前回ブログでは「差別(格差)のないところに差別(格差)を生む」と題した筆者の考えを述べてみましたが、それはあくまで差別()を受けた側からの話しでありましたから、今回は、視点をさらに広げて考えてみようかなと思います。
筆者が未成年だったころ、3つ年上の友人女性(当時19歳)が訪れ、「このあいだ、事故を起こして慰謝料と働けない分の日当代払えって言われてんけど、どうしよう!!」といい号泣するのです。
「どこのだれや?どこで事故したん?」と問いかけると、筆者の自宅からなんぼも離れていないことが判明し、「わかったよ。一度おかんにいうてみるわ」と、二人で母が仕事から帰ってくるのを待つことにしました。
母が帰宅し、事の事情を話すと、「よっしゃ!ほんだらいまからそこ行こか。〇〇ちゃんはここで待っとくんやで」
といって、筆者は母に連れられ、事故した相手先の自宅へいくことになりました。
「久しぶりやな、ちょっとこの間の事故のことで話しがあるんやけど」と母が話を切り出すと、『あ~あれ、姉んとこの知り合いやったん?』「せやねん、うちの息子の友達やねん。息子んとこにその子が相談しにきてな、ほんでうちがそれを聞いて、窺いに来させてもらってん。」『あ~なるほど。』「ほんで事故の具合はどやねん?どうせ大したことないんやろ?」『ちょっと車同士こすっただけですわ』「ほんだらそない請求することもないな」『確かに…』「今回はうちに免じて許したってくれるか?」『そんなん、姉が言うんやったら全然かまひんよ。こっちも言い過ぎなとこもあったし…』「わかってくれたんやったらおおきに。せやけどあんたら、まだそんなことやっとるんやな?ええ加減"ゆすり"みたいなことやめや!」『はい…』「はっきりいうてみっともないで!そんなことするさかいに、この辺ガラ悪いとか言われるんや。真面目にしとる人もええ迷惑や!」『すんません…もうやめときます…』
帰宅途中、母が筆者に、「あの子らな、有名やねん。自分がやからってすぐに相手脅かしてな。」『ふ~~ん。悪い人らやな…せやけど警察に言うたらあかんの?』「そんなん警察なんか頼んない!いうだけでなんもせえへん、脅かされた方は泣き寝入りするしかないんやで…」
その後、筆者が成人となり「差別」というものを色々調べていくうちに「特権(利権)」という文字を初めて目にすることになりました。この特権を簡単に説明しますと、例えば、保育園料がその他地域に暮らす人たちよりも安かったり(無料という自治体も…)、安い賃料で公営住宅に住めたり、それ以外には、他の地域よりも先じて道路や住宅が整備(改良)されたりなど、各自治体はこの特権のために莫大な費用を費やしたことには間違いありません。確かに地区が改良され、交通や暮らしが安全・安心・安定になることは良いことだとは思います。しかし最大の問題点なのが、「特権」を悪用し、上にも紹介したような、一個人に対し悪質ともいえる賠償請求を強要する輩がいたことであります。
前回のブログでも申したように、本来わが国には「差別」などという概念も事実もありませんでした。しかし、明治期に始まった自由民権運動によって、差別なるものが生み出され、そのことで「エタ・ヒニン」と言われた人たちが、実際に差別されることになったわけです。
火を着けた者が、火事だと叫び、そして全く関係のない人を犯人にする、たとえが下手かも知れませんが、まさにこうしたことが100年余りこの国で続けられてきたわけですが、多くの解放同盟に参加されていた方々は、そんな絵に描いた餅だとも知らずに、真剣に差別をなくそうと活動されてきました。その結果として「特権」が誕生したわけであります。
このことからも特権というのは、戦後日本社会にあってはある意味、語弊があるかもしれませんが成功例のひとつと考えられるわけで、この流れをそのまんま引き継いだのが、現在でいうところの『フェミニズム』であり、活動される人たちのことを『フェミニスト』と普段、筆者は使い分けしております。
ですからフェミニズム(特権階級思想)に対しては徹底的に批判します。しかしフェミニストに対しては批判はしません。(過激なものは絶対にダメですが)、なぜなら、かつて筆者も解放同盟に参加していた時期もあり、真剣に差別をなくそうとしていたからであります。それは現在、なんら一切の団体にも参加してませんが、その想いはフェミニストと呼ばれる人たちと変わらないのです。
「差別」は決してあってはなりません。しかし差別のないところに差別を生み出すことは、「差別」そのものよりも遥かに許し難いのです。そのことを、現在差別や格差ををなくそうと懸命に活動されている人たちには是非とも気が付いていただきたいのです。
火を着けた者が、火事だと叫び、そして全く関係のない人を犯人にする、まさに「罪のないところに罪をつくる」であります。
そして、そんな罪なき罪を背負わされた人たちをさらに攻撃する…、なんてことはひとりの日本人として絶対に出来ません。なによりも火を着けた者を警察などが徹底的にあぶりだし、法によって裁くことこそが本来の民主主義の在り方なのですから。ですが、差別やその他古くに生み出されてしまった階級や格差の事実を解明することはできません。ですからひとりひとりが歴史の重みというものを深く感じ、当時の人たちの想いに達しなければならないのです。金で買われ、偏った知識人や学者のいう歴史認識ではあまりに頼んないわけですからね。我々自身が考える…やむをません…。
と、あれこれ述べてみましたが、やはり一部の特権階級のために活動するのではなく、広く日本人そのものの権利のために活動することこそが、老若男女およびそれ以外の困っている人すべてを救済することにも繋がるのだと筆者は信じてやみません。そしてやがては世界平和にも貢献できるようになるのです。
現在わが国では、多くの格差が助長され、それが差別となり、罪なき人が大罪を背負わされようとしている現実社会を、決して見逃してはならないですし、腐敗の上にさらに腐敗してしまった政・官・財の連中がこの日本国を、というよりも日本人そのものを、どういった方向へ向かわせようとしているのか、注意深く見守る必要があるものと思います。
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