旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

249 韓流ブームのその前に!

2012-04-28 05:46:01 | 散策
  ビルマ以外のアジアの国々にも方々いきました。シンガポール、マレーシア、フィリピン、香港、台湾、タイはカンチャナブリ、そして何時終わるかと思った韓流ブームの国が、益々ブームになって来ました。そのブームが起こるズート前の事、その時に何処に泊ったかも忘れる位大分前の事でしたが、セールスのミーティングで韓国ソウルに行きました。

 皆で日本料理を食べようと言う事になって日本料理店を探して入りました。今考えると良い時代でしたが、高々3-4泊の旅行で、どう言う訳か東京の人達は日本料理を食べたがるのでした。外国に行くと日本料理店を探して、無い時は中華料理で仕方無く済ますのでした。それは徹底していました。

  私の大阪の上司は反対に、国内で旅館に一泊した時の事ですが、朝ごはんに我慢できなくて、仲居さんにパンを買わせに行かすと言う具合でした。我がままが多いのが、私がいる頃の我が社の営業の特徴と言えました。私は、どちらでも良いのにと思うのでした。

 さて、皆で日本料理店を探して行きましたが、ソウルと言うとやっぱし河豚?ふぐはやっぱり変ですが、出てくるはずが無いのに、てっちりとてっさを食べました。多分呑んでいたせいもあって、板場のおっちゃんの‘だいじょうぶや’と日本で取ったと言う河豚料理のライセンスがあると言う言葉だけで実物を見ていないですが、それを信じて食べたのでした。多少の疑いを持ちながら、河豚を美味しくたらふく食べて、良く無事で生きていたものでした。

 しかし、考えて見れば韓国、朝鮮の事をどれだけ知っていたでしょう。高麗が朝鮮だと分っている事位しか知らないのでした。印象に残っているのは南大門や東大門でどちらか忘れましたが、豚の首が20程並べてあるのを見て残酷な所と思ったけれど、その民族の事を勉強したかなと考えました。

 今の韓流ブームに乗かっている人達もその歴史となると分らなくなり、2国間の過去はほぼ知らないと思うのです。今は知りませんが、私の時は学校で少し習っただけで、古くは朝鮮の国から色々学んで人の交流もあったけれど、隣の国の事を少しは知らなくてはいけないのですが、イタリアや英国の事を勉強しても朝鮮の事を習った事を覚えて無いのです。色々な事を学んだ国、隣の国にすれば秀吉とはとんでも無いですが、朝鮮を攻めた話も日本の本では加藤清正の虎退治、多分この辺からおかしくなって、私の学校時代。朝鮮合併の事も殆ど、その年代だけで終わって何の疑問も湧かずに過ぎて来たのでした。

 だから、英国ケンブリッジで日本海を泳いで韓国までどれ位と言われて、言葉に詰まったのでした。現在は年賀状だけですが友人にも韓国人がいて、鶴橋のモモタローに行ったり、それは色々食べました。現在は私の身のまわりにも韓国語を勉強する人が多く、大阪には韓国の人が日本で一番沢山住んでいると聞きいて、少し遅くなりましたが、朝鮮史の勉強始めました。50ページを超えた所で正直しんどくなって来ました。もう、少し頑張ってと思いましたが、もう少しがいいとこで、残念ながら諦めました。

 その当時は、そんな事を考えもせずに安いので、当時はレザーの上下を買って帰りました。駄目ですね!

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248 散策色々!

