「圧力団体イクチヲステガ」の第七回公演「物語」を観劇、さらにレベルアップに感激!

2009年04月13日 20時58分54秒 | 演劇・映画
◆「圧力団体イクチヲステガ」の第七回公演「物語」(演出・戸張裕介)を東京・渋谷の「SPACE EDGE」で観劇した。今回は、海に飛び込んで、意識不明になって生死の淵をさ迷っている一人の若者・ユマが、主人公らしい。研究員が若者の意識を観察しているところを見ると、臨死状態を研究する実験室なのか、病室なのか定かではないけれど、若者が「夢」のなかでアタリという死神と思しき妖人に誘われて、先に旅立ったという兄・マキナを捜す旅に出かける。「塔」の上を目指す欲望に取り付かれて、騙し絵のような世界を循環しながら、だんだんと黄泉の世界に引き込まれていく。最後に死神の企みを知り、黄泉の国に連れ込まれそうになったところで、研究員が電気ショックのボタンを押し、その度に、死神が打撃を受けて倒れては、また立ち上がり、生に呼び戻そうとする研究員との間で、緊張した葛藤が繰り返されて、ついに死神がその存在そのものを失い、若者は、現実の世界に帰還し、田園風景のなかで、平和な日常生活を取り戻す。
 現実と夢、虚虚実実、その反復のなかで、物語が進行する。意識不明のなかで繰り広げられる夢と、現実の世界に生きて、上昇志向の目標である夢とが、交錯しつつ、一体何を
求めて「高い塔」を登り、限りなく夢を追い続けるのか、その意味そのものへの疑問が、湧いてくる。
◆扇谷正造さんの著書「なくて七癖」という書物のなかで、日本人は、上昇志向の強い民族であることが書かれていた。富士山登山しかり、大学進学しかり、出世志向が強く、「高いところ」を見つけると、すぐに登りたがる。
 思えば、いまから47年前、郷里・広島県呉市を出て上京したのは、この「登り癖」のせいだったのかも知れない。幕末の僧・月性が「男子志しを立てて、郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず・・・」と詠んだ漢詩が思い出される。それにしても、「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」である。まさに「光陰矢の如し」で、「上」を目指して、塔を登っているうちに、残り時間がだんだんと少なくなり、死神の罠にまんまと嵌ってしまう焦りを感じられてくる。
◆ふと我に帰ると、現実の世界では、桜が満開をすぎて、葉桜へと移り変わり、いよいよ新緑の季節に向かっている。西行の歌「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」が、脳裏をかすめ、懐かしさがこみ上げてくる思いがした。多忙な生活に追われていると、ついつい花鳥風月を忘れてしまう。「圧力団体イクチヲステガ」の「物語」が、個人的には、新たな物語を紡ぎ、人生にとって大事なものを見過ごしてきたことを反省させられた。
◆「圧力団体イクチヲステガ」の脚本、演技ともに回を重ねる毎に、レベルアップしている。そのことに満足させられた。今後、さらに「上昇志向」を強め、塔の天辺をめざし、文化庁主催の「芸術祭参加作品」での見事、受賞を期待したい。やっぱり、「登る」のは、必要かも。
板垣英憲マスコミ事務所

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新しい才能・佐藤レオさんの映画「ビリン・闘いの村」は、ドキュメンタリーに無限の可能性を予感させる

2008年04月04日 16時47分40秒 | 演劇・映画
◆ドキュメンタリー映画「ビリン・闘いの村―パレスチナの非暴力抵抗」(監督・撮影・編集:佐藤レオ、製作・配給:HAMSAFilms)の試写会(4月3日)に招待され、東京都渋谷区宇田川町37―18 トツネビル2階「アップリンクX」に鑑賞に行ってきました。

