夏目漱石「仕事は他人目線と自分目線のどちらで進めるべきか」 110年前に講演
10/10(日) 18:30配信
明石で講演する前年の夏目漱石(新宿区立漱石山房記念館提供)
文豪・夏目漱石(1867~1916年)が、兵庫県明石市相生町の市立中崎公会堂(旧明石郡公会堂)で講演してから今夏で110年が過ぎた。「道楽と職業」と題した話は、仕事は他人目線または自分目線のどちらで進めるのが望ましいのか-など、現代に暮らす私たちにとっても興味深いテーマについて答えを導き出している。漱石はこの訪問を生かし、翌年に連載した小説「彼岸過迄(すぎまで)」に明石の地の風景描写を盛り込んでいる。(長尾亮太) 【写真】「村上春樹ライブラリー」完成 母校・早稲田大で会見「新しい文化の発信基地に」 朝日新聞社で小説を書いた漱石は、講演前年の1910(明治43)年に胃潰瘍を悪化させて一時、意識不明となる。体調が戻りつつある中、大阪朝日の依頼で行った関西巡回講演の最初が、明石郡教育会などが主催した講演だった。 11年8月13日の午後。西日が照りつける公会堂に、漱石の話を聞こうと千人余りが詰め掛けたという。 <strong>明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまで知りませんでした。(中略)来てみると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやるのだと人から教えられてはじめてもっともだと思いました</strong> 講演は公会堂の立派さを褒めて始まり、文明が進むにつれて「職業」が細かく分かれ、専門的になったことを紹介した。その上で、仕事の報酬が決まる仕組みを次のように解説した。 <strong>人よりも自分が一段と抜きんでている点に向かって人よりも仕事を一倍して、その一倍の報酬に、自分に不足した所を人から自分に仕向けてもらって相互の平均を保ちつつ生活を持続する</strong> 頑張って人のために働くほど、自分もぜいたくできる余裕が生まれるとして、人のために働く心構えの大切さを強調した。 一方で、職業が細かく分かれることで生まれる弊害にも触れた。狭い専門分野で、生存競争のために時間と根気を費やすと、一般的な知識が欠けた人間になるというのだ。人びとは孤立し、互いを知ることのできる知識も同情も起こらなくなるという。そこで漱石が講演の聴衆に勧めたのが、文学書を読むことだった。 <strong>多くの一般の人間に共通な点について批評なり、叙述なり試みたものであるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々の人間を赤裸々に結び付けて、そうしてすべての他の障壁を打破するものであります</strong> 小説を書くことをなりわいとする漱石が、このように文学の意義をひもといたところで、講演は終盤に差し掛かる。 あらためて、人のためにすることが自分の報酬になる-との職業の性格に触れ、自分を曲げて人に従わなくてはならないつらさもあると説く。このように職業全般を「他人本位」のものと位置づける半面、「自分本位」でなければ成り立たない職業もあるとした。それが漱石もその一人である芸術家や科学者だという。 <strong>芸術家で己のない芸術家はセミの抜け殻同然で、ほとんど役に立たない。(中略)ただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神がこもるはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです</strong> 芸術家の仕事は道楽であり、自分を曲げてはならない半面、社会の反響がなければ立ち行かない-。漱石はそんな自身の仕事に対する自負心を見せ、講演を締めくくった。 漱石に詳しい中島国彦・早稲田大名誉教授は「わずか1時間ちょっとの講演だが、よく読んでみると、小説を書くとはどういうことか-など漱石が生涯向き合ったさまざまなテーマがうかがえる」と指摘する。 ◇ 漱石が講演の翌12年に連載した小説「彼岸過迄」では、登場人物が旅先の明石から送った手紙に、次のようなくだりが出てくる。 <strong>白帆が雲のごとく簇(むらが)って淡路島の前を通ります。反対の側の松山の上に人丸の社(やしろ)があるそうです</strong> 漱石について調べるため2015年に中崎公会堂を訪れた長島裕子・秀明大客員教授は「講演前夜に着き、当日の夜に出発した漱石の明石滞在は23時間。人と面会するなど忙しく、残された日記が短いのもうなずける。ただ、その滞在体験を思い出しながら書いた描写は思いのほか豊かで、目を見張らされる」と評す。 ■夏目漱石の生涯 1867年(0歳)-江戸の牛込馬場下横町に生まれる 1890年(23歳)-帝国大学文科大学英文学科に入学 1900年(33歳)-イギリス留学(~02年) 1903年(36歳)-東京帝国大学英文学科の講師となる 1905年(38歳)-初の小説「吾輩は猫である」発表 1906年(39歳)-「坊ちゃん」発表 1907年(40歳)-東京朝日新聞社に入社 1910年(43歳)-胃潰瘍の療養先の伊豆で一時、意識不明となる 1911年(44歳)-関西巡回講演を行い、明石で「道楽と職業」と題して講演 1912年(45歳)-「彼岸過迄」連載。作中に明石が登場 1916年(49歳)-死去 (新宿区立漱石山房記念館の冊子など参照) 【明石市立中崎公会堂(旧明石郡公会堂)】現在の神戸市垂水区、西区を含む旧明石郡の集会施設として1911(明治44)年に完成し、こけら落としとして夏目漱石の講演が行われた。明石海峡に面し、白砂青松の地として知られた「中崎遊園地」の東端に立地。埋め立て工事前の当時は、海岸線が今より約160メートル北に延び、公会堂の目の前には波打ち際が迫っていた。講演前夜に漱石が泊まった衝濤(しょうとう)館は、現在も遊園地内に立っている。公会堂は市内に残る最古の公共施設。