雑記zaki

日々の雑記

エックハルト説教集がものすごく気になる

2021-03-30 23:19:00 | 日記
Amazonでたまたま関連商品のして表示された岩波文庫の本

キリスト教徒だったが異端認定されてしまった可哀想な人である。
ググって部分的に読んだけど超良さげ。面白い。
キリスト教徒にこのような思想を持ってた人がいたことにまず驚き。
もしかして異端として消えていったキリスト者の主張の中に現代に有用なものもあったかもしれない。

仏教の話は色々としてきたがここへきていきなりキリスト教かよ!というブログの名の通り正に統一感のない雑記なのだが。
エックハルト説教集は確実に読む。

後で買うに入れてる本が多くて困る。kindleで電子書籍も買うことには買うけど、やっぱじっくり読みたい本は紙。

最近読書欲がものすごく、暇さえあれば読んでしまう。
小説読まない人間なので、小説も少しは読もうと思うのだが…。

僕が思想や哲学について興味を持ったのは中1だったと思う。14歳からの哲学という本がきっかけでそれから色々読んだ。
だいぶ遠回りしたけど結局仏教思想に落ち着いた。
ずっと西洋哲学系の本読んではこれが答えか、なるほどと思って次の日にはなんか違うを繰り返した。自己啓発本も役に立たなかった。
結果仏教の一部分の主張を軸にしたことでなんとかなっている。

何をてこに人生を考えるか、なんてそんなこと考えなくても済むような人生だったら良かったのにとも思うが、考え出してしまった以上考え続けざるを得ないのが俺の困ったところだ。

色んな観想

2021-03-30 00:49:00 | 日記
観想は古今東西無限にあるので、別にどれやっても似たような効果は得られる。むしろ古いモノでそんなイメージ浮かばねえっていうのをやるよりは自分の想像しやすいようなものの方がいい。

キリスト教徒ならイエスを想像するとか、仏教なら阿字観という方法がある。
でも、そうじゃなくて例えば好きな芸能人でも同じなんですよね結局は。ただありがたさは当然下がるのでその分効果は弱くなるかもしれないが。

世界の瞑想法というサイトに本当に様々な方法が載っているので気になった人は読むといいかもしれない。

オカルトや疑似科学のように思う人もいると思うけども、本当に古くからいろんな手法で人生を生き抜く知恵として積み重ねられている。
気功とかヨガとかもどちらかと言えば観想寄りである。

光の玉を思い浮かべて〜とかよくある。僕は光の玉ではないけど似たような感じでもうちょい漠然としてる。玉をイメージするのって結構難しい。

それで観想が何の役に立つのかは、こればっかりはやってみなきゃわからないものだ。
そして何のために観想するかは個々人が勝手に設定するものだ。

自分のために少しくらい時間をとってしっかり観想するのもいいもんです。

最近ブログを書き忘れる

2021-03-28 20:18:00 | 日記
情報を極度に減らしているからか、書こうとする内容が減ってくる。
ネットニュースも見ないようにしてるんで、なおさらである。
もう一つはobsidianに日記を書いてるので、ブログを書いた気分になってしまう。

これはよろしくない。

というわけで最近読んでる本のことについて書いてみるか。

最近残像力トレーニングの本と玄侑宗久さんのまわりみち極楽論を読んでいる。
残像力トレーニングは空き時間にちょっとやろうかなと思っている。観想の練習みたいなもんである。

極楽論の本は、割と量が多くなかなか読み切らない。
この著者の方は僧侶であり芥川賞作家でもある。
二兎追うもの一兎も得ずということわざもあるけど、人生は何兎も追った方がかえっていいというのは確かにそう思う。
バランスが大事で、一兎にこだわると結果何も得られなかった時になにも残らない。
バランスよくいろんなものを追っていけば何か手に入ったり残ったりする。
収入源も複数持ってた方が安心だし、一つに絞らない方がよい。
世間の見方は結構逆で一つに絞る方がいいと思っている。
僕はこれはこれで確かにいいとも思う。自分の生き方を一つに絞ると楽になることは確か。
だがなかなか絞れるもんじゃないし、納得して絞るのは難しい。
どちらかといえばこれだ!と視野を狭めてこれだけでやってくぞとめちゃくちゃ頑張ってるような感じ。それだと辛い。