私は今年2月22日、大手民放テレビの編集主幹・Tさんと懇談した際、「是非、イスラエル・パレスチナを訪問してみてください。世界観が変わりますよ」と言われていました。Tさんは、かつてロンドン特派員時代、湾岸戦争取材のため、イスラエル・パレスチナにも入り、ユダヤ人とも激論を交わした経験があります。Tさんの言葉が脳裏から離れないなか、試写会の案内を受けたのです。
◆ビリンというのは、パレスチナ暫定自治区・ヨルダン川西岸にある人口1800人の小さな村です。監督の佐藤レオさんが、2006年5月から6月にかけて現地で取材・撮影したドキュメンタリー作品です。イスラエル軍とパレスチナ人との武力闘争が続いているなかで、このビリン村では、若者たちが「非暴力の闘い」を行っているのが特徴です。映画は、わずか「61分」の短編で、ストーリーは、以下のように構成されています。
「パレスチナ暫定自治区・ヨルダン川西岸にあるビリン村では毎週金曜日、イスラエル政府の建設した分離フェンスに対するデモが繰り広げられる。強大な軍事力を持つイスラエル軍に対し、ビリン村の民衆委員会はパレスチナ人、イスラエル人そして外国人の活動家たちを率いて、非暴力を掲げ闘う。
分離フェンスにより生まれているのが経済格差。グリーンラインと分離フェンスの間の土地にはイスラエルの高層マンションが次々に建ち並ぶというのに、パレスチナ側ではヤギを追う生活なのだ。その差たるや、東西ドイツの場合の比ではない。そして、パレスチナ側には水さえも十分に送られない。イスラエル兵による検問や尋問は日常茶飯事に行われ、人々の暮らしに支障をきたしている。あらゆる面で“兵糧攻め”にされた村は、ますます窮地に追い込まれていく。
長く続くが故に、人々の心深くまで侵すこの問題。『解決には、イスラエルへの外からの圧力が必要だ』(イスラエル人ドキュメンタリー作家のシャイ・ポラック)だからこそ若者たちも、非暴力のデモで状況を世界にアピールしようとする。そして、『デモは、カメラがないとデモにならない』(イスラエル人活動家・ヤ―リ)
カメラとはつまり私たちの目であり耳。彼らが闘いを通して伝えてくるメッセージを、まず受け止めなければ―。この作品は、遠く離れたビリン村と私たちの対話の場でもある」
 第二次世界大戦の最中、ユダヤ人は「民族浄化」を掲げたヒトラー率いる第3帝国により約600万人が虐殺されるという酷い目にあいました。いわゆる「ホロコースト」ですところが、いまユダヤ人国家・イスラエルは、パレスチナ人に対して「民族浄化」を進めているというのは、何とも皮肉なことです。中国で生まれた漢字である「正義」の「正」という文字がその成り立ちから、「侵略者である勝者」を意味しているということからすれば、「正義」が、「イスラエル」にあると考える人が少なくないのかも知れません。しかし、「バレスチナ人」が、「不正義」
であるとは、とても考えられないことです。
◆佐藤レオさんは、東京芸術大学美術学部デザイン科を卒業し、CGデザイナー、ノンリニアエディターを経て、映像ディレクションを手がけ、2002年より、見聞を広めるため、タイ、台湾、アメリカ、ヨーロッパ各地、中東など、40カ国以上を歴訪。2004年6月に帰国し、イスラエル/パレスチナで知り合った写真家・八木健次氏と共にドキュメンタリー「THE WALL」を編集、助監督を務めています。2006年にイスラエル/パレスチナを再訪問して、ビリン村を取材して製作したのが、初監督作品「ビリン村・闘いの村」です。
近年、テレビでも映画でも、社会派はもとより国際派の「告発型」のドキュメンタリー作品が少なくなっています。イスラエル/パレスチナ問題では、エンドレスな「武力攻撃とテロの応酬」が報道されていますが、この激闘のなかで「非暴力闘争」が生まれているのは特筆すべきであり、日本の若者の多くが、政治的「無関心層」「無関係層」と言われているなかで、この新しい動きに心を動かされた佐藤レオさんの感性には、感服させられます。ユダヤ人国家・イスラエルに対する抗議デモに飛び込み、イスラエル兵が発射する催涙ガス弾を浴びながら危険をも顧みず、カメラを向け続けるのは、大変勇気のいることです。佐藤レオさんは、次のようにコメントしています。
「イスラエル政府は、国際社会が決めたグリーンラインを無視し、パレスチナに与えられたはずの西岸の土地に120以上の入植地を建設し、主な入植地を分離壁・フェンスでさらに囲み、チェックポイントを設けてパレスチナ人たちの行動を制限しています。この政策は、国際司法裁判所から停止勧告を受けています。そういった見えにくい土地収奪、水資源の確保などが民族浄化の一手段として継続的に行われており、そういった日常が、パレスチナ人の困難をさらに難しいものとしているということを、この映像を通して広く理解されるきっかけになればと思います」
◆ビデオ・カメラの発達など取材のための機器が、ますます小型化し携行しやすくなってきているという、まさに「映像技術の進歩」は、ドキュメンタリー作品をよりつくりやすくしています。佐藤レオさんは、この映像機器の発達によるメリットをいかんな活用し、単なる映像文化の世界に止まらず、ドキュメンタリー手法を通して「国際報道」にさらに新境地を切り拓いていくのではないかと楽しみです。
佐藤レオさんは、カンヌ映画祭で「新人賞」と「グランプリ」を受賞した女流監督・川瀬直美さんに続く、無限の可能性を予感させてくれています。この若くて新しい才能の登場に期待したい。なお、この映画は、「2008年初夏」、アップリンクXで公開されます。


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映画「チャ―リー・ウィルソンズ・ウォー」は、日本のマスコミに出ない国際政治・軍事の裏話が満載!

