たつの市、差別解消で全国初の条例施行のワケ
差別解消推進法が2016年12月に施行されて2年。解放同盟や一部自治体による法の周知や啓発にもかかわらず、メディアがほとんど報じないこともあって、同法の具体化や活用は進んでいない。そんななか兵庫県たつの市が同法を受けて全国初の条例を今年4月に施行。11月16日に同市差別解消推進審議会を発足させ、実態調査や基本計画策定の取り組みを始めた。
問題に関する法律としては、1969年に施行された同和対策事業特別措置法が名称を変えて2002年3月まで33年にわたって存続した。特別措置法の期限切れ後、法の空白状態が続くなかで国や自治体による施策の後退が目立った。同和教育は00年に人権教育・啓発推進法が制定されたものの人権全般の中に解消され、学校教育で問題を学ばない世代が増えている。
一方、12年11月の衆議院解散で民主党政権による人権委員会設置法案が廃案になったあと、自民党政権は個別法による対応を打ち出し、「障害者差別」「ヘイトスピーチ」に続き、「差別」についても三つ目の解消推進法として、いずれも16年度に施行された。
差別解消推進法は、現在もなお差別が存在し情報化の進展に伴って差別の状況に変化が生じているとしたうえで、「基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、差別は許されない」と規定。法律で初めて「差別」の表現が用いられた意義は大きい。罰則などを伴わない理念法だが、「差別の解消に関する施策」を国や自治体の責務とし、相談体制の充実、教育・啓発の実施、差別の実態調査を挙げている。
たつの市差別解消推進条例案は17年12月の市議会で全会一致で可決された。条例は法の目的と理念を踏まえて「差別のないたつの市を実現する」とし、市の責務として法が挙げている三点のほかに差別解消推進基本計画の策定、審議会の設置などを明記している。11月16日開会の審議会(会長 根本親良・たつの市民主化推進協議会会長)では、山本実市長から基本計画策定の諮問を受けて審議。今年度中に差別の実態・意識調査の素案を作成、来年度に調査を実施して基本計画の策定に着手することを決めた。
【交流による差別解消へ】
では、同市がなぜ全国の自治体に先駆けて条例を制定することになったのか。そこには審議会会長の選出母体である民主化推進協議会の存在が大きい。同協議会は解放同盟と協力しながら同和対策事業を推進するため1973年に発足。自治会を中心にPTA、婦人会、老人会、企業、行政などの各専門部会を設け、部会ごとに新任教職員、保護者、会社員らの人権研修を実施している。地域の隣保館や集会所では、学習や音楽、スポーツ、リクリエーションなどの講座や催しに地区内外の大人や子どもたちが参加し、交流することで偏見や差別の解消につながっている。こうした成果は小学校区ごとに設けた各支部が集まって毎年開く人権教育実践発表会で各地域の取り組みとして報告される。
こうした活動にもかかわらず、差別は一向に減らない。2015年に同市内の中学校で3年生の生徒が被差別出身教師に対し「エッタ」などの差別語を浴びせた事件は関係者に衝撃を与えた。結婚などに伴い被差別の所在地を市役所に問い合わせるケースは毎年のように発生している。インターネット上の差別やヘイトスピーチも跡を絶たない。なかでも市内の被差別を写真入りで解説し出身者の個人名を暴露するなどの悪質な書き込みについて昨年11月の市会議員や市職員の人権研修で紹介されると、条例制定への機運が一気に高まった。
だが、全国的には自治体による条例化はあまり進んでいない。解放同盟中央本部によると、新たな条例は、たつの市に次いで兵庫県加東市が制定し、既存の条例を法に合わせて改正した自治体は約20市町になるという。
(平野次郎(同一人物化は分かりませんが)・フリーライター、2018年11月30日号 月刊金曜日)
問題に関する法律としては、1969年に施行された同和対策事業特別措置法が名称を変えて2002年3月まで33年にわたって存続した。特別措置法の期限切れ後、法の空白状態が続くなかで国や自治体による施策の後退が目立った。同和教育は00年に人権教育・啓発推進法が制定されたものの人権全般の中に解消され、学校教育で問題を学ばない世代が増えている。
