「道三は油売り」最古の史料 1669年著「乙夜之書物」に記述
斎藤道三の「国盗り物語」についての記述がある「乙夜之書物」=金沢市立玉川図書館提供
戦国時代の美濃の大名・斎藤道三が「油売りから一国一城の主になった」とする江戸時代前期の史料が見つかった。道三が「油売り」だったとする最古の記述。近年の研究では、道三は父親と二代にわたり「国盗(と)り」をしたとみられているが、道三が庶民から成り上がった説も江戸前期に既に語られていたことが浮かび上がった。
史料は、加賀藩士の関屋政春(一六一五〜八五年)が一六六九(寛文九)年に書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」の上巻(三巻本、金沢市立玉川図書館所蔵)。富山市郷土博物館の萩原大輔・主査学芸員(日本中世史)が北陸地方の歴史を調べる中、記述を見つけた。道三について「元来、城州(今の京都府南部)・山崎の油屋なり」と記し、美濃の大名・土岐氏に仕えて出世した後に「謀反して土岐殿を亡(ほろ)ぼし、美濃の国を取りたり」と説明。話の根拠は「濃州(美濃)の古兵(ふるつわもの)の語りしを、若年の時分に聞きし」としている。
関屋は十五〜十九歳ごろ、今の岐阜県大野町の野村藩士として主に美濃に滞在したことが、本人の覚書から確認できる。萩原氏は「十七世紀前半に美濃の武士の間で流布していた物語が筆録された」とみている。
道三が一代で大名になった説は、十六世紀末の織田信長の伝記「信長公記」などにも記されているが、当初の職業が油売りだったとする話の源は、「油商の子」と記す一七一三(正徳三)年の逸話集「老人雑話」まで下るとされてきた。新史料について、「斎藤氏四代」を書いた木下聡・東洋大准教授(日本中世史)=岐阜県関市出身=は「道三が油を売っていたとする最古の記述では」と指摘する。
最近の研究では、戦国時代の史料「六角承禎条書(ろっかくしょうていじょうしょ)」から、道三の父・長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)が僧侶から土岐氏の家臣となり、道三は父親の出世を土台に下克上を果たしたと考えられている。
木下准教授は、江戸期には下克上が許されなくなったことを念頭に「道三が油屋だったという言い方には、武士が商人を侮蔑する意識が垣間見える」と解釈する。乙夜之書物では、道三は主君を裏切った末に跡継ぎの義龍に殺されたと否定的に描かれている。江戸幕府の下で身分制社会が浸透し始め、「成り上がり」を否定しようとする意識が反映された可能性がある。
乙夜之書物には「義龍は道三の実子ではない」「道三は義龍の弟に家督を譲ろうとした」といった逸話の最古の記述もある。萩原氏は「残忍で強い『マムシの道三』のイメージが作られていく過程を考える上でも興味深い史料」と評する。
内容は今月末に刊行される加賀藩研究ネットワーク(事務局・金沢市)の会誌「加賀藩研究」の十二号で正式に報告する。
(林啓太)
年老いた武者が語っていたこと
「乙夜之書物」の斎藤道三に関する記述の大意(萩原大輔氏作成)
美濃国の太守斎藤道三はもともと山城国山崎の油売りであった。(のちに)美濃国へ下り、(守護の)土岐殿に仕官して頭角をあらわし、後に謀反を起こして土岐殿を滅ぼし美濃国を乗っ取った。その頃(ころ)に土岐殿が寵愛(ちょうあい)していた女性を奪い道三の妻とした。土岐殿の子どもをお腹(なか)の中に身ごもってやってきた。しかし、土岐殿の子なのか道三の子なのか疑わしい様子であった。この子が義龍である。
道三は心中に何か差し障りがあったのだろうか、異なる考えに至り、(美濃)国を二番目(の息子)に譲ろうとした。このことで(道三と義龍)の父子は不仲に陥り、合戦に及んだ。義龍は良き武将であるうえに土岐殿の実子で間違いない事もあって、美濃国内のおおよそが義龍へついた。竹中半兵衛は稲葉山城で義龍の弟二人をまとめて切り殺した。さて、道三を締め出した。
明日にも合戦という時に、義龍の家臣の玉木源太と永井次右衛門という二人の出世頭に命じたことは「明日の合戦で道三を必ず討たずに生け捕りにせよ」であり、義龍は堅くお言いつけになられた。命令を受けた二人は、翌日の合戦で道三が敗北したところ、玉木源太が追いかけて道三を押さえつけた。永井次右衛門が重なって(道三を)生け捕りにした。(ところが)道三の首を水も溜(た)まらないように(刀剣で鮮やかに)切り落としてしまった。
美濃国の年老いた武者が語っていた(以上のような)ことを(関屋政春が)若い頃に聞いた。