![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/9e/b7d2ae973a84b630ad3251ecaef14cfe.jpg)
私は常々、銀英伝という名作は20年に一度は映像化し後世に語り継ぐべき名作だと思っていたので
多田監督版のノイエ銀英伝は、その点においては大変評価している。
ノイエからファンになった人は、なぜ原作ファンや石黒監督版のファンに叩かれてるか理解せず逆ギレしているようだが、
解釈違いでは済まされないような改悪があまりに多すぎるから批判されているのである。
先に総括しておくと、ノイエは全体的に壮大で長大な大河ドラマであるはずの銀英伝に対して余裕がなく、優雅さに欠けていて気品と心のゆとりがない。
すべての要素を要約するとこの一言に尽きるのかも知れない。
ノイエBD第一巻のコメンタリーで多田監督やIGのプロデューサーがCGが素晴らしい、
苦労したなどと自画自賛しているが、
私には単にゴテゴテして「内蔵まで描いてる」ようで全く美しく見えない。リアルで線が多いCGが
美しいと感じるのはオナニーでしかないと思う。
昔の手塗りの作画のほうが100倍雰囲気が伝わり美しいし品格がある。ゆとり以降の世代は
合成着色料や化学調味料ばりばりのファーストフードの味しか知らないみたいなものだ。
2018年に再制作されたノイエ銀英伝を許せないのは外見でも声優でもなくキャラの性格を改悪したこと
多田監督は石黒監督版OVAシリーズでは採用されていた印象的で重要な
原作小説の各キャラの名台詞をカットし、独善的な演出意図で代わりに言葉で語らせるのは野暮な余計な
アニオリ台詞を加えている部分が散見される。ヤンの幕僚たちをただのYESマンにしちゃったり、
空港で傷心のジェシカをヤンに論破させたり(原作でも旧作でも心の中で思ってるだけ)、
政治家に転身したジェシカにやたらと長尺で演説させたり(これは視聴者に作品通じて感得させるものであり
作品のテーマをわざわざ演説にして言わせるのは野暮である)
もうとにかくあちこちの演出に違和感が多い。
更にイゼルローン攻略戦で部下を強制的に道連れにして玉砕したゼークト大将に対しヤンを
憤激させておきながら12話ではホーウッドに部下を道連れにして個人的復讐心からキルヒアイス艦隊に
無謀な特攻をさせているなど演出意図自体も矛盾している。
その他についてはキャラが薄っぺらい美形ばかりなのも女性ウケを狙ったものとして許容できるし、
声優が交代するのも旧OVAとは時代が違うので致し方ない。BGMがクラシックでないのも
壮大さや銀英伝らしさは消えるが旧作との差別化という意味で理解もできるし
個々のストーリーエピソードを改変するのも作劇上仕方ないのかもしれないが、
ど う し て も 許 せ な い ことがある。
それは、キャラクターの性格を原作小説とは全く別人に変えてしまっていることだ。代表例は
キルヒアイス、シェーンコップ、ルッツ、ポプラン、ビッテンフィルト、トダ技術大尉などだ。
キルヒアイスはアスターテで兵士たちに休息をとらせるようラインハルトに進言する心優しい男
だったのがセリフごとまるごとカット。暖かさのない冷たいだけのイケメンに成り下がった。
更にノイエのキルヒアイスは指揮官としての資質に疑問。キルヒアイスの活躍するはずのカストロプ動乱。
このとき、原作では艦隊司令官として初陣で年上の部下たちの人心もまだ掌握できていない。この時点でラインハルトは評価されていても
キルヒアイスはただの副官としか周囲に思われていなかった。
にもかかわらず、ノイエではただでさえ敵軍より半分少ない兵力を更に分散し、旗艦バルバロッサ自らが敵旗艦に
直接攻撃するという無謀極まる作戦をとっている。あまりに賭けの要素が強すぎるし、人心を掌握してない段階では作戦の徹底すら危うい。
石黒監督のOVA版では動乱に丸々一話使い、アルテミスの首飾りをゼッフル粒子で爆破しているのだが、これは安全で合理的だ。
その戦果によってようやく、キルヒアイスはベルゲングリューンら部下や兵士たちの信頼を得るのである。
ちなみに、ノイエ版のカストロプは意味もなく部下を殴りつける頭のおかしい男になっていたが、
