中日の与田剛監督が語っていた退任真相
10/13(水) 9:32配信
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3年指揮を執った中日の与田監督の退任が決定した。後任は”ミスタードラゴンズ”の立浪和義氏(写真・黒田史夫)
中日は与田剛監督(55)の退任と次期監督として球団OBの“ミスタードラゴンズ”立浪和義氏(52)に就任要請をしたことを明かした。与田監督は2019年に監督就任。1年目が5位、昨年は3位に入り8年ぶりのAクラス入りを果たしたが、3年契約の3年目の今季は優勝争いに参加できずBクラスに低迷。辞意を申し入れ、12日の試合前に選手にも退任を伝えた。実は、筆者の取材に対して、与田監督は「3年間優勝争いができずに、ファンの期待にも応えられなかった。悔しさはあるが、結果を残せなかったすべての責任は監督にある」と理由を説明していた。
「1年勝負。すべて僕の責任」
覚悟はできていた。10月に暦が変わったばかりの上旬…与田監督は、筆者の取材に対して辞意を漏らした。その段階ではシーズンが終わるまで沈黙を守る考えであることを明かしていたが、進退問題や次期監督に関する報道が出始めたため、加藤球団代表と話し合った上、ドラフト会議が終わり今季の本拠地最後の3連戦のカードを前にしたタイミングでの発表となった。 「結果がすべての世界。ファンの期待に応えることが出来なければユニホームを脱ぐ。それは覚悟の上でやってきたこと」 試合前のミーティングで今季限りの退任を選手全員に伝えたが、多くは語らなかった。 「監督になるときに選手が指導者に不安や不信感を抱かないようにできるだけ黙って見守ることを決めた。それが僕の監督としてのスタイル」 最後まで哲学を貫いた。 3年契約の3年目に優勝争いに絡めなかった。 「3年契約をしたが、この世界は、その途中で解除ということも珍しくない話。1年、1年が勝負という気持ちでやってきた。1年が終わった段階で、フロントと僕のお互いの意見があえば、次の1年があり、それがあわなければ終わるということ。これ(退任)は、いつか必ずくることで、結果を出せなかったのは、すべて僕の責任なんです」 異常とも言える得点力不足に苦しんだ。他の5チームは500点台に乗っているチーム得点数は391点、同じく他チームがすべて100本台に乗っているチーム本塁打数も69本で、得点、本塁打、打率ですべてリーグワースト。得点力不足を補うためのプラスアルファで考えていた機動力も、盗塁数57はリーグ5位となっている。 京田や昨年が終わった段階で「巨人や広島でもレギュラーを張れる」と与田監督が認めていた高橋らのきなみ不振。春先には、成長を期待した3年目の根尾を起用したが、伸び悩み、2年目の石川は、故障離脱。新外国人として補強したガーバーが、打率1割台のゼロ本塁打で、わずか12試合の出場に留まり、ロッテとの緊急トレードで獲得した加藤も戦力にはならなかった。
巨人OBでヤクルト、西武で監督を務め、現役時代の与田監督を指導したこともある“球界大御所“の広岡達朗氏は「与田は投手陣を整備してよくやった。フロントが外国人打者の補強や即戦力のドラフトに失敗した。この戦力で勝てというほうが無理だ」と低迷の責任を与田監督だけに押し付けるフロントを批判した。 もしヤクルトのサンタナ、オスナの2人が中日に来ていればAクラス入りも可能ではなかったか。 だが、与田監督はフロントに対する不満を一度として口に出したことはない。 「チームを立て直すタイミングで監督として声をかけてもらった。FA補強ができないことや外国人に何億円もの予算をかけられないという球団の事情もわかっていたし、誰かが任される使命。“ありがたくやらせてもらいます“と監督を引き受け指揮を執った。それが運命。選手がいる、いないの愚痴や不満を口にするような暇があれば、今いる69人の支配下選手を少しでも、いい形にすること、そして勝つことだけを考えてきた。指導者をどう動かすかということに加え、選手をどうやる気にさせるかが大事だった。ただやる気になってもうまくいかないこともある。僕のやり方に不満を持つ選手やコーチもいたと思う」 一方で投手陣を立て直した。チーム防御率はリーグトップ。スランプに陥っていた大野を沢村賞を獲得するまでに復活させ、2年目は、福、祖父江、マルティネスの勝利方程式を確立した。12日のヤクルト戦で11勝目をあげた柳は防御率、奪三振もトップで、投手3冠を狙える位置にあり、6年目の小笠原も負けが先行しているが、1本立ちした。 「僕の力というより、1、2軍スタッフの能力と努力のおかげ。感謝している」と共に戦ってきたコーチ陣の指導能力を称えた。 ”三ツ間の代打事件”に象徴されるように監督としての采配に拙さも露呈。ネット上では痛烈な批判も受けた。楽天でコーチ経験はあったが与田監督も「監督は初めてで、全部がうまくいくとは思っていなかったが、やりながらでないとわからないことがたくさんあった。本当に監督は難しい仕事」と素直に反省を口にした。球団としては、監督経験のない与田監督に元西武、元ロッテ監督の伊東ヘッドを付けることでフォローしようと考え、今季はサインの一部を伊東ヘッドに任せていたが、その連携はうまく機能しなかった。 谷繁監督が、3年連続Bクラスに終わり、次の森監督も2年連続で5位に低迷する中でバトンを受けた。いわゆる“落合一派“がチーム内から一掃され、球団として転換期を迎えた中での監督就任だった。 土台作りがテーマであり、ドラフトでは3年続けて1位で高校生を指名した。 阪神では後半失速しているが、佐藤が23本塁打、中野がショートのレギュラーを奪い、伊藤将がローテーションの一角を任されるなど即戦力ルーキーが戦力になった。横浜DeNAの牧も新人王争いをするほどの結果を残しているのを見ると、ドラフト戦略の失敗も響いたようにも思えるが、与田監督は、あえて種をまき、水をやることに心血を注いだ。
「何年も続けて監督をやるわけではない。就任するときに次の監督にどうバトンを渡すのかを考えていたし、フロントともそういう話をしてきた。だから3年間、ドラフトでも即戦力を1位で取らずに根尾、石川、高橋と高校生を取ってきた。フロントも含めた、みんなで話をして最低ファームで2年間は基礎体力をつけさせようという方針でやってきたが、なかなか思い通りにならかったことも多かった。ドラフトも含め、すべてにおいて球団はよくやってくれたと思う。感謝の気持ちしかない」 次期監督は“ミスタードラゴンズ“の立浪氏である。 球団は“ポスト与田”の準備段階として今春キャンプでは臨時コーチに就任させた。 「タツ(立浪)は選手としての実績もあり、ファンの人気もある。個人的に好きな人間。いい形でのバトンタッチはできなかったが、頑張ってもらいたい」 与田監督は、そうエールを送った。 与田監督は、優勝という結果は残せなかったが、次の立浪政権への土台となる確かな”遺産”は残した。球団は、与田監督の功績を認め何らかのフロントのポストを用意し、引き続き協力を仰ぎたい方針だという。