2012-04-21 06:47:51 | 散策
  これだと思った、こんな散策があってもいいかなと思ったのが、毎日夕刊に載っていました。何処の普通の町にも、それなりに違って見える事を紙面を半分近く使って書いていました。散歩日和としてどこにあるか知りませんが、大阪の東住吉区の針中野かいわいを紹介したもので‘天気が良くて、会社に用がない時は、なじみのない街を歩いてみたい。足が向いたのは針中野。土曜の昼下がり駒川商店街のおばちゃんや云々’私の意図している所が、何か見えて来た感じがしてきたと思いました(遅い!)。

 なにも寺社仏閣等有名な所を紹介するような散策日記ばかりで無く、普通に歩いてそこに何かを見つけたら書いたら良いのだと思いました。ぶらり何も特別な物が無い所、一般的な所に何かを見つける、これを書くのが難しい。

  自分で感心しましたが?今までの私の散策はその域に近かったと気づきました。今回の様に大阪廻りをやっているとどうしてもこんな風になっているのでした。と言うのも有名な所が少ないと思っていました。勿論、健康の為に目的も無く散歩するのは、それはそれで良いでしょうが、その様に、これから後も色々書いて行きます。何も無いと思われる所を歩き、無目的が目的になって良いと思いますが、私は何かを求めて散策日記を書く事に出来ればしたいと思います。でも、やっぱりまだまだ有名な名所旧跡も回って見たい。まあ、その辺りを目指します(どの辺りや!)。一日6回歩くだけの方がおられますが、ただ、歩く為に歩くは私にはやっぱり無理だと思いました。

 日経夕刊に、大阪にひっそりと‘清水の舞台’が玉出の滝がある音羽の滝と写真(2月29日)入りで江戸期に建立されていたと紹介されてました。 3月1日には通天閣、そして産経では3月10日には、細川ガラシャの越中井を紹介しています。丁度その記事の前に回ったので、だれでも興味が起きるのは同じ所と、流石に自分が先見の明があるのだと一人感じていました。しかし、この記事で、人それぞれに興味の的と言うか、持つ所が違うので面白く読みました。又、帰ってから見た物を興味を持って改めて調べなおすと言う事をするようになりました。

 このブログで以前自分の言ッた事を思い出しましたが、カリブ海を回って来た年寄りのグループの人々に昼食会に誘われて、何処が良かったですかと聞きました。その時、ダラスが良かったと総ての人が言われました。私自身、ダラスは一番良く行きましたが、お年よりが行ってそれ程良い面白い所とは思いませんでした。

 そのグループは乗り換え上、偶々ダラスに泊ったのですが、その方達が良かったのは、町にゴミが落ちていなかってとても美しい街だと思われたそうです。ダラスと言うと私の年代でしたら、ケネディが暗殺された所が有名ですが、そうか、こんな見方も出来るのかと思っていました。又、そんな風に思われるとは、私は旅行者がそこまで旅なれていないと思っていました。その時以来今の今まで、余り関係無いと今まで気づいていませんでした。

 20年程前にスイスに心の恋人つまり、私と同年輩で未だに美しい友達に会いに行った時の事でした。その友人の近所の普通の公園で子供と遊んでいて、当時こんな旅行も良いなと思った事を思い出しました。自分も同じ様に旅行を楽しんでいたのでした。今回のあの記事は、その素晴らしさに気づかせてくれました。そして自分もあのグループの人達と同じ様に、それなりに年を取って来たのを感じざるを得ない事となりました。
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247 桜の飯田橋から

2012-04-14 06:25:35 | 散策
 2006年、成田にいた頃、飯田橋から東銀座迄歩きました。飯田橋の西口を出て牛込橋から右前外堀沿いに遠目に見える立派な桜並木に、間に合って良かった思いました。早速、車道を渡り写真を何枚か撮りました。美しい。

 駅の右は神楽坂方面に向かいますが、今回は左に早稲田道を九段坂方面に目的地の千鳥ヶ淵に向かう坂を上り始めました。直ぐ青森県の物産販売APPLE BLD.の一階で買い物。何でも東京にはあるなと感心。そして何故か幽霊坂が3つも平行にありました。

 しばらく行くと黄色い通学帽子の小学生たち、私には奇妙な光景、どう見てもその中に外国人顔の子供が一人いました。多分その上にあった富