よくネタにされているOVA版でのローマ調の衣装は、きちんとした意図がある。
これは内乱によって滅亡した古代ローマ帝国の比喩であり、石黒監督は確信犯で取り入れたのだ。
マクシミリアン・カストロプのあのギリシャ古代ローマ趣味は、自分の趣味を部下と領民、領土の建物全てに
強制するという貴族特権のおぞましさの象徴なのだ。ネタキャラなんてとんでもない
彼が一番わかりやすく500年の貴族支配のおぞましさと醜悪さを表している
ついでシェーンコップはひらべったい顔の軟派野郎に、
豪快で気持ちいい猛将であるはずのビッテンフェルトは惑星の影からこそこそと長距離ミサイルで
ウランフ艦隊を攻撃してニヤニヤとほくそ笑んでる男になっちゃってるし、
ルッツはこそこそと超長距離砲で敵の旗艦を狙う有様。そんな戦い方をする男ではないし、
そもそも射程外から攻撃という戦術上のありえない超兵器出しちゃってるし、
この攻撃自体がルッツの旗艦の位置を敵艦隊に知らせることになり危険要素しかない。
極めつけはやたらと物分りのいいさわやか優等生の鈴木達央が演じるポプランだ。レディキラーで六無主義と陽気で不敵に無敵はどうした?
これでは少年ジャンプの熱血漫画の主人公である(笑) TV版のBD最終巻のコメンタリーで宮野真守や鈴村健一は
キャスティングの妙と言っていたが、これでは単なるキャスティングの失敗である。
多田監督は原作リスペクトを度々公言していたがこの有様である。何重もの意味で新旧のファンを裏切っている。
多田監督は、原作やOVAではしっかり描かれていた、焦土作戦を展開され振り回される同盟の名もなき兵士たちや民衆の心理やヴェスターラントへの伏線など、
肝心のストーリーの土台の部分を手抜きで欠損だらけにしておいて、11話の戦艦の出撃シーンなどにクドイほどの尺を咲いてCGを見せたがっている。
中身スカスカなのに表面のデコレーションだけを飾り立ててるようにしか見えない。
ノイエ銀英伝10話のシトレ元帥とヤンの会話の場面。ヤンは目上であり上官であるシトレに対し
腕を組んで机に腰を預けた姿勢で聴いているが、二人はそんなに親密でもないし
ヤンの性格的にも目上の人物にあの態度はありえない
そもそも、ヤンは軍隊と軍事を忌避し辞めるつもりでいるのに、
そんなヤンに対してわざわざ「いい雰囲気のBGM」まで流して
シトレが次世代を託すというシーンを美化していることにひたとすら違和感。
多田監督との解釈違いの象徴でもある
銀英伝では、地球教やフォーク准将のように、自分の正義や信念を疑わない人物は悪役になる。
ラインハルトの場合は、キルヒアイスを失ってからは特にそうだが、自己の正義の実現というよりは
心の飢えを耕すために戦っているのである。
田中芳樹先生と旧OVA版の監督である石黒監督に通じるアンチテーゼ観。
田中芳樹作品に通底する民主主義と自己の正義を信じて疑わない人物への
懐疑、批判、問題点の指摘といった視座と、マクロスのアンチテーゼとしてメガゾーン23を
監督した石黒氏は、合い通じるところがある。
ところが、ノイエ銀英伝の多田監督にはそれがない。BDのコメンタリーでもひたすら自画自賛して
バカ笑いしていたが、この人にあるのはフォークやトリューニヒトのような自己肯定感である。
元々が、この人の精神性は田中芳樹作品とは相容れないのである。
アイドルものアニメとかならうまくハマるのだろう(黒子のバスケもアイドルアニメの一種である)
多田監督の起用は、その意味では正解だったのだろう。
現在のコンテンツ産業は腐女子にウケないものはヒットしない。
少年ジャンプ漫画が最もわかり易い例である。
だから腐女子ウケする薄っぺらいイケメンやイケオジを大量投入して
銀英伝原作の持つ普遍的なテーマなどを感得させることは
棚上げしてキャラにセリフで野暮に喋らせ、ただただ、キャラ映えするような
薄っぺらい演出と構成になっている。品のないCGの多様や
クラシック音楽をBGMにしていないのもその典型だ。
上記のBD第一巻に収録されている一話のコメンタリーでラストのヤンの後ろ姿で尻の描き方にこだわったと言う
趣旨の発言をしているが、「んなこたぁどうでもいいんだよ多田!💢」
それよりもっとこだわるべき作品のテーマを演出で見せる工夫をしろよ!
