安野光雅 19歳で召集されると棒で殴られ、ギザギザの茎の上を裸足で歩かされて。いやだったのは『戦争』そのものじゃない。意味なんかない、上官の楽しみのための「いじめ」だった
8/13(土) 12:31配信
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撮影:藤澤靖子
終戦から77年。戦争の時代に少年少女だった人たちが高齢になっています。平和な時代を生きる私たちにとって戦争は無縁に思えますが、過去の大戦を体験した人々も、平穏な日常生活を送っていたのです。画家、絵本作家、装丁家として幅広く活躍し、2020年に逝去された安野光雅さんもその一人。その緻密で不思議な作品世界は、国境を越えて子どもから大人までを魅了し続けていますが、安野さんは19歳の時に召集されて兵隊になりました。安野さんの体験した「戦争」とは──(聞き手=堤江実 撮影= 藤澤靖子) 【写真】健康優良児だった1歳の安野さん * * * * * * * ◆「生きて虜囚の辱を受けず」 僕は最後の兵隊なんですよ。僕より下に兵隊はいなかったから、ずっといじめられっぱなしで、いじめたことがない。(笑) 生まれたのは1926年3月20日です。島根県の津和野で旅館を営む両親のもとに生まれました。早生まれで体は小さかったけれど、すごく元気な子どもだったの。何しろ赤ん坊の品評会で健康優良児に選ばれたくらいだから。6人ほどいた同級生のなかには僕と同じく品評会で選ばれたやつもいたけれど、今はもうみんな亡くなってしまいました。 6歳の頃に満洲事変があって、よく覚えているのは、『少年倶楽部』などの少年雑誌で佐藤紅緑さんがさかんに書いていました、子どものための感激美談。『英雄行進曲』とか『肉弾三勇士』とか……。 「肉弾三勇士」は「爆弾三勇士」とも言って、これは満洲事変の頃のシンボル的な存在でした。兵士が三人で爆弾を持って、敵の鉄条網を破壊しにいくのだけれど、爆弾に火を点けて逃げ帰るのに間に合わなくて死んでしまう。 三勇士への憧れはありませんでしたよ。でも、試験の答案用紙の裏に「爆弾三勇士」と書いたり、絵の時間も書の時間も「爆弾三勇士」。この美談に夢中になっていましたね。 その頃の男の子の遊びは、戦争ごっこ。バンバンと口で言いながら鉄砲を撃ったり、捕虜を捕まえてカゴをかぶせて、上からつついたりした。体は小さかったけど僕はいつもいじめ役。今思うと、強引に捕虜にされた子には悪いことしましたね。(笑) 本当の戦争では捕虜をいじめちゃいけないんだ。アメリカ軍は捕虜を歓待したといいますね。でも日本兵は絶対に捕虜にはならず、最後の一兵まで徹底的に戦えと言われていた。戦陣訓という行動規範があって、「生きて虜囚の辱を受けず」、つまり捕らえられたら死ね。これを信じていた。 なぜかというと、日本は恐怖政治だったから。それは恐ろしいものでね、僕らは「恐怖」と対決していたの。アメリカと戦争していたって、アメリカに憎い人なんか誰もいない。ロシアにも中国にも。でも強引に憎しみをかきたてて戦争していた。
◆絵描きになりたいなんてもちろん言えない たとえば召集令状が来て出征するという時に、送り出す側は二つのことを言うの。一つは「おめでとう」。そのあと小さい声で「こう言わなきゃいけないからね」って。誰かに聞かれたら大変なことになるけれど、誰も心からおめでたいとは思っていなかったんだよ。 僕は、子どもの時から絵が好きで絵描きになりたかったけど、もちろんそんなことは言えない。で、おやじの意向で工業学校に入ったの。でも何しろ、みんな兵隊に行って、働く人がいないというので繰り上げ卒業。先生に勧められて福岡の筑豊で炭鉱に就職しました。 そうして炭鉱に行ってみると、僕より年が上の人は誰もいませんでした。ほかにいたのは、足を負傷していたり、目が見えないなど障害を負った人たち。朝鮮から徴用で連れて来られた人たちもたくさんいました。体力が要求される職場だからか、食料の配給はほかよりはよかったようです。とはいえ満ち足りるほどではなかったけれど。 炭鉱で僕は発破係でした。ダイナマイトを使った爆破なんて、学校では習っていません。でも、やったことがあろうがなかろうが、とにかくやらされる。炭鉱での発破は命にかかわりますから、それは怖かったですよ。 僕らが寝起きしていた寮には、毎日のように赤紙が来ました。召集されると、2升のお酒が支給されるの。それをみんなでワイワイガヤガヤ飲んで、また次の日、誰かに赤紙が来る。そんなに大きな寮でもなかったのに、どんどん若者たちがいなくなって。