2008年04月03日 10時56分32秒 | 演劇・映画
◆アメリカ映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(CHARLIE WILSON'S WAR)の試写会(4月1日)に招待され、東京都千代田区一番町18川喜多ビル一階にある東宝東和の試写会室で鑑賞させていただきました。

「チャーリー・ウィルソン」というのは、アメリカ下院議員を務めた実在の政治家(テキサス州第2選挙区選出、国防歳出小委員会委員)で、現在も健在だそうです。
 プログラムには、「トム・ハンクス主演最新作―たったひとりで世界を変えた、お気楽議員の『破天荒』な物語」と銘打ってあり、これだけでもドキドキさせられます。
 「たったひとりで世界を変えた」とは、一体何だったなのか。まず、チャーリー・ウィルソンは、国際的に知名度の高い政治家ではありません。この人が、歴史に残る大偉業を成し遂げたというところに、この物語(映画)のミソです。
 「歴史に残る大偉業」とは、米ソ東西冷戦下、アメリカのカーター政権はソ連軍に侵略されたアフガニスタンの反乱軍への武器供与という娃秘密作戦をCIAとともに行い、ソ連軍に大打撃を与えて、撤退させるのに成功したということです。アフガニスタンの民衆を苦しみから解放しようと「ちょっとした良心」から動き出し、この秘密作戦に必要な軍資金を調達したのが、チャーリー・ウィルソンだったのです。
◆ソ連軍がアフガニスタンに突如侵攻したのは、1979年12月27日のことでした。アフガニスタンは、アレキサンダー大王の時代からアジアとヨーロッパを結ぶ「文明の十字路」と言われる交通の要衝でした。ソ連はアフリカの資源を獲得する野望を抱き、「アフガニスタン―アラビア半島―アフリカ」につながる「回廊」をつくろうとしていました。
 ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したころ、私は、毎日新聞政治部記者として大平正芳首相を担当し、かつ文部省の記者クラブにいて、「モスクワ・オリンピック」についても取材していました。「オリンピック」は、文部省の所管事項です。
 ソ連は世界から批判され、各国が「モスクワ・オリンピック」をボイコットする動きをしていました。結局、日本政府と日本オリンピック委員会は1980年4月25日、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗議して「モスクワ大会不参加」の最終見解を発表しました。
 アフガニスタン反乱軍の猛反撃を受け、人的物的に甚大な被害を被ったソ連軍は、ついに1989年2月15日、アフガニスタン撤退を完了しています。
◆映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」は、この間にチャーリー・ウィルソンが、CIAの秘密作戦の推進役として果たしたその奮闘ぶりを描いているのです。原作は、1976年にCBSに入社してジャーナリストとして活躍したジョージ・クライル(2006年3月15日、すい臓がんで死去)という人です。ソ連にも情報源を持つ辣腕の国際ジャーナリストで、豊富な情報で構成したノンフィクション作品「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」は、ベストセラーになったそうです。2001年の「9.11事件」以来、「オサマ・ビンラディンや戦闘的イスラム教徒の世界を内側から情報提供した」というのですから、同世代の私の目から見ても、物凄いジャーナリストです。他界されていると知り、惜しい人物を失ったと残念でなりません。
 この映画は、チャーリー・ウィルソンが、ソ連軍撤退後にアフガニスタンの復興、とくに子どもたちのために学校づくりの支援をすべきだと国防歳出小委員会の同僚議員ら説得したにもかかわらず、理解されず、アメリカ政府は、アフガニスタンを見捨ててしまい、チャーリー・ウィルソンが、「最後にしくじった」という言葉を残しところで終わっています。
アフガニスタンは、以後、10年にわたり部族間の勢力争いという死闘が繰り広げられ、パキスタンに逃げた難民の子どもたちのなかから、「タリバン」が生まれ、タリバンと結びついたオサマ・ビンラディンが、「ユダヤ人とキリスト教徒ョを皆殺しに」という宗教命令「ファツ-」を発令し、それが「9.11事件」を引き起こす引き金になったことを思えば、チャーリー・ウィルソンが、「最後にしくじった」という言葉は、アメリカ政府の外交・軍事政策の失敗を告発しているようで、歴史的にも大変重みのある「予言的な言葉」であります。
◆私は、「9.11事件」直後「ブッシュの陰謀―対テロ戦争、知られざるシナリオ」(KKベストセラーズ刊)という本を著しました。その際、「もしアメリカがソ連軍撤退後にアフガニスタン復興支援に力を入れていれば、9.11事件は起きなかったのではないか」という思いにかられました。イラクにおけるブッシュ政権の苦難もいまとは、違っていたかも知れません。この映画は、日本のマスコミに出ないアメリカ議会の舞台裏や大国の外交戦術をはじめ「国際政治・軍事の裏話」をリアルに描いていて、秀作です。世界がどのように動かされているかを知るのに、絶好の映画です。
 主演のトム・ハンクスは、フレイボーイの不良政治家が突然、良心に変身し奮闘する姿をよく演じていて、「プライベート・ライアン」の将校とは違った味を出しています。「プリティ・ウーマン」で一世を風靡したジュリア・ロバーツ(富豪・チャーリー・ウィルソンの愛人役)は、女傑の貫禄十分、シリ・アップルビー(チャーリーズ・エンジェルの一人)は、「ロズウェル/星の恋人たち」のリズ役で人気を博したころと比べると、随分、色っぽく好演していました。この映画は、来る「5月17日」、全国の映画館で公開されます。