腐敗した民主主義と清潔な専制主義、個人と国家、市民の政治参加意識の低さ、政治と軍事、忠誠と信仰、主権国家という概念への懐疑、歴史的俯瞰・・・
いくらでも銀英伝には伝えるべき普遍的テーマが用意されているだろうが!
こういうことを繰り返して名作を浪費しているから、どんどんと日本のコンテンツ産業は
BL的な意味合いではなく言葉通りの意味で腐って地盤沈下していくのである。
もう腐女子狙いの商売はやめるべきだ。たとえ金にならなくてもだ。
実際、ここ数年は銀英伝の感想をWEBやSNSで調べても腐女子のキャラ萌え感想ばかりである。
ほんとうに暗澹たる気持ちになる。彼女たちは上記のような銀英伝の本当の価値や魅力には気づいていないし興味もない。
ただただ、イケメンの生き死にとカップリングで発狂しているだけの萌豚である。
そんなところじゃないんだよ、銀英伝の魅力はよ!と怒鳴ってやりたい気持ちにいつもなる。
そもそもが、銀英伝はSF小説であり歴史小説である。これらは腐女子とは最も縁遠い存在だ
それが腐女子だけが群がってくる現状に、門閥銀英伝ファン一同としては涙するしかない
5話で登場するユリアンだが、梶裕貴の声質の問題もあると思うが、ヤンに賢しげに諫言するユリアンに激しく違和感を感じた。
そんな増長した子では原作のユリアンはない。多田版のアニオリ改悪セリフ回しの一つだ。
石黒監督版は、ひとりひとりのキャラクターデザインが明確に描き分けられていた。
その象徴がシェーンコップであり、多田版ののっぺりした顔ひらべったい星人ではなく、
石黒監督版は横顔を見てもはっきりと誰か分かるデザインだった。
ただのイケメンと人生の深みが感じられる「イイ男」は全く違う
ヤンの「カーチェイスシーン」などにも象徴されるが、キャラクターの見せ方が短絡的すぎる。
シェーンコップのキャラ造形については、ノイエ版から銀英伝に入ったゆとり以後の
腐女子にはノイエ版のひらべったい顔のただのイケメンは好きだが
OVA版は脂ぎってて受け付けられないんだそうです。
要するに、本当にいい男を見極められない子供ということだな(笑)
ハンナ・アーレント 全体主義の起源 夜と霧 エルサレムのアイヒマン
中村悠一のロイエンタールと小野大輔のミッターマイヤーなど、現在の若手中堅声優の演じる
提督たちが重々しい声を出すときの演技が似たりよったりのかたちになってしまっている。
ノイエ銀英伝のBDのコメンタリーでヤン役の鈴村健一はヤンは理想の上司と発言しているが、
ヤンの部下はよほど有能で精神的にもタフでないと務まらないと思う
なぜならヤンは常に非主流派だからだ。体制側の援護は期待できない。温かいどころか
能力主義のラインハルトの部下よりある意味で厳しい環境である。
そもそも、銀英伝は作画が良い悪い・キャラ萌え・ヒット作かどうか、
そんな次元とは全く別の価値を有する作品である。
銀英伝を見ると人生が豊かになる。現実の政治のあり方に問題意識を持つようになる。
もっと端的に言えば「ちゃんと選挙には行こう」と思うようになる。
ヤンの人生観に感銘を受ける、あるいはクラシックや歴史や世界の戦術戦略など興味を持つようになる、
