2年ほど前 がドラゴンズに来るとは思わなかったので
とてもいい思いをさせていただいた
これだけいろいろな人に愛される選手もいないと思う
また引退したら 中日ドラゴンズの コーチ OR 監督に・・・
待ってまーす!!
重度の聴覚障害(ちょうかくしょうがい)のある人に音を聞こえるようにする装置が人工内耳です。音を増幅する補聴器(ほちょうき)とちがい、音を電気信号にかえ、直接、聴神経(ちょうしんけい)に伝えます。体外装置と耳の後ろの皮膚の下に植え込むインプラントからなっています。
体外装置には、マイクロホンやスピーチプロセッサ、送信コイルがあります。外耳にかけたマイクロホンが音(空気の振動)を拾い、スピーチプロセッサというコンパクトな装置に送り、音を大きさや高低などによって電気的に処理します。こうして処理された信号は、送信コイルを通して、インプラントに伝わります。
インプラントは受信器と多数の電極でできています。受信器は側頭骨(そくとうこつ)にくぼみをつくって植え込まれ、電極は蝸牛(かぎゅう)に挿入されて聴神経を刺激します。この刺激が脳に伝わって、音と認識されるわけです。
植え込み手術のために2~4週間入院し、装着後は、2~3か月のリハビリテーションが必要です。植え込んだ部分に強い衝撃を与えないように注意すれば、とくに日常生活に問題はありません。
人工内耳の適応となるのは、生後に両方の内耳(ないじ)の機能を失った人で、補聴器が有効でない人です。人工内耳の装用については、担当の医師と十分相談して決定してください。
体外装置には、マイクロホンやスピーチプロセッサ、送信コイルがあります。外耳にかけたマイクロホンが音(空気の振動)を拾い、スピーチプロセッサというコンパクトな装置に送り、音を大きさや高低などによって電気的に処理します。こうして処理された信号は、送信コイルを通して、インプラントに伝わります。
インプラントは受信器と多数の電極でできています。受信器は側頭骨(そくとうこつ)にくぼみをつくって植え込まれ、電極は蝸牛(かぎゅう)に挿入されて聴神経を刺激します。この刺激が脳に伝わって、音と認識されるわけです。
植え込み手術のために2~4週間入院し、装着後は、2~3か月のリハビリテーションが必要です。植え込んだ部分に強い衝撃を与えないように注意すれば、とくに日常生活に問題はありません。
人工内耳の適応となるのは、生後に両方の内耳(ないじ)の機能を失った人で、補聴器が有効でない人です。人工内耳の装用については、担当の医師と十分相談して決定してください。
松坂大輔、最後の登板は四球 観客へ「感謝」最速118キロの5球 肩、肘に注射打ち貫いたボロボロの美学
10/19(火) 17:47配信
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<西・日>引退試合で力投する松坂(撮影・尾崎 有希)
◇パ・リーグ 西武─日本ハム(2021年10月19日 メットライフD) 今季限りで現役を引退する西武の松坂大輔投手(41)が19日の日本ハム戦(メットライフドーム)に先発登板。日米通算377試合目の引退登板で、横浜高の後輩でもある日本ハム・近藤健介外野手(28)と対戦した。 【写真】近藤との勝負を終えて降板した松坂は日本ハムベンチの前まで進み、一礼する 松坂は近藤に一礼してマウンドに上がった。日本ハム、西武のベンチ、そしてメットライフドームの観客も総立ちで見守る中、投じた第1球は118キロ。2球目にストライクを投じたが、その後は球が抜け、カウント3ボール1ストライクから大きな拍手の中で投じた最後の1球は、内角に大きく外れた。 投球を終えた松坂は、日本ハムベンチに向かって、「ありがとうございました」と一礼。万雷の拍手を受けながら、ベンチへ下がった。晴れやかな表情で、会見で見せたような涙はなかった。 試合前の会見で「本当は投げたくなかった。今の状態もあるし、どこまで投げられるか。もうこれ以上、駄目な姿を見せたくない。と思ってたんですけど、最後ユニホーム姿でマウンドに立つ松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、どうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後、全部さらけだして見てもらおうと思いました」と話した松坂。その覚悟をボールに込めた。 右手中指の感覚は今もない。「ボタンを締めるのにも苦労している」と話す。その中でも、キャッチボールを重ね、17日にブルペン入り。18日に1軍合流した。スポニチ本紙の取材に「トップの位置から投げ下ろす時に、感覚がフッと消える」と打ち明けるほどだ。だが、中日時代にお世話になった治療院でメンテナンスを行い、肩や肘に痛み止めの注射を打ってまで、マウンドに立った。 1998年、横浜高時代の甲子園で春夏連覇を達成。夏の甲子園の準々決勝のPL学園戦で250球を投げ、決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを達成した。西武入団後は、イチロー(当時オリックス)との初対戦で3者連続三振に斬り「自信から確信に変わった」と名フレーズを残した。「平成の怪物」、そして1980年度生まれの選手は「松坂世代」と呼ばれた。レッドソックスへ移籍した際のポスティングは当時日本円で約60億円。日本投手への概念を覆す驚きの額だった。日本代表のエースとして連覇を果たした2006年、2009年のWBCでは2大会連続MVPとなった。四半世紀の間、球界の中心に松坂がいた。 「ボロボロになるまで大好きな野球をやりたい」──。その思いを貫いた。すべての人に感謝の思いを込めた最後の登板。