チャーリー・ウィルソンズ・ウォー 2008年5月17日(土)ロードショー

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韓国映画「光州5・18」は、軍隊と市民の関係を考えさせてくれる必見の作品

2008年03月20日 18時58分18秒 | 演劇・映画
◆韓国映画「光州5・18」(共同配給・角川映画など)の内覧試写会が3月下旬、東京都千代田区紀尾井町3-6紀尾井町パークビル8階の角川映画式会社で行われ、招待された私は18日午後6時からの試写会を鑑賞してきました。この映画は韓国の新進気鋭の監督、キム・ジフン氏の最新作です。この映画はキム氏の長編第2作で、2007年7月に韓国で公開され、観客動員740万人を超えて大ヒットしたそうです。日本では、5月10日から公開されます。
この映画は、韓国全土に非常戒厳令が発令された1980年5月18日から光州市のデモ隊が5月21日、全市を占拠、戒厳軍が27日、多数の死者を出して全市を鎮圧するまでの「光州事件」を再現していて、実に迫真力があり、圧倒されます。
いかに「米ソ東西冷戦」や「北朝鮮からの侵攻」に脅える軍政・戒厳令下にあったとはいえ、軍隊が同胞・市民に銃口を向け、無差別に発砲する場面に驚かされ、大変衝撃を受けました。
◆日本では1960年、「日米安全保障条約の改定」をめぐり、「安保反対」デモは労組から一般市民まで広がり、連日デモが繰り返され参加者が増大していきました。軍事闘争から転換した日共の六全共路線に飽きたらず日共から分派した新左翼で急進派の先端に位置した「共産主義者同盟=ブント」が。東大を中心に全学連を組織し「安保反対」の活動を開始しました。
しかし、時の最高権力者・岸信介首相は、強気姿勢を変えず、6月19日のアイゼンハワー大統領の来日をあくまで主張し、大統領の安全を確保するため自衛隊出動まで検討していました。しかし、赤城宗徳防衛庁長官が、「自衛隊を出動させれば益々デモはエスカレートし社会全体の崩壊に繋がる」として反対し、次第に岸首相は孤立していきました。最終的な決定打だったのが、ブントの手伝いをしていた東大生・樺美智子さんが圧死する事件が起きたことです。岸首相は、「これ以上世論を納得させることは無理」と判断し、参議院での「新安保」自然承認という形での「最悪の法案成立」と引き換えに米国大統領の来日断念と自らの首相辞職を表明。後任の池田勇人に託して舞台から降りています。
赤城宗徳防衛庁長官は、2007年に自殺した松岡利勝農林水産相の後任で「バンソウコウ大臣」と言われた赤城徳彦農林水産相の祖父です。赤城宗徳防衛庁長官は、事実上の軍隊である自衛隊が、本来守るべき国民・市民に銃口を向けて、発砲することは絶対に許されない、許すべきではないという良識を示したことは、今日まで語り草になっています。
それだけに、韓国の戒厳軍が、何のためらいもなく、光州市民に向けて、一斉射撃した場面には、あ然とさせられ、慄然とさせられたのです。日本では、到底考えられないことだったからでもあります。
いまから28年前のことを振り返ってみますと、日本では5月19日、大平正芳首相が自民党内の派閥抗争の末に、衆議院を「ハプニング解散」しました。当時、私は毎日新聞政治部記者として大平政権の政局運営を取材していました。韓国は中国と同様、報道規制が厳しく、報道各社のソウル特派員が全斗煥大統領の軍事政権を取材することは困難を極め、批判報道すると支局閉鎖・国外退去を命じられる時代でした。このため、詳細は伝わってきていませんでした。しかも、私自身、大平政権の取材に忙殺されていました。
◆「光州」は、韓国民主化運動の「聖地」といわれ、金大中元大統領、盧武鉉前大統領を誕生させる原動力になっていた。このため、昨年秋の大統領選挙の最中に公開されたこの映画には、盧武鉉前大統領放映後継者と目された鄭東泳候補(元統一相)をバックアップするという政治目的が見え隠れしています。
韓国の李明博大統領(ハンナラ党)4月20、21の両日、就任後初めて訪日します。李明博大統領が勝利したいま、日本では単なるメロドラマと受け取られる可能性が大きいのではないかと考えられます。
 しかし、ミャンマー政府の治安部隊がデモ隊に発砲、日本人ジャーナリストが射殺された事件はまだ記憶に新しく、中国政府は、チベット自治区でのデモ運動を武力で鎮圧していると言われ、28年前の「光州事件」は、決して過去のものではないと痛感させられました。
◆この映画で、韓国、ことに全羅道に「死後結婚」という風習が残っていることを初めて知りました。死者に囲まれた花嫁姿のヒロイン、パク・シネだけに笑顔がなく、悲しそうな表情をして真ん中に立っている映画のラストシーンは、韓国民の悲劇を象徴しているようで、涙を誘われました。
日本の防衛省・自衛隊が、地位の向上に伴って傲慢になり、「軍事優先の論理」にどっぷり浸かっている状況の下で、最新鋭イージス艦「あたご」が、千葉県房総沖で漁船に衝突し、父子2人が行方不明になる事件が起きています。防衛庁自衛隊の最高司令官である首相には、いざというとき「治安出動」を命ずる権限が与えられています。世の中は、どのように変わるかわかりません。自衛隊が、近い将来、憲法改正により「自衛軍」となっても、国民に銃口を向けるような時代が到来しないことを切に願うものです。
その意味で、韓国映画「光州5.18」は、軍隊と市民の関係を考えさせてくれる必見の作品と言っても過言ではないでしょう。
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圧力団体イクチヲステガの公演「物語」は、若い才能と感性に溢れていて秀作であった