そうした「人生観を変える力」を持った作品である。
多田版のノイエ銀英伝には全くそういった力はないのが残念である。
最後に、ノイエ銀英伝の多田監督はこの批評動画を見ろ!→【アニメレビュー】銀河英雄伝説 Die Neue These 第1話~第12話レビュー(石黒版寄り)
https://www.youtube.com/watch?v=O2hFVcUJNEA
解説をしている「泡ガエル」という30代の女性は、キャラクター造形・テーマ性・艦隊戦の駆け引きなど、作品への理解が多田監督の100倍ある。
ただ、泡ガエルさんの批評はほぼ全面的に支持できるんだが、唯一納得できないのが
「石黒版」という言い方。実はノイエでヤン役の鈴村健一や三木眞一郎もラジオやコメンタリーで「石黒版」と言ってて
違和感があった。正しくは「石黒監督版」だと思う。敬称を省くのは偉大な作品を
手掛けた偉大な監督に対し失礼だ。「多田版」はいいけどね(笑) ノイエから入ったゆとり共が無礼なのはともかく、
我々伝統ある真の門閥銀英伝ファンがゆとり共と同様の無礼を石黒監督に対して働くのは見過ごせない。
「旧作」というのも同様に失礼。「OVA版」「本伝」「「石黒監督版」 ・・・こういった言い方をすべきだ。
多田監督版のノイエ銀英伝は、その点においては大変評価している。
ノイエからファンになった人は、なぜ原作ファンや石黒監督版のファンに叩かれてるか理解せず逆ギレしているようだが、
解釈違いでは済まされないような改悪があまりに多すぎるから批判されているのである。
先に総括しておくと、ノイエは全体的に壮大で長大な大河ドラマであるはずの銀英伝に対して余裕がなく、優雅さに欠けていて気品と心のゆとりがない。
すべての要素を要約するとこの一言に尽きるのかも知れない。
ノイエBD第一巻のコメンタリーで多田監督やIGのプロデューサーがCGが素晴らしい、
苦労したなどと自画自賛しているが、
私には単にゴテゴテして「内蔵まで描いてる」ようで全く美しく見えない。リアルで線が多いCGが
美しいと感じるのはオナニーでしかないと思う。
昔の手塗りの作画のほうが100倍雰囲気が伝わり美しいし品格がある。ゆとり以降の世代は
合成着色料や化学調味料ばりばりのファーストフードの味しか知らないみたいなものだ。
2018年に再制作されたノイエ銀英伝を許せないのは外見でも声優でもなくキャラの性格を改悪したこと
多田監督は石黒監督版OVAシリーズでは採用されていた印象的で重要な
原作小説の各キャラの名台詞をカットし、独善的な演出意図で代わりに言葉で語らせるのは野暮な余計な
アニオリ台詞を加えている部分が散見される。ヤンの幕僚たちをただのYESマンにしちゃったり、
空港で傷心のジェシカをヤンに論破させたり(原作でも旧作でも心の中で思ってるだけ)、
政治家に転身したジェシカにやたらと長尺で演説させたり(これは視聴者に作品通じて感得させるものであり
作品のテーマをわざわざ演説にして言わせるのは野暮である)
もうとにかくあちこちの演出に違和感が多い。
更にイゼルローン攻略戦で部下を強制的に道連れにして玉砕したゼークト大将に対しヤンを
