【終戦そして平和への第一歩、緑十字機の果たした役割と磐田】
8月20日は、76年前に緑十字機が磐田市鮫島海岸へ不時着した、磐田市にとって、日本の終戦を導いた平和への足跡を記した大切な日時になります。
戦後処理のためにマッカーサーとの交渉にいく緑十字機の飛行ルートは、木更津→伊江島→マニラ→伊江島→木更津の予定でした。
当時は米軍に占領されていた伊江島空港を18時40分に飛び立った緑十字機が、磐田市鮫島に不時着したのは23時55分、さきほどまさに伊江島を飛び立った18時40分に伊江村長さんや議長さん、伊江島緑十字機を語り継ぐ会の皆様と、オンラインの交流を深めました。これから平和交流がより活発になるよう、お互いに確認しあいました。
さて緑十字機とは、そもそものお話です。
日本では、終戦記念日は8月14日にポツダム宣言受諾、そして8月15日の玉音放送により終戦を迎えたと認識されがちですが、アメリカなど連合国側は、9月2日にアメリカの戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印した日を言います。
日本がこの18日間で正式に調印できたのは、平和への使者である緑十字機が調印に至るまでの戦後処理に役目を果たしたからですが、そこに磐田市鮫島地区の皆さんが多いに関係していたということは、地元の人たちでも知る人ぞ知る話でした。
緑十字機はマニラでのマッカーサーとの初会談の後、伊江島空港を出発して5時間後、トラブルで鮫島海岸に不時着してしまったのです。そしてそのとき夜中にもかかわらず、協力しサポートしたのが、地元のみなさんだったわけですが、詳しい話は岡部英一さん著「緑十字機 決死の飛行」をご覧いただきたいと思います。
2000年代に入ってから、尾翼や燃料タンクの一部が発見され、磐田市でも展示されることはありましたが、本格的に注目を浴びるようになったのは、やはり地元の郷土史家岡部英一さんが本にまとめたことによるものが大きく、また全国に発信するために様々な手段を用いた熱意があったからだと思っています。
戦後から70年以上が経過し、当時は話せなかったという地元の皆さんが、様々な機会を通じてお話をしてくださるようになり、地元ではだんだんと盛り上がりを見せています。
伊江島、ここは沖縄美ら海水族館からキレイにみえる島です。しかしキレイにみえるこの島も、戦争の悲しみのつまった村でして、その伊江村とのお付き合いが数年前から始まっています。
一昨年島へ伺い、空港跡にたって感じたのは、米軍もあの戦争を終えたかったということです。緑十字機をみたときの米軍兵の歓喜の姿の映像は心を奪われました。戦争はどちらの兵や国民にとっても、悲しみしか残らないということです。この緑十字機をきっかけに、平和や戦争について考える大きなきっかけと場所を磐田市は与えられました。
8月20日は、76年前に緑十字機が磐田市鮫島海岸へ不時着した、磐田市にとって、日本の終戦を導いた平和への足跡を記した大切な日時になります。
戦後処理のためにマッカーサーとの交渉にいく緑十字機の飛行ルートは、木更津→伊江島→マニラ→伊江島→木更津の予定でした。
当時は米軍に占領されていた伊江島空港を18時40分に飛び立った緑十字機が、磐田市鮫島に不時着したのは23時55分、さきほどまさに伊江島を飛び立った18時40分に伊江村長さんや議長さん、伊江島緑十字機を語り継ぐ会の皆様と、オンラインの交流を深めました。これから平和交流がより活発になるよう、お互いに確認しあいました。
さて緑十字機とは、そもそものお話です。
日本では、終戦記念日は8月14日にポツダム宣言受諾、そして8月15日の玉音放送により終戦を迎えたと認識されがちですが、アメリカなど連合国側は、9月2日にアメリカの戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印した日を言います。
日本がこの18日間で正式に調印できたのは、平和への使者である緑十字機が調印に至るまでの戦後処理に役目を果たしたからですが、そこに磐田市鮫島地区の皆さんが多いに関係していたということは、地元の人たちでも知る人ぞ知る話でした。
緑十字機はマニラでのマッカーサーとの初会談の後、伊江島空港を出発して5時間後、トラブルで鮫島海岸に不時着してしまったのです。そしてそのとき夜中にもかかわらず、協力しサポートしたのが、地元のみなさんだったわけですが、詳しい話は岡部英一さん著「緑十字機 決死の飛行」をご覧いただきたいと思います。
2000年代に入ってから、尾翼や燃料タンクの一部が発見され、磐田市でも展示されることはありましたが、本格的に注目を浴びるようになったのは、やはり地元の郷土史家岡部英一さんが本にまとめたことによるものが大きく、また全国に発信するために様々な手段を用いた熱意があったからだと思っています。
戦後から70年以上が経過し、当時は話せなかったという地元の皆さんが、様々な機会を通じてお話をしてくださるようになり、地元ではだんだんと盛り上がりを見せています。
伊江島、ここは沖縄美ら海水族館からキレイにみえる島です。しかしキレイにみえるこの島も、戦争の悲しみのつまった村でして、その伊江村とのお付き合いが数年前から始まっています。
一昨年島へ伺い、空港跡にたって感じたのは、米軍もあの戦争を終えたかったということです。緑十字機をみたときの米軍兵の歓喜の姿の映像は心を奪われました。戦争はどちらの兵や国民にとっても、悲しみしか残らないということです。この緑十字機をきっかけに、平和や戦争について考える大きなきっかけと場所を磐田市は与えられました。
奈良時代の遠江国
《正倉院文書》中に740年(天平12)の〈遠江国浜名郡輸租帳断簡〉があり,現在は湖底に水没した当時の水田が風害にあったようすや農民の家族構成などを知ることができる。災害はまた麁玉河(天竜川)の氾濫によってもしばしばもたらされ,761年(天平宝字5)の大決壊を修理した天宝堤は,今もそのなごりを浜北市にとどめている。遠江国を象徴する浜名湖には浜名橋がかけられ,884年(元慶8)には大規模な改作の行われたことが《日本三代実録》に見える。…