一方、12年11月の衆議院解散で民主党政権による人権委員会設置法案が廃案になったあと、自民党政権は個別法による対応を打ち出し、「障害者差別」「ヘイトスピーチ」に続き、「差別」についても三つ目の解消推進法として、いずれも16年度に施行された。
差別解消推進法は、現在もなお差別が存在し情報化の進展に伴って差別の状況に変化が生じているとしたうえで、「基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、差別は許されない」と規定。法律で初めて「差別」の表現が用いられた意義は大きい。罰則などを伴わない理念法だが、「差別の解消に関する施策」を国や自治体の責務とし、相談体制の充実、教育・啓発の実施、差別の実態調査を挙げている。
たつの市差別解消推進条例案は17年12月の市議会で全会一致で可決された。条例は法の目的と理念を踏まえて「差別のないたつの市を実現する」とし、市の責務として法が挙げている三点のほかに差別解消推進基本計画の策定、審議会の設置などを明記している。11月16日開会の審議会(会長 根本親良・たつの市民主化推進協議会会長)では、山本実市長から基本計画策定の諮問を受けて審議。今年度中に差別の実態・意識調査の素案を作成、来年度に調査を実施して基本計画の策定に着手することを決めた。
【交流による差別解消へ】
では、同市がなぜ全国の自治体に先駆けて条例を制定することになったのか。そこには審議会会長の選出母体である民主化推進協議会の存在が大きい。同協議会は解放同盟と協力しながら同和対策事業を推進するため1973年に発足。自治会を中心にPTA、婦人会、老人会、企業、行政などの各専門部会を設け、部会ごとに新任教職員、保護者、会社員らの人権研修を実施している。地域の隣保館や集会所では、学習や音楽、スポーツ、リクリエーションなどの講座や催しに地区内外の大人や子どもたちが参加し、交流することで偏見や差別の解消につながっている。こうした成果は小学校区ごとに設けた各支部が集まって毎年開く人権教育実践発表会で各地域の取り組みとして報告される。
こうした活動にもかかわらず、差別は一向に減らない。2015年に同市内の中学校で3年生の生徒が被差別出身教師に対し「エッタ」などの差別語を浴びせた事件は関係者に衝撃を与えた。結婚などに伴い被差別の所在地を市役所に問い合わせるケースは毎年のように発生している。インターネット上の差別やヘイトスピーチも跡を絶たない。なかでも市内の被差別を写真入りで解説し出身者の個人名を暴露するなどの悪質な書き込みについて昨年11月の市会議員や市職員の人権研修で紹介されると、条例制定への機運が一気に高まった。
だが、全国的には自治体による条例化はあまり進んでいない。解放同盟中央本部によると、新たな条例は、たつの市に次いで兵庫県加東市が制定し、既存の条例を法に合わせて改正した自治体は約20市町になるという。
(平野次郎(同一人物化は分かりませんが)・フリーライター、2018年11月30日号 月刊金曜日)
【 所 感 】
筆者がまだ未成年だったころの話ですが、友人数名と近所の居酒屋さんへ晩御飯を食べに行きました。
店内に入ってすぐの座敷では人相の悪いおっちゃん二人が呑んでいました。筆者たちは静かにカウンターに座り、「お前何食べる~?」と小さな声で注文する品を考えていました。
すると座敷に座っていたおっちゃんが、「おう、ワレどこのもんじゃ?」と筆者の顔を見るのです。
「え?俺ですか?」と尋ねると「そうじゃ」といわれ、「〇〇です」と答えると
「なんやワレ、エッタか?」と高笑いされたのです。
さすがにキレそうになった筆者が、「それが何か?」と聞きただすと
「ハハハ、ワシも△△でヒニンや!まぁ一杯呑めや!!」と言われ、座敷に筆者ひとり誘われ、お猪口を差し出されました。
何がなにやら分からない筆者は、しばらくボーっとしていました。
すると、「アホか!ついでもらうときは持つんや!!」といわれ、慌ててお猪口を掴み、お酒をついでもらい、「ほれっ!一気にいかんかい!」
といわれ、グーーッとお酒を呑み干しました。