憤激させておきながら12話ではホーウッドに部下を道連れにして個人的復讐心からキルヒアイス艦隊に
無謀な特攻をさせているなど演出意図自体も矛盾している。
その他についてはキャラが薄っぺらい美形ばかりなのも女性ウケを狙ったものとして許容できるし、
声優が交代するのも旧OVAとは時代が違うので致し方ない。BGMがクラシックでないのも
壮大さや銀英伝らしさは消えるが旧作との差別化という意味で理解もできるし
個々のストーリーエピソードを改変するのも作劇上仕方ないのかもしれないが、
ど う し て も 許 せ な い ことがある。
それは、キャラクターの性格を原作小説とは全く別人に変えてしまっていることだ。代表例は
キルヒアイス、シェーンコップ、ルッツ、ポプラン、ビッテンフィルト、トダ技術大尉などだ。
キルヒアイスはアスターテで兵士たちに休息をとらせるようラインハルトに進言する心優しい男
だったのがセリフごとまるごとカット。暖かさのない冷たいだけのイケメンに成り下がった。
更にノイエのキルヒアイスは指揮官としての資質に疑問。キルヒアイスの活躍するはずのカストロプ動乱。
このとき、原作では艦隊司令官として初陣で年上の部下たちの人心もまだ掌握できていない。この時点でラインハルトは評価されていても
キルヒアイスはただの副官としか周囲に思われていなかった。
にもかかわらず、ノイエではただでさえ敵軍より半分少ない兵力を更に分散し、旗艦バルバロッサ自らが敵旗艦に
直接攻撃するという無謀極まる作戦をとっている。あまりに賭けの要素が強すぎるし、人心を掌握してない段階では作戦の徹底すら危うい。
石黒監督のOVA版では動乱に丸々一話使い、アルテミスの首飾りをゼッフル粒子で爆破しているのだが、これは安全で合理的だ。
その戦果によってようやく、キルヒアイスはベルゲングリューンら部下や兵士たちの信頼を得るのである。
ちなみに、ノイエ版のカストロプは意味もなく部下を殴りつける頭のおかしい男になっていたが、
よくネタにされているOVA版でのローマ調の衣装は、きちんとした意図がある。
これは内乱によって滅亡した古代ローマ帝国の比喩であり、石黒監督は確信犯で取り入れたのだ。
マクシミリアン・カストロプのあのギリシャ古代ローマ趣味は、自分の趣味を部下と領民、領土の建物全てに
強制するという貴族特権のおぞましさの象徴なのだ。ネタキャラなんてとんでもない
彼が一番わかりやすく500年の貴族支配のおぞましさと醜悪さを表している
ついでシェーンコップはひらべったい顔の軟派野郎に、
豪快で気持ちいい猛将であるはずのビッテンフェルトは惑星の影からこそこそと長距離ミサイルで
ウランフ艦隊を攻撃してニヤニヤとほくそ笑んでる男になっちゃってるし、
ルッツはこそこそと超長距離砲で敵の旗艦を狙う有様。そんな戦い方をする男ではないし、
そもそも射程外から攻撃という戦術上のありえない超兵器出しちゃってるし、
この攻撃自体がルッツの旗艦の位置を敵艦隊に知らせることになり危険要素しかない。
極めつけはやたらと物分りのいいさわやか優等生の鈴木達央が演じるポプランだ。レディキラーで六無主義と陽気で不敵に無敵はどうした?