2008年03月17日 17時30分01秒 | 演劇・映画
◆以前ブログでご紹介しました、圧力団体イクチヲステガの公演「物語-ペディル・コルフォイ」を観劇にいきました。3月8日午後2時からの公演で、なんと、ありがたいことに「アフタートーク」にゲスト参加の栄誉に浴しました。自分の年齢を忘れて、若い演出家やスタッフの方々とトークができて、急に若返った気がしました。
 寺山修司、唐十郎といった一世を風靡した「アングラ演劇」が、一歩まぢえるとどことなく胡散臭く、エロ、グロ、ナンセンスだったのと違い、圧力団体イクチヲステガの演劇人は、清潔感があり、みな、生真面目です。
◆この「物語」は、「ベルリンの壁」が大きなモチーフになっていると聞き、若い方々が国際政治に強い関心と問題意識を持っていることに感動させられました。
 ベルリンの壁は、東独が1989年11月9日、実質的に撤去、ベルリン市民が同月11日、壁の破壊を開始し、ついにソ連・東欧の共産主義が崩壊しました。
ソ連という国は、フィンランドを侵略し、エストニア、ラトビア、リトアニアを攻め取り、東欧諸国も蹂躙してきた帝国主義、植民地主義国で、「共産主義国」というのは、まやかしでした。それにもかかわらず、日本の社会主義者たちは、ソ連を「理想国家」として擁護していました。これに対して、日本西側陣営の多くの人々は、ソ連の支配が何世紀も続くのではないかと、絶望感に囚われていたものでした。それが、驚くなかれ、内部崩壊により、自滅したのですから、これほど痛快なことはありませんでした。
もう19年も前の出来事です。「おぎゃあ」と生まれた赤ちゃんが、ようやく成人になろうというまでの長い月日が経っています。それほど過去の出来事をモチーフにしていること自体に、むしろ驚嘆させられました。日本の若い世代も、捨てたものではありません。
◆しかし、人間どうしが、「壁」を築き合う不幸な出来事は、いまでも、また将来でも起こり得ることです。「格差社会」という言葉が象徴しているように、現代の日本社会の中にも国民どうしが、大きな壁をつくりつつありますから、油断はできません。
 公演のクライマックスのところで、照明が消え、舞台となっている床面に敷かれた黒い布が、一気に巻き上げられて、舞台を挟んで対面していた観客席が、遮断され、「闇の世界」となりました。これは、一種のサプライズです。この見事な演出により、観客は、「壁」を意識し、空想の中を一瞬さ迷う感覚に陥ります。
◆ところで、公演を観劇して一週間の後、中国のチベット自治区の区都・ラサで大規模な暴動が起き、一説には治安部隊や軍隊の発砲により、100人が虐殺されたという報道がテレビ、新聞などで報道されました。胡錦涛国家主席は、チベット自治区の書記時代に暴徒鎮圧に辣腕を揮い、20万人を虐殺した実績を持っているという話もあります。中国は、依然として外部に対して「大きな壁」を設けており、内部情報が正確に伝えられていません。中国は、ソ連に負けず、劣らず、帝国主義的であり、植民地主義的であります。「北京オリンピック」に浮かれている場合ではありません。欧州諸国から、「北京オリンピックをボイコットせよ」という声が上がるのは、当たり前です。アメリカの俳優、リチャード・ギアが怒るのは、もっともです。
 こうした意味で、圧力団体イクチオステガの今回の公演「物語」は、「ベルリンの壁」をモチーフにしていながら、極めて現代的で、しかも普遍的なテーマを取り扱っている秀作と言えるでしょう。
◆人間は、「言葉」によって、いろいろな関係をつくります。あるいは、つくられると言った方が正確かも知れません。そこから様々な物語が生まれてきます。「言葉」というツールによって、物の見方、考え方が制約されたり、あるいは、社会の掟やルール、慣習・陋習、などの「フィルター」の機能に左右をされたりします。固定観念にとらわれたり、マジックにかかったり、錯覚に陥ったりもしてしまうのも、言葉のためです。「人を殺すには、刃物はいらない。一つの言葉があればよい」と言われるように、言葉は、恐ろしい武器、凶器にもなり得ます。こんなことを改めて痛感させられた公演でした。
 圧力団体イクチオステガは、これから「大阪公演」を経て、再び東京に帰ってくるそうです。この旅によって、出演者やスタッフの皆さんが、どのように変化、変身、あるいは大化けしてくるか、楽しみです。大いに期待されるところでもあります。
 若い演劇人が陸続と育ち、日本の文化の発展に寄与してくれるのは、実に頼もしい限りです。
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あら嬉しや!「政権交代―小沢一郎 最後の戦い」(共栄書房刊)、次期総選挙まで売れ続けることになった