ただの煩悩を肯定するのはダメで、煩悩だと理解したうえで肯定するというのは前にも似たようなことを書いた。
欲望はいいことだ、全肯定全肯定なんてやってもおおかた苦しくなるだけで叶わない願望に追い詰められるだけである。
そのままでありのままで幸せなのだということはない。今この瞬間さえも無常。

欲望に食われないように、欲望を扱うのはとても難しい。

脳が喜ぶobsidian&観想の色々

2021-03-25 23:57:00 | 日記
obsidianは神である。
今はほぼ日記にしか使ってないけど、めちゃくちゃ良い。

視覚的に良いというのとノート間のリンクが素晴らしいと思う。
バラバラに書いてもタグとリンクで見やすいし。
とにかくログだけでなく引き出すのがとても自由で楽しい。
そしてグラフビューを見るとどんどん育っていくような感じで見ていて面白い。
ただ日記を書いてるだけなのに、それが未来とつながっているんだと思うと嬉しくなる。

さて観想について色々調べてたのだが、本当に色んなものがあるんですよね。
観想自体は西洋であれ東洋であれ根本はあまり変わらない。
というか別にみんな観想に近いものはみんな無意識にやってる。
何か頭の中でイメージを作ったり、想像したり。
観想はそこに臨場感が乗る。
何かに合一するイメージだったり、植物だったり神だったり、空想上のなにかだったり。
具体的なイメージと五感を乗せる。
しかし、それは所詮現世利益である種の煩悩の利用であるということを自覚しておかないと、それにのめり込んで欲望を強化するだけになる。
求めちゃいけないわけではないが、単なる煩悩肯定とは違う。ここが難しい。
世の中にあふれる願望実現系のメソッドはそれを無視して単に欲望を強化するだけで、それで失敗してる人は多いようである。
求める前にこれは別にあっても無くても変わらない物なんだ、もっと直接的に言えば最終的にはどんなに願望を叶えようと、色んなものを手に入れようと死ぬという自覚からスタートした方がかえって良いように思う。
そこをフラットにできるかどうかで、願望に振り回されるか願望を扱うかの差が出るように思う。

願望を実現するためには願望が実現してもしなくてもどっちも同じなんだという自覚が必要だというのは、矛盾しているようでこの矛盾が人生そのものなのかもしれない。

人はなぜオンラインサロンに入ってしまうのか

2021-03-24 01:15:00 | 日記
根源的に我々は誰かと繋がりたいという承認欲求と何かを知りたいという知的好奇心を持っているものだと思う。

ところが、そう簡単に承認は得られないし、知識も身につけるには時間がかかる。

そこでお金で解決しようとしたのがオンラインサロンみたいなものだと思う。YouTubeも含めてだけど、そういうコンテンツでその曲がった感情を解消する。

人より優れていたい…でも勉強したくはない…そういう人のためのものである。
無論ファンクラブ的な側面もあるだろうし、そういう使い方はいいと思う。
場合によっては頭のいい人もいると思うんですけど、そう言う人もやはりインスタントに知識を得たいという気持ちは変わらない。

最近ではひろゆきみたいなのも流行ってていよいよ世も末な感じになっている。
みんな断言されたい、わかりたいという気持ちがあまりにも強い。
わからなさをそのまま抱えることができない。
答えの出ないものを無理やり答えを出したい。
多様な答えがあるものを一つに絞って納得したい。

この欲望は特にこの10年強まってきたんだと思う。
それは一つには東北大震災があってコロナでその傷が更に全体に広がった。
つまり自然災害によってなんか悪いこともしてない人も、悪い人も平等に死んでいくという理不尽な現実をなんとか処理して理屈をつけたいという感情が噴出した。
特に現代の僕らは死を遠ざけすぎた。死ぬ理由がはっきりするようなことばかりを意識してる。
なんの理由もなくある日突然死ぬという現実を処理できなくなっていた。

それでも東北大震災は局所的なヒビだったけれどもコロナでいよいよ全体にヒビが広がってより理屈や理由をより求めるようになった。

結論を出さず、分からないまま、問題を抱えたまま進む。
それが今最も必要なことだ。
最もらしい理屈や結論に飛びつかない強さが。