大師の節分が終わって、当然家でもやった。
一応豆撒く姿も数枚とったけど特に画像無しで。
そういや大師でも今年も恵方巻きを売っていたけど
特に買うことは無かった。そんな文化無いんでね。
今年はやる数日前に鬼が来るのはきっと最後だと娘に言ってある。
なんにしても6年生になる年だし、来年はまだ6年生のままだが
もう幼少期と違って、完全に私だと解ってる。
最初は鬼が本当に化けてそっくりなのだと思ってた。
それが半信半疑になってきて、やはり父親だともう確信してる。
だから鬼をやる意味が無いのだよ。
やっても鬼の役をするということは前提になるだろう。
でもそんな真の理由を娘に言うわけには行かない。
一応もう全て解っていたにしても、通してきたものは通さないと。
で、19:00ごろに鬼は玄関からやってきた。
私が家の外を見に行ったらそのまま拉致られて代わって鬼が来るという
我が家恒例のパターンだ。
そして鬼が娘に言った。「今年で最後だ」と。
それはもうお前はいじめにも負けなかったし強いから大丈夫だと。
要は鬼は人の心の隙間。弱い部分に付け込んで来る。
だから子どもは小さいから弱いので、子どもの居るところに来るのだ。
でもその子どもが立派に強い心を持ったとき、
鬼は付け入る隙が無いので、もう来ることができなくなる。
そういうことで今年が最後だと言ってきたのだ。
まぁ物心付く前からやってきたし、
節分、豆まきと言う日本古来の文化は十分堪能し、
おそらく今回のことで意味もある程度解ったと思う。
だから具現化した鬼は要らない。
無病息災を願うなど、鬼とされる全ての不幸に対して鬼は外!
その代わりに訪れて欲しい幸運に対して福は内!
ここまできたら、もうこれだけでいいのだよ。
まぁ意味が全て解れば、やらなくてもいいような気もするけど、
それはやはり伝統の風習だからやったほうがいいよな。
小量な豆を買って、僅か撒けばいいだけだし。
そんなわけで来年になってみないとわからないけど、
我が家の鬼が来る豆まきは今年で終わることになったのだった。
そういう意味の最後ね。
でも鬼やらないの、意外と私がさびしいのかも???
一応豆撒く姿も数枚とったけど特に画像無しで。
そういや大師でも今年も恵方巻きを売っていたけど
特に買うことは無かった。そんな文化無いんでね。
今年はやる数日前に鬼が来るのはきっと最後だと娘に言ってある。
なんにしても6年生になる年だし、来年はまだ6年生のままだが
もう幼少期と違って、完全に私だと解ってる。
最初は鬼が本当に化けてそっくりなのだと思ってた。
それが半信半疑になってきて、やはり父親だともう確信してる。
だから鬼をやる意味が無いのだよ。
やっても鬼の役をするということは前提になるだろう。
でもそんな真の理由を娘に言うわけには行かない。
一応もう全て解っていたにしても、通してきたものは通さないと。
で、19:00ごろに鬼は玄関からやってきた。
私が家の外を見に行ったらそのまま拉致られて代わって鬼が来るという
我が家恒例のパターンだ。
そして鬼が娘に言った。「今年で最後だ」と。
それはもうお前はいじめにも負けなかったし強いから大丈夫だと。
要は鬼は人の心の隙間。弱い部分に付け込んで来る。
だから子どもは小さいから弱いので、子どもの居るところに来るのだ。
でもその子どもが立派に強い心を持ったとき、
鬼は付け入る隙が無いので、もう来ることができなくなる。
そういうことで今年が最後だと言ってきたのだ。
まぁ物心付く前からやってきたし、
節分、豆まきと言う日本古来の文化は十分堪能し、
おそらく今回のことで意味もある程度解ったと思う。
だから具現化した鬼は要らない。
無病息災を願うなど、鬼とされる全ての不幸に対して鬼は外!
その代わりに訪れて欲しい幸運に対して福は内!
ここまできたら、もうこれだけでいいのだよ。
まぁ意味が全て解れば、やらなくてもいいような気もするけど、
それはやはり伝統の風習だからやったほうがいいよな。
小量な豆を買って、僅か撒けばいいだけだし。
そんなわけで来年になってみないとわからないけど、
我が家の鬼が来る豆まきは今年で終わることになったのだった。
そういう意味の最後ね。
でも鬼やらないの、意外と私がさびしいのかも???