と、筆者の若いころの思い出話しのひとつではありますが、その頃から「ほんまに差別とかってあるんかいな?」という疑問を抱くようになったのです。幼いころより「同和教育」を徹底的に施され、一般人は差別するもんや!と叩き込まれていましたから、それまでの一般人に対する劣等感は凄まじいものでありました。
もちろん筆者自身、いわゆる「差別」を受けたこともあります。当時付き合っていた女の子の親御さん(当時、社会科の教師)に、地区に暮らしているという理由だけで大反対されたこともありました。しかし、解放同盟にそのことを言うのは止めました。何故かはわかりませんが、ふと、言うべきではないと感じたからであります。
そんなこんなで、いつしか差別という言葉も聞かなくなり、日本社会全体も「なんて関係ないよ」的な風潮になってきたと感じておりました。
しかし、なにやら新しい「差別」が生み出されようとしていたのです。そう、男女共同参画に代表されるような「女性差別」や「障碍者差別」といった類のものたちであります。
そのころになると(15年ほど前)、携帯電話などで容易くネットも見れるように、自分なりに「差別」というものを考えてみようと思い、あらゆるサイトや文献を探りました。
その結果、江戸時代に制定された「士農工商」から始まったとされる差別ではありますが、筆者の見解はまったく違ったものとなったのです。
それは、士農工商自体は役割であり、エタ・ヒニンというのもひとつの役割でありました。特にエタ、ヒニンの方々は一般の人たちが嫌がるような仕事を生業としていました。とくに衛生的なものをです。江戸時代の町々は衛生的に優れていたことは、過去のあらゆる文献でも紹介されていますが、そうしたことを念頭に置き考えると、エタ、ヒニンといわれる人たちは、それ以外の階級の人たちからは厚く感謝されていたことになるわけです。
衛生、土木、建築、それ以外に火消しなど職種は様々です。
そして、ふと思い出したのが、「なんやワレ、エッタか?ワシはヒニンや!」といったおっちゃんの一言です。もしかすると、「エタ・ヒニン」という言葉は、江戸時代に他人の嫌がる仕事をやってきた人たち自らが、互いに言い合った言葉ではないのだろうか?これはもしかすると、謙虚さの中から生み出された言葉ではないだろうか?と。
現在においても日本人の多くは、謙虚さや控え目さをアピールします。当然、当時の人たちにも謙虚さや控え目さはあったはずであります。
しかしながら、そうした類の文献などは何も残っていませんし、あくまで筆者の憶測に過ぎないわけで、これまで沈黙を保ってきました。
ですが今回の月刊金曜日の記事を読み、またども「差別」なるものがメディアやその他媒体を使い世の中を賑わすことになれば、日本は大変な事態に陥ってしまうことにもなりかねません。
それは、明治期になり自由民権運動がおこると、それまで平等社会だったものが階級闘争の流れへと飲み込まれ、その後100年以上も続く差別が生み出されてしまったように…。
筆者がよくいう「差別(格差)のないところに差別(格差)を生む」とは、まさに「差別」を自らの利益にしようとするものたちへの警告であり、また我々日本人自身が騙されてはいけないという想いからでもあり、そしてその真意というものを、初めて明らかにしようと思った次第であります。
決して、同じ過ちを繰り返さないためにも、そして、「エタ・ヒニンとは決して差別用語ではない!!」と改めて豪語し、先人先祖たちの名誉が回復されることを願うばかりであります。
※ その他、同じの方々がいう、「コチャマエ」や「テンノウ」なども、その言葉の発祥を調べたことはありませんが、決して差別用語ではないと豪語しとこうと思います。
【 ご訪問、有難う御座いました。 】
筆者がまだ未成年だったころの話ですが、友人数名と近所の居酒屋さんへ晩御飯を食べに行きました。
店内に入ってすぐの座敷では人相の悪いおっちゃん二人が呑んでいました。筆者たちは静かにカウンターに座り、「お前何食べる~?」と小さな声で注文する品を考えていました。
すると座敷に座っていたおっちゃんが、「おう、ワレどこのもんじゃ?」と筆者の顔を見るのです。
「え?俺ですか?」と尋ねると「そうじゃ」といわれ、「〇〇です」と答えると
「なんやワレ、エッタか?」と高笑いされたのです。