◆あるのは必勝の信念だけ 昭和20年4月、ついに僕にも召集令状が来ました。19歳。 恐ろしいものでね、召集令が来た以上は何がなんでもそこに行かなきゃならない。子どもがまさに今、生まれようとしていようが、明日結婚式があろうが、行かないなんてことはありえない。だから僕も行きました、仕方なしに。なんにもわからないままに行ったのです。 山口県の柳井というところの部隊に配属され、行って初めて「陸軍船舶兵なのか」と知りました。 任務は上陸用舟艇を隠すこと。舟艇といってもベニヤ板でね。小銃一発で穴が開いて沈んでしまうような代物です。そんなのに乗って、どこに上陸するかといったら、どこにも上陸しない。だって日本にいるんだから(笑)。 その船を隠すためのほら穴を掘るには、ものすごい手間がかかります。それで僕、「隠すよりも、作ったほうが早いんじゃないか」と言ったら、どなられちゃった。 食料もないから、兵隊はみんな栄養失調。朝はネギのお澄ましだけ。昼は梅干し一個ですよ。ほとんど食べるものなんてなくて、あるのは必勝の信念だけ。アメリカに勝てるはずがないんです。 僕は戦地に行っていませんが、戦争で何がいやだったかと言ったら、戦争そのものじゃない。上官たちによるいじめです。
◆弟は中学2年で陸軍幼年学校に 夜になると「軍人勅諭」を言わされて、うまく言えないと、ビンタされる。少尉とか中尉はやらない。上等兵ぐらいが威張り散らしてた。でも誰も逆らえない。恐怖政治のもとでは、何も言わないほうが得だと思ってしまうのです。 当時、「軍人精神注入棒」というのがあってね。一列に並ばされて、順番にそれで殴られたことがあります。かんぬき形で角のとがった棒でね。「あれ、何か垂れてきた」と思ったら血でした。その時の傷がまだ頭に残っていますよ。僕らにクマザサを刈らせて、そのとがったギザギザの茎の上を裸足で歩かされたこともあります。みんな血だらけ。 意味なんか何もないんですよ。楽しみのためにいじめる。ある時、水場でシャベルの汚れを落としていた時に、目の前をカエルがヒューンと泳いでいったんですよ。その時は思いましたね。「ああ、俺はカエルになりたい」って……。 僕には6歳年下の弟がいるんですが、旧制中学2年の時に、熊本の陸軍幼年学校に合格しちゃったの。幼年学校というのは、将来の幹部将校候補を育てるための学校で、普通の学校よりよほど難しい。それじゃあ俺が書類を書いてやる、と言って、入学手続きの書類を一所懸命書いた記憶があります。 幼年学校の入学式には弟と一緒に行き、僕も参列しました。そこで校長がこう言ったんです。 「この子たちは兵隊として預かります。敵が上陸してきたら、鉄砲を持って戦いに出る。もし異論がある人がいたら、一歩前に出てください。その人には子どもを連れて帰ってもらいます」 式が終わると、弟たちはバイバイと手を振って、宿舎のほうへ向かっていきました。この時は、今生の別れだと思いましたね。だから、日本が戦争に負けて、また弟に会えた時は、本当に嬉しかったですね。
◆「もう戦争しないでいいんだよ」 終戦の日は、兵舎の門で歩哨に立っていました。ラジオは聞いていません。 夜になると、それまで灯火管制で真っ暗だった村に明かりがついた。酔っ払っている兵隊もいました。村の人がやって来て、「もう戦争しないでいいんだよ。あんたも帰っていいんだよ」と教えてくれました。 その時、歩哨だった僕の目の前を、上官が自転車の荷台に秘匿物資をうんと積んで走って行ったの。僕たちは梅干し一個だけで栄養不良になっていたのに、軍事物資はたくさんあったわけですよね。 隊に帰ると中尉が、「戦争に負けた。今までのことは勘弁してくれ」と言って頭を下げました。そこで僕の戦争が終わりましたね。嬉しかった。ああ、これで死なないで済んだ!って。 僕は外国の人からよく聞かれるんです。「あなたの国では、何を描いても文句を言われないのか?」と。いろんな国の人に聞かれる。「何を描いてもいいんだよ」と言えるのは、実は大変なこと。この自由を大事にしないといけないと、心から思いますね。