これでは少年ジャンプの熱血漫画の主人公である(笑) TV版のBD最終巻のコメンタリーで宮野真守や鈴村健一は
キャスティングの妙と言っていたが、これでは単なるキャスティングの失敗である。
多田監督は原作リスペクトを度々公言していたがこの有様である。何重もの意味で新旧のファンを裏切っている。
多田監督は、原作やOVAではしっかり描かれていた、焦土作戦を展開され振り回される同盟の名もなき兵士たちや民衆の心理やヴェスターラントへの伏線など、
肝心のストーリーの土台の部分を手抜きで欠損だらけにしておいて、11話の戦艦の出撃シーンなどにクドイほどの尺を咲いてCGを見せたがっている。
中身スカスカなのに表面のデコレーションだけを飾り立ててるようにしか見えない。
ノイエ銀英伝10話のシトレ元帥とヤンの会話の場面。ヤンは目上であり上官であるシトレに対し
腕を組んで机に腰を預けた姿勢で聴いているが、二人はそんなに親密でもないし
ヤンの性格的にも目上の人物にあの態度はありえない
そもそも、ヤンは軍隊と軍事を忌避し辞めるつもりでいるのに、
そんなヤンに対してわざわざ「いい雰囲気のBGM」まで流して
シトレが次世代を託すというシーンを美化していることにひたとすら違和感。
多田監督との解釈違いの象徴でもある
銀英伝では、地球教やフォーク准将のように、自分の正義や信念を疑わない人物は悪役になる。
ラインハルトの場合は、キルヒアイスを失ってからは特にそうだが、自己の正義の実現というよりは
心の飢えを耕すために戦っているのである。
田中芳樹先生と旧OVA版の監督である石黒監督に通じるアンチテーゼ観。
田中芳樹作品に通底する民主主義と自己の正義を信じて疑わない人物への
懐疑、批判、問題点の指摘といった視座と、マクロスのアンチテーゼとしてメガゾーン23を
監督した石黒氏は、合い通じるところがある。
ところが、ノイエ銀英伝の多田監督にはそれがない。BDのコメンタリーでもひたすら自画自賛して
バカ笑いしていたが、この人にあるのはフォークやトリューニヒトのような自己肯定感である。
元々が、この人の精神性は田中芳樹作品とは相容れないのである。
アイドルものアニメとかならうまくハマるのだろう(黒子のバスケもアイドルアニメの一種である)
多田監督の起用は、その意味では正解だったのだろう。
現在のコンテンツ産業は腐女子にウケないものはヒットしない。
少年ジャンプ漫画が最もわかり易い例である。
だから腐女子ウケする薄っぺらいイケメンやイケオジを大量投入して
銀英伝原作の持つ普遍的なテーマなどを感得させることは
棚上げしてキャラにセリフで野暮に喋らせ、ただただ、キャラ映えするような
薄っぺらい演出と構成になっている。品のないCGの多様や
クラシック音楽をBGMにしていないのもその典型だ。
上記のBD第一巻に収録されている一話のコメンタリーでラストのヤンの後ろ姿で尻の描き方にこだわったと言う
趣旨の発言をしているが、「んなこたぁどうでもいいんだよ多田!💢」
それよりもっとこだわるべき作品のテーマを演出で見せる工夫をしろよ!
腐敗した民主主義と清潔な専制主義、個人と国家、市民の政治参加意識の低さ、政治と軍事、忠誠と信仰、主権国家という概念への懐疑、歴史的俯瞰・・・
いくらでも銀英伝には伝えるべき普遍的テーマが用意されているだろうが!