2007年07月30日 13時18分04秒 | 演劇・映画
◆「民主党大勝」でホッと胸を撫で下ろすどころか、民主党候補者に「当確」が出るたびに事務所の全員が手を叩き、小躍りして大喜びした。自民党、公明党の候補者の「落選」が報じられるたびに、手を叩き、小躍りして大喜びした。菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長が、インビューに応えているのがテレビに映り、勝因を語っているのを聞くたびに、手を叩き、小躍りして大喜びした。中川秀直幹事長が敗北の原因を語っているのを聞くたびに、手を叩き、小躍りして大喜びした。お蔭で手が赤くなってしまった。
◆自民党が歴史的大敗をしてくれたので、拙著「政権交代―小沢一郎 最後の挑戦」(共栄書房刊)が、ゴミにならないで済んだ。投票・開票の結果がはっきりするまで、ハラハラしどうしだった。「民主党大勝」の瞬間から、この著書の本格的な販売が始まった。
◆ただ、心配なのは、小沢一郎代表が、勝利宣言の記者会見に姿を現さなかったことである。このクソ暑いなか、全国各地を選挙運動に飛び歩いたため、過労でダウンしたという。この際、じっくり静養されるとよい。
◆政局は、衆議院解散・総選挙含みで推移していく。いつ総選挙になってもおかしくはない。次期総選挙のときこそ、「小沢一郎―最後の大決戦」となる。それまでの間、「政権交代―小沢一郎 最後の挑戦」は、売れ続けることになる。こんな嬉しいことはない。
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「風林火山に学ぶ経営学―人は石垣 人は城」(講師:板垣英憲)が、今春からインターネット配信されます

2007年01月16日 23時34分47秒 | 演劇・映画
◆東京都内のある取引先の会社に訪問した。今春からインターネット配信(会員制・有料)の「講座」を始めるということで、私をトップ・バッターに選んでくれた。政治経済評論家として活動してきたが、その一方で「歴史」をテーマにして呼んでくれている。「元禄繚乱―忠臣蔵」「宮本武蔵の五輪所」「山内一豊と千代」などの小冊子に続いて、昨年は、「風林火山に学ぶ経営学―人は石垣 人は城」というタイトルで制作してもらった。すでに全国の商工会議所や商工会、法人会から注文が殺到しているという。
◆NHK大河ドラマは、武田信玄の軍師である主人公・山本勘助役の内田聖陽氏の好演もあり、出だしから評判で高視聴率を取っているそうである。内田聖陽氏は、藤沢周平原作の「蝉しぐれ」で好評を博し、今回、「風林火山」の主演が決まったという話も話題に上った。
それもさることながら、この大河ドラマがキッカケになり、全国の経営者の多くが「孫子の兵法」に対する関心を俄かに高めているという。この機会をとらえて、「ビジネス孫子」をインターネット配信しよという企画である。
源氏の嫡流・八幡太郎義家に伝えられた「孫子の兵法」は、実朝、公暁が殺されて源氏の嫡流が断絶した後、義家の弟である新羅三郎義光直系の子孫である武田信玄に伝えられ、しかも山本勘助が実戦のなかで体得した。それを象徴する旗印が「風林火山」であった。
◆インターネット配信では、「孫子の兵法」をビジネスに役立ててもらおうという立場から、経営者向けに講義スタイルで行われる。主な内容は、日本における孫子の系譜、十三篇に構成されている孫子の兵法の構造、ソフトバンクの孫正義社長が青年時代につくった「二十五文字」からなる「孫の二乗の法則」を中心に解説することになる。
経営学といえば、アメリカの経営学者・ドラッガー博士の経営方法やハーバード大学ビジネススクールの講座などが、有名だが、これら以上に、欧米の経営者の間で人気が高いのが、「孫子の兵法」である。英語版「ソン・ツー」を熟読玩味して、ビジネス実戦に生かしている。その代表者が、マイクロソフト社の創業者、ビル・ゲイツである。
◆経営者が、ビジネスを展開するうえで、「経営の原理原則」あるいは「マニュアル」を持っていることは、極めて心強い。しかし、日本の公的教育体系のなかには、リーダー養成プログラムはなく、ましてや「孫子の兵法」に立脚した「経営の原理原則」あるいは「マニュアル」を教えるビジネス・コースは、皆無に近い。
この意味で、今回のインターネット配信は、 NHK大河ドラマ放映という時代のめぐり合わせもあり、誠に時宜を得たものと受け止め精魂込めて制作に協力したいと心に決め、早速準備に取り掛かっている。
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武田信玄の軍師・山本勘助は浪人中、「毛利の孫子」にめぐりあった?

