」とはすなわり自然の流れ的なもの一般を指します。
例としては、生があれば死があるようにです。
ですから、本来の「理」というものは、この世の全てが絶対に逆らうことのできないものをいい、純粋に受け入れ生きる様を「道理」といいます。
現代人的には、「理」を"場の空気"と、理解しても宜しいのかと思われますが、これを純粋に受け入れ生きることを「道理」と呼ばないようにしなければなりません。(※ 頻繁に「道理」を用いる人がいますが、大抵この類です。)
次に、「義」を考えます。
「義」というのは、私たち日本人には非常に馴染み深い文字であり、人間がこの世で生きていく上において、最低限守っていかなければならないとする概念のようなものであります。
ですから「義」という文字ひとつでは、なかなか説明がつかないと同時に、その解釈は人それぞれ違うものとなります。
例えば、中国(支那)と日本の儒学における「義」の位置づけも変わってきます。
中国(支那)では、仁・義・礼・智・信となり、「義」は仁の次に尊いものと教えられてきました。
対して日本では、冠位十二階にも見られますように、仁・礼・信・義・智と教えられ、その位置づけは全く違うものとなるのです。
ですから、「義理」という語句ひとつとりましても、その意味や解釈というのは、立場や環境の違いによっても大きく変わってくるのです。
では次に、そんな立場や環境の違う人たちがいう「義理」とはなんでありましょうか。
例えて、冒頭紹介しましたバレンタインから読みとってみようかと思います。
① 裕福な消費者の立場から・・・
これは男性・女性かぎらず、裕福な人ほどお金のかけ方もダイナミックなものとなります。また友人知人の数も沢山でしょうから、プレゼントをする量も増え、さらには高価なチョコレートだったりもします。それはある意味、見栄を張ることができるということであり、そして、そうした人のさらなる欲求がエスカレートしだすと、生産者側はその要求に応えようとさらに高価なチョコレートを世に売り出すようになります。そうした観点から、まさに「義理(チョコ)」というにはほど遠く、「見栄(チョコ)」と呼んだほうがしっくりくるのかと思われます。
ただ、2月14日限定という意味においては、その日を絶対に守らなければならない、とする気持ちを汲んであげなくてはならないかと思います。ですが、あくまでも「見栄」ですから、プレゼントされる側もいい迷惑だったりするかもしれませんね。
② 貧困な消費者の立場から・・・
一概になにをもって貧困と呼ぶのかはわかりませんが、一般的なよくテレビであったり小説に出てくるような貧困をイメージしていいんじゃないでしょうか。そしてそんな貧しい女性からしてみれば、2月14日というのは一年でもっとも嫌な日なのかもしれませんね。ですが、世間の空気には逆らえないわけでありますから、しぶしぶチョコレートを買わなければならなくなります。これは決して「見栄」なんかではありませんが、「義理」ともいえません。あるのは「理」すなわち現代人でいうところの「場の空気」だけであります。
しかしながら、そんな貧しいなかにあっても、頂いた側には「恩は返さなくてならない」とする気持ちがこみ上げてきます。
「生活が苦しくてもお世話になってる方にはプレゼントしなくちゃ!」という思いに対しては、親しい間柄の人であればあるほどに「恩返ししなくちゃ」という思いは大きくなります。さらには、こうした深い間柄であってはじめて、「義理」というものが成立すると思われます。
このように、本来の「理(ことわり)」に従えば、なにも無理してチョコレートを買うこともないのです。あくまで自然の流れ的なものがその本意でありますから、人間が作り出した押しつけの概念「場の空気」とやらに従うことなど微塵もないのです。
しかしながら、人間はひとりでは生きていくことができませんから、最低限のことは守らねばなりません。
そして、なにをもって「義理」と為すべきかを考え行動することが大切です。
そうして、ひとりひとりが本来あるべき言葉の意味を考え、実践し、間違っていれば正していけばいいだけのことであり、貧困だからといって、恥じることなど何ひとつとしてないのであります。
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