こういうことを繰り返して名作を浪費しているから、どんどんと日本のコンテンツ産業は
BL的な意味合いではなく言葉通りの意味で腐って地盤沈下していくのである。
もう腐女子狙いの商売はやめるべきだ。たとえ金にならなくてもだ。
実際、ここ数年は銀英伝の感想をWEBやSNSで調べても腐女子のキャラ萌え感想ばかりである。
ほんとうに暗澹たる気持ちになる。彼女たちは上記のような銀英伝の本当の価値や魅力には気づいていないし興味もない。
ただただ、イケメンの生き死にとカップリングで発狂しているだけの萌豚である。
そんなところじゃないんだよ、銀英伝の魅力はよ!と怒鳴ってやりたい気持ちにいつもなる。
そもそもが、銀英伝はSF小説であり歴史小説である。これらは腐女子とは最も縁遠い存在だ
それが腐女子だけが群がってくる現状に、門閥銀英伝ファン一同としては涙するしかない
5話で登場するユリアンだが、梶裕貴の声質の問題もあると思うが、ヤンに賢しげに諫言するユリアンに激しく違和感を感じた。
そんな増長した子では原作のユリアンはない。多田版のアニオリ改悪セリフ回しの一つだ。
石黒監督版は、ひとりひとりのキャラクターデザインが明確に描き分けられていた。
その象徴がシェーンコップであり、多田版ののっぺりした顔ひらべったい星人ではなく、
石黒監督版は横顔を見てもはっきりと誰か分かるデザインだった。
ただのイケメンと人生の深みが感じられる「イイ男」は全く違う
ヤンの「カーチェイスシーン」などにも象徴されるが、キャラクターの見せ方が短絡的すぎる。
シェーンコップのキャラ造形については、ノイエ版から銀英伝に入ったゆとり以後の
腐女子にはノイエ版のひらべったい顔のただのイケメンは好きだが
OVA版は脂ぎってて受け付けられないんだそうです。
要するに、本当にいい男を見極められない子供ということだな(笑)
ハンナ・アーレント 全体主義の起源 夜と霧 エルサレムのアイヒマン
中村悠一のロイエンタールと小野大輔のミッターマイヤーなど、現在の若手中堅声優の演じる
提督たちが重々しい声を出すときの演技が似たりよったりのかたちになってしまっている。
ノイエ銀英伝のBDのコメンタリーでヤン役の鈴村健一はヤンは理想の上司と発言しているが、
ヤンの部下はよほど有能で精神的にもタフでないと務まらないと思う
なぜならヤンは常に非主流派だからだ。体制側の援護は期待できない。温かいどころか
能力主義のラインハルトの部下よりある意味で厳しい環境である。
そもそも、銀英伝は作画が良い悪い・キャラ萌え・ヒット作かどうか、
そんな次元とは全く別の価値を有する作品である。
銀英伝を見ると人生が豊かになる。現実の政治のあり方に問題意識を持つようになる。
もっと端的に言えば「ちゃんと選挙には行こう」と思うようになる。
ヤンの人生観に感銘を受ける、あるいはクラシックや歴史や世界の戦術戦略など興味を持つようになる、
そうした「人生観を変える力」を持った作品である。
多田版のノイエ銀英伝には全くそういった力はないのが残念である。
最後に、ノイエ銀英伝の多田監督はこの批評動画を見ろ!→【アニメレビュー】銀河英雄伝説 Die Neue These 第1話~第12話レビュー(石黒版寄り)
https://www.youtube.com/watch?v=O2hFVcUJNEA
解説をしている「泡ガエル」という30代の女性は、キャラクター造形・テーマ性・艦隊戦の駆け引きなど、作品への理解が多田監督の100倍ある。
ただ、泡ガエルさんの批評はほぼ全面的に支持できるんだが、唯一納得できないのが
「石黒版」という言い方。実はノイエでヤン役の鈴村健一や三木眞一郎もラジオやコメンタリーで「石黒版」と言ってて
違和感があった。正しくは「石黒監督版」だと思う。敬称を省くのは偉大な作品を
手掛けた偉大な監督に対し失礼だ。「多田版」はいいけどね(笑) ノイエから入ったゆとり共が無礼なのはともかく、
我々伝統ある真の門閥銀英伝ファンがゆとり共と同様の無礼を石黒監督に対して働くのは見過ごせない。
「旧作」というのも同様に失礼。「OVA版」「本伝」「「石黒監督版」 ・・・こういった言い方をすべきだ。