2007年01月15日 12時41分49秒 | 演劇・映画
武田信玄の軍師・山本勘助は、永禄4年(1561)の川中島の戦いにおいて、69歳で戦死している。この事実に基づけば、勘助は、おそらくは明応元年(1492)ごろ、生まれたことになる。戦国時代が始まった応仁元年(1467)から25年を経たころである。慶長5年(1600)9月15日、関が原の合戦の108年前に生まれ、39年前に戦死したことになる。武田信玄(晴信)に仕えたのが、51歳のころというから、天文22年(1553)のころであろう。在職は僅か18年にすぎない。
14~15歳ごろ元服し、浪人しながら諸国を放浪し、各地で合戦を目撃したり、ときには、雑兵に紛れて参戦したりしながら、兵法を実戦的に学んだという。NHK大河ドラマ「風林火山」の第2回目(1月14日)は、そのことを連想させる作りであった。
 山本勘助の兵学の師匠がだれであったか、また、兵法の最高峰「孫子の兵法」にいつごろめぐりあい、開眼したかは、定かではない。勘助が浪人中に起きた合戦のなかで、戦国の勢力図を動かしたに主なものには
●北条早雲が三浦義同を滅ぼして相模を平定したのが、永正13年(1516)=山本勘助24歳のころ。
●毛利元就が山陰の雄・尼子晴久を破ったのが、天文9年(1540)=山本勘助48歳のころ。
などがある。このうち、「孫子の兵法」に最も縁の深い家系が、「毛利家」と「武田家」であった。
 「孫子の兵法」は、遣唐使・吉備真備が天平7年(735)、唐から持ち帰った数々の文物のなかに含まれていた。吉備真備も実戦に使い、勝利を得て、天皇、公家から高い評価を得た。平安時代末期、当代随一と言われた学者・大江匡房によって大成され、これが源氏の嫡流・八幡太郎義家に伝授され、「源氏の孫子」となる。これが八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光にも伝えられ、その嫡流の子孫が、武田信玄(正式には、源朝臣・武田信玄)である。
大江匡房の曾孫・広元と源氏の嫡流・源頼朝で合流。大江広元の息子・季光が現在の神奈川県厚木市に当る「毛利荘」の領主となり、「毛利姓」を名乗るようになる。この家が安芸国に領地を得て、その子孫のなかから、毛利元就(正式には、大江朝臣・毛利元就)が生まれる。これが「毛利孫子」となる。
 山本勘助は、浪人中、安芸国にも足を伸ばしていたと言われ、「毛利文書」にも「山本勘助らしき人物」の記述も見られるという。とすると、勘助は、毛利元就の合戦を通じて、「孫子の兵法」を実戦的に見聞、あるいは、体験した可能性がある。
 だが、出身地である三河の隣国である甲斐国の「武田家」が、「孫子の兵法」を継承している家系であるとは、直には、気付かなかったのかもしれない。
毛利元就が「孫子の兵法」を活用して陶晴賢を破った「職厳島の合戦」は、弘治元年(1555)10月1日、山本勘助が63歳のころであった。勘助は、「源氏の孫子」を我が物にして、戦いの日々を送り、知力を尽くして越後の虎・上杉謙信と対決していたのである。
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 【日本における「孫子の兵法」の系譜】
吉備真備(693~775)
  735年(天平7)遣唐使として中国に渡り「孫子」を持ち帰る
     清和源氏の嫡男・源頼信(甲斐守、甲斐源氏始まる)
               ↓
              源頼義
               ↓    
大江匡房 〈孫子を伝授〉→源義家 新羅三郎義光(源義家の弟)
(1041~1111)       ↓     ↓*頼信の孫
大江広元(匡房の曾孫) 源頼朝 武田義清(義光の2男)
 ↓  *頼朝の政治参謀   義経   ↓
大江季光(毛利の荘の領主)     武田信義(義清の孫)
 ↓  *神奈川県厚木市 *甲斐巨摩郡武田村(
大江経光(越後毛利) 現・韮崎市)に住む
                   
毛利元就「尼子家に偽手紙」     武田信虎(石和から躑躅ケ崎
  「陶晴賢に偽手紙・厳島の奇襲」   ↓ 館に移る)
  織田信長⇨〈三方ケ原の合戦〉 武田信玄(風林火山を旗印)
       ⇨〈長篠の合戦〉    武田勝頼(武田軍団壊滅)
毛利輝元 〈関が原の合戦〉  徳川家康
      *1600年9月15日      ↓山鹿素行・荻生徂徠
                  大石内蔵助〈吉良邸討ち入り〉
                    ↓
毛利敬親  〈明治維新〉 徳川慶喜

