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日々の雑記

まず記録より始めよと言ったがあれは嘘だ

2021-02-07 01:35:00 | 日記
記録を取るのは現実の把握であり、よりよい生活を実現するためだった。
それで、実際のところどういう生活がしたいのか明確でない限り記録を取ったところでただそれだけで終わる。
欧米型のタスク管理なんてものは元来なんでもかんでもコントロールしたいという欲望から始まっていると思うが、僕は全く逆でむしろコントロールできるところは少ないのだから、コントロールなんかできないんだよという前提で始めている。
こっちの方がたぶん日本人にはしっくりくるのだと思う。

で、実際記録してみると仕事トイレ睡眠食事、これらの時間を差し引いたものが実際に使える時間である。24時間まるまる使える人はいない。
しかし理想がない限り毎日毎日同じことが同じだけ記録されるだけである。
理想とのギャップを少しずつ埋めていく必要がある。
何年後になるかわからないが、例えばもう何もかも満たされた場合自分は朝どういうことから始めて、どういう1日を送るのかということについて想像をめぐらす必要がある。
もちろん今すぐ完全にはその1日を始めることはできなくても、その中ですこしそれに近しい行動を取ることは可能である。
それを積極的に生活に取り込む。
例えば、僕は体がとても硬い。将来的には朝ホットヨガでもやりながら優雅に1日をスタートさせたいという理想がある。
もちろんそんなすぐにそれを実現はできない。毎日朝からどこかの教室に通う時間が今はないわけだから。
しかし、それに関する行動が全く不可能かと言われるとそうではない。例えばYouTubeで動画見ながら朝5分だけやってみるとかはできる。
そうやって最終的な理想の断片を毎日の中に無理なく取り込んでそれを増やしていく必要がある。
これは単なるボトムアップとは違う。あれをやってこれをやってと目の前のことをただこなすこととは違う。
僕が朝たった5分だけYouTubeを流しながらヨガをするのは、僕が将来送っているであろう理想的な毎日と同じなのである。
即ち理想即現実、現実即理想である。
もちろん、将来はもっと長い時間どっかの教室でやっているのだろうと思う。

さてこの場合な理想とは現実的な理想ではない。
もっと果てしなく遠い理想でなければ意味がない。
これが難しい。たいてい現実に思考が縛られる。
できることを探そうとする。それはただのtodoである。
todoリストを作って結局やらなかったって人は多いんじゃないだろうか。
やらなきゃいけないことを書き出したからといってじゃあそれができることとは別だ。
todoリストとはそもそもやりたくないけどやらなきゃいけないものの総体であることが多い。
理想的な日常はやらなきゃいけないことではないはずだ。
だからもし僕に理想がなく、毎日5分ヨガというtodoを登録したならば苦痛でしかないだろう。
それは健康のためにやらなければならないことであり、できればやりたくないことだからだ。
故に現在によって自分を縛るのではなく未来によって自分を縛らねばなるまい。

常に基準は未来の自分である。
未来の自分即現在の自分であるように生活を作り替えていく。
そうやって少しずつ未来から現実をぶっ叩いて小さなヒビを入れていく。

ちょっと脱線するが最近ストレス発散のために何かしようと思っていたが、やめた。
酒もタバコもやらないので趣味と言ったら読書と自転車くらいなもんで、なんかないかなーと思って探していた。
でも、はたと気が付いた。なぜ我々はこんなにも時間をなにかで満たそうとするんだろうかと。ストレスの発散でさえ、「何かをする」ことによって解消しようとする。
何もしないことができない。
最近ではマインドフルネスなんかも流行ってはいるが、あれも結局「生産性」だの「集中力」だののためにやっている欺瞞である。
釈迦は、道元禅師は生産性を求めたか、集中力のために坐ったのか、違うだろう。
ただすわることが只管打坐だったはずだ。お金を稼ぐためにストレス解消のために坐ったわけではない。
そう考えてみるととてつもなく遠くの理想を描くと同時に何かするのではなく、何かしないことも大事になってくる。
僕自身の生活を考えてみると自分のことについて考える時間が昔よりもはるかに少ない。
他人の呟きを見て(Twitterは見るだけ)他人の作った動画を見てコメントをし、次から次へと関連動画に飛んでいく。
一体1日に自分についてどれくらいあるだろうか考える時間はあるだろうか?
そういうTwitterだの動画閲覧だのの時間をどれだけ減らせるか、最高0にし自分についてもっと考えなきゃ生きている意味がない。

そんなんで死ぬ時自分の人生を生きたなんて言えないような気がするのだ僕は。


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