この件に関して、オタクの側にも「ゾーニングした方がいい」とか「公共の場には相応しくないからやめた方がいい」みたいな意見があり、それは一見すると正しいように思えて、表現の自由を主張するよりも受け入れられやすいようです。
いわば、隠れてコソコソすれば良いという意見です。
これには同意する一般人も多いと思います。少なくとも表現の自由を掲げるよりもウケが良さそうな気はします。
しかし、これに同意する人もそのような趣旨の発言をする人も自分がどれだけ恐ろしい思想をしているのか理解していないと思います。
つまり彼らの言っていることはこういうことです
「公共の場にふさわしい女性とふさわしくない女性が存在する」
ということです。
彼らは公共の場に正しい女性とそうでない女性がいると差別したうえで、今回の場合だと巨乳の女性は公共の場には相応しくなく、公共の場に出てくるべきではないと主張しているのです。
しかし彼らにはおそらく、そんなグロテスクな思考をしている自覚はないでしょう。自分は良識派で配慮ができる人間だと思ってるに違いありません。
常々ゾーニングなる言葉が一部のオタクの間で受け入れられていることには大変な危機感を覚えます。
そもそも、ゾーニングなんて簡単に言うけれど見ていいものと見ちゃいけないものの峻別は誰がするんですか?
それを決める側が都合良くコントロールできることになっちゃいませんか?
我々が目指すべきなのは、不快なものを不快であると排除する社会ではなく
各々が不快なものを許容する社会です。
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