乃木希典〔素行会を残す〕
     山本五十六〈真珠湾の奇襲攻撃〉
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安倍政権の足下を揺るがす「政治資金収支報告書」は、特ダネの宝庫だ

2007年01月11日 12時13分00秒 | 演劇・映画
◆金銭をめぐり日ごろから悪評の高い松岡利勝農水相、一見清廉そうな伊吹文明文科相、自民党の中川昭一政務調査会長、衛藤征士郎元防衛庁長官の名前が次々に取りざたされ、佐田玄一郎前行革担当相の二の舞になるのかと、このところの永田町は新年早々から、賑やかである。
 それが、安倍政権を根底から揺がせて、新年早々、ヘロヘロにさせているのである。地震にたとえれば、「政治資金地震」である。マグニチュードは、いまのところ、「3~4程度」と言ったところである。野党第1党の民主党でも、松本政調会長の政治資金も不明朗さが摘出されているので、野党がどこまで政府与党を追及できるかは、不明ではある。
◆しかし、これが単発ならともかく、「群発性」なので、予断は許されない。安倍政権全体が、活断層であり、震源地であるから、報道機関も気を抜けない。
 政治資金収支報告書は、主に総務省が届け出先であり、管理・監督官庁である。以前は、旧自治省の古い建物内にあった政治資金担当課に備えつけられた棚に並んだ簿冊を一つ一つ引っ張り出し、必要な部分を直接、書き写さなければなかった。コピーは禁じられており、作業は大変だった。それでも昭和59年夏ごろから自治省の内政記者会に限っては、各社共同作業により、一斉コピーが許された。この頃、ある一般主婦がコピーをさせろと自治省を提訴して最高裁判所まで争ったが、敗訴している。
◆情報公開法の施行などを経て、現在は、インターネットで検索すれば、届出されている政党や政治家の政治資金管理団体、その他の政治団体の政治資金収支報告書を引き出すことができる。これらを政治資金規正法の規定に照らし合わせて、丹念に分析していけば、罰則規定に抵触する「違反容疑」を発見できる。そのうえで、収支報告書に記載されている「代表者」や「主たる事務所」「会計責任者」「会計責任代行者」などについて、裏付を取り、そのうえで、収入と支出を分析していく。
 総務省が現在、公表しているのは、「平成17年(2005)分」である。平成18年度末までに届けられたものであるから、この点で最新のものではない。「平成18年(2006)分」は、本年3月末までに届けられて、秋以降公表される。
◆三木武夫元首相が口癖だった「金権政治の打破」という言葉は、いまだに死語になっていないようである。「政界の腐敗・汚濁」は、発見すれば、「ニュース」になる。他社を出し抜けば、「特ダネ」になる。
 ターゲットを「大物」に絞れば、大魚が釣れる。たとえば、「金満政治家」で名高い森喜朗元首相、青木幹雄参議院自民党会長らである。当面の究極の大物は、言うまでもなく安倍首相である。マスコミ各社の皆さんの健闘を祈る!
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NHK大河ドラマ「風林火山」が武田信玄の軍師・山本勘助の若き時代をどう描くかに注目したい

2007年01月08日 20時43分11秒 | 演劇・映画
 NHK大河ドラマ「風林火山」が1月7日午後8時から、始まった。第1話なので、山本勘助の「兵法修行時代」を描いている。といっても、山本勘助は実際には、いつ、どこで生まれたのか不明である。三河の出といわれているものの、これも定かではない。この人物の存在自体が、疑われていたのだから、シナリオを書くことそのものが、大変な作業である。若い放浪時代は、すべて想像である。それだけに、脚本家が、どこまで空想にふけってくれるかが、楽しみである。
 韓国ドラマ「チャングム」が、日本の室町時代中期の物語だった。古い記録に「大長今」という一文を見つけて、54話を綴っていたのと比較すると、また面白い。第1話は、山本勘助が、故郷の三河に帰る途中、甲斐の武田軍と駿河の今川軍の争いに巻き込まれる場面から口火が切られている。1467年の応仁の乱から始まった戦国時代の様相を活写しようとしている意気込みは、よく伝わってきた。
山本勘助が武田晴信(後の信玄)に会い、家来に取り立てられたのが、51歳。晴信は、23歳のときだったといわれている。織田信長が舞いながら謡った「敦盛」の一節に「人生50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」とあるように、「人生50年」は、文字通り「晩年」、まさに「人生の黄昏時」である。
いまは、「人生100年」といわれる長寿時代であることと比較すると、実に感慨深い。寿命が倍になっているのであるから、山本勘助が現代に生きていれば、100歳になって初めて「仕官」できたことになる。その執念たるや碧眼にして足が悪いという形相に相応しく凄まじい。
定年とか、還暦とか言って、「悠悠自適」とオツに清まして、「珍香も焚かず、屁もひらず」に老後の生活を大過なく過ごす「時間の無駄遣い」が、はなはだ惜しくもなる。
とりあえず、山本勘助が、「孫子の兵法」をどのように学んで行ったのかを、どう描いてくれるかに注目したい。
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