さすがにキレそうになった筆者が、「それが何か?」と聞きただすと
「ハハハ、ワシも△△でヒニンや!まぁ一杯呑めや!!」と言われ、座敷に筆者ひとり誘われ、お猪口を差し出されました。
何がなにやら分からない筆者は、しばらくボーっとしていました。
すると、「アホか!ついでもらうときは持つんや!!」といわれ、慌ててお猪口を掴み、お酒をついでもらい、「ほれっ!一気にいかんかい!」
といわれ、グーーッとお酒を呑み干しました。
と、筆者の若いころの思い出話しのひとつではありますが、その頃から「ほんまに差別とかってあるんかいな?」という疑問を抱くようになったのです。幼いころより「同和教育」を徹底的に施され、一般人は差別するもんや!と叩き込まれていましたから、それまでの一般人に対する劣等感は凄まじいものでありました。
もちろん筆者自身、いわゆる「差別」を受けたこともあります。当時付き合っていた女の子の親御さん(当時、社会科の教師)に、地区に暮らしているという理由だけで大反対されたこともありました。しかし、解放同盟にそのことを言うのは止めました。何故かはわかりませんが、ふと、言うべきではないと感じたからであります。
そんなこんなで、いつしか差別という言葉も聞かなくなり、日本社会全体も「なんて関係ないよ」的な風潮になってきたと感じておりました。
しかし、なにやら新しい「差別」が生み出されようとしていたのです。そう、男女共同参画に代表されるような「女性差別」や「障碍者差別」といった類のものたちであります。
そのころになると(15年ほど前)、携帯電話などで容易くネットも見れるように、自分なりに「差別」というものを考えてみようと思い、あらゆるサイトや文献を探りました。
その結果、江戸時代に制定された「士農工商」から始まったとされる差別ではありますが、筆者の見解はまったく違ったものとなったのです。
それは、士農工商自体は役割であり、エタ・ヒニンというのもひとつの役割でありました。特にエタ、ヒニンの方々は一般の人たちが嫌がるような仕事を生業としていました。とくに衛生的なものをです。江戸時代の町々は衛生的に優れていたことは、過去のあらゆる文献でも紹介されていますが、そうしたことを念頭に置き考えると、エタ、ヒニンといわれる人たちは、それ以外の階級の人たちからは厚く感謝されていたことになるわけです。
衛生、土木、建築、それ以外に火消しなど職種は様々です。
そして、ふと思い出したのが、「なんやワレ、エッタか?ワシはヒニンや!」といったおっちゃんの一言です。もしかすると、「エタ・ヒニン」という言葉は、江戸時代に他人の嫌がる仕事をやってきた人たち自らが、互いに言い合った言葉ではないのだろうか?これはもしかすると、謙虚さの中から生み出された言葉ではないだろうか?と。
現在においても日本人の多くは、謙虚さや控え目さをアピールします。当然、当時の人たちにも謙虚さや控え目さはあったはずであります。
しかしながら、そうした類の文献などは何も残っていませんし、あくまで筆者の憶測に過ぎないわけで、これまで沈黙を保ってきました。
ですが今回の月刊金曜日の記事を読み、またども「差別」なるものがメディアやその他媒体を使い世の中を賑わすことになれば、日本は大変な事態に陥ってしまうことにもなりかねません。
それは、明治期になり自由民権運動がおこると、それまで平等社会だったものが階級闘争の流れへと飲み込まれ、その後100年以上も続く差別が生み出されてしまったように…。
筆者がよくいう「差別(格差)のないところに差別(格差)を生む」とは、まさに「差別」を自らの利益にしようとするものたちへの警告であり、また我々日本人自身が騙されてはいけないという想いからでもあり、そしてその真意というものを、初めて明らかにしようと思った次第であります。
決して、同じ過ちを繰り返さないためにも、そして、「エタ・ヒニンとは決して差別用語ではない!!」と改めて豪語し、先人先祖たちの名誉が回復されることを願うばかりであります。
※ その他、同じの方々がいう、「コチャマエ」や「テンノウ」なども、その言葉の発祥を調べたことはありませんが、決して差別用語ではないと豪語しとこうと思います。
【 ご訪問、有難う御座いました。 】