「今日という日がきてほしいような、きてほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど、投げてそこで自分の気持ちもすっきりするのかな、すっきりしてほしいと思います」と話していたが、球場の視線を一新に集めた「平成の怪物」は、やり切った表情で、ファンに帽子をとり、手を振った。 ▼松坂 最初、グラウンドに出た瞬間のファンの皆さんの拍手に感動しました。正直、プロのマウンドに立っていい状態ではなかったですが、最後の相手になってくれた、北海道日本ハムファイターズの皆さん、打席に立ってくれた近藤選手、そして今日球場までお越しいただいたファンの皆さん、球場には来れなくてもテレビなどで応援してくれたファンの方々に感謝しています。 ◇松坂 大輔(まつざか・だいすけ)1980年(昭55)9月13日生まれ、東京都出身の41歳。横浜では3年時に甲子園春夏連覇。98年ドラフト1位で西武入団。1年目に16勝で新人王、最多勝に輝いた。07年にレッドソックスに移籍し、同年にワールドシリーズ制覇。インディアンス、メッツを経て、15年にソフトバンクで日本球界復帰。18年に中日に移籍し、20年に西武に復帰した。日米通算170勝108敗2セーブ。1メートル82、92キロ。右投げ右打ち。
【背番号物語】西武「#18」“平成の怪物”松坂大輔のオープニングとフィナーレを飾るのは“平成のエースナンバー”
10/19(火) 11:02配信
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昭和の時代は不安定な系譜
99年、入団1年目の西武・松坂大輔
西武の松坂大輔が現役を引退する。ドラフト1位で1999年に西武へ入団。このとき背負ったのが球界のエースナンバーとされる「18」だった。高卒ルーキーながらも、1年目から圧倒的な結果を残した松坂。それは西武にとどまらず、プロ野球で過去に「18」を背負ってきたエースたちをも凌駕するものだった。2001年まで3年連続で最多勝。2006年オフにポスティングでメジャーへ移籍して以降、日米4チームを経て20年に西武へ復帰していた。時は流れ、西武のユニフォームも松坂がプロ野球に君臨した時代とデザインが変わっていたが、それをふまえても、このときの「16」に違和感を覚えたファンも少なくなかっただろう。松坂は迎える引退試合で、ふたたび「18」のユニフォームに袖を通すことになる。 【選手データ】松坂大輔 プロフィール・通算成績・試合速報 球界のエースナンバーといわれるのは「18」だけだが、すべてのチームでエースが「18」を着けているわけではない。西武も前身の西鉄から好投手の系譜ではあったが、巨人のように不動のエースがリレーしてきたかといえば、疑問符がつく。西武は九州は福岡を拠点として1950年に西鉄クリッパースとしてプロ野球に参加。その初代「18」で、そのままライオンズの初代にもなった武末悉昌は南海(現在のソフトバンク)から来た右のアンダースローだったが、南海での結果を西鉄では超えることができなかった。 武末の移籍で54年に2代目となった島原幸雄は「22」からの変更。翌55年のキャンプでサイドスローに転じると、その翌56年にチーム最多の25勝を挙げて2年ぶりV奪還の原動力となった。以降4年連続2ケタ勝利と黄金時代に貢献するも、56年に入団した稲尾和久が1年目から伝説的な鉄腕ぶりを見せる。西鉄に黄金時代を呼び込んだのは「18」だったが、その象徴となったのは稲尾の「24」だった。 時は流れ、西武で21世紀に「24」は永久欠番になった一方、島原が広島へ移籍してからも「18」は河村英文、若生忠男、畑隆幸と好投手がリレーしたものの、チームの失速もあって、いずれも長続きせず。西鉄は73年に太平洋となり、西鉄の最後、太平洋の最初で「18」を背負った右腕の河原明が通算7年と九州では最長となる。 その後はチームも「18」の系譜も不安定に。チームが西武となり、本拠地が現在の所沢へ移転して、黄金時代に突入してからも定着せず、阪神から南海、広島、日本ハムを経て84年に移籍してきた左腕の江夏豊が背負ったものの、わずか1年で現役を引退した。そこから2年の欠番。これで風向きが変わる。87年に後継者となったのは、来日3年目に「12」から変更した郭泰源だった。
涌井、多和田も最多勝
西武・郭泰源
剛速球で“オリエンタル・エクスプレス”の異名を取った右腕の郭は、「12」ではリリーフに回ることもあったが、「18」で先発に固定されて本領を発揮する。91年には自己最多の15勝でMVPに輝き、97年まで2リーグ制の外国人投手としては新記録となる通算117勝。郭の11年は西武の「18」でも最長だ。ただ、同じ時期には右腕に「41」の渡辺久信、左腕には「47」の工藤公康と大きい背番号の左右両輪もいて、「18」だけが西武のエースだったわけではない。郭の引退で1年の欠番。これを継承したのが松坂だ。
西武時代の涌井秀章
松坂のメジャー移籍からは2年の欠番を挟み、現在は楽天でプレーしている右腕の涌井秀章が2009年に「16」からの変更で後継者となって、16勝で自身2度目の最多勝。涌井のロッテ移籍で、やはり2年の欠番を経て、ドラフト1位で16年に入団した右腕の多和田真三郎が継承、3年目の18年にブレークして16勝で最多勝に輝いた。松坂が復帰した20年は多和田が「18」を背負っていたため、松坂が横浜高と西武、そして「18」の後輩でもある涌井の後継者となった形だった。 “平成の怪物”と称される松坂。ライオンズの「18」が最も輝いたのも、奇しくも平成の時代と重なる。その長い歴史で一貫したエースの系譜とはいえないかもしれないが、“平成のエースナンバー”であることだけは確かだろう。時代は令和。西武の「18」は、これからも物語を紡ぎ続けるべく、しばしの眠りにつく。 【西武】主な背番号18の選手 島原幸雄(1954~58) 郭泰源(1987~97) 松坂大輔(1999~2006、2021) 涌井秀章(2009~13) 多和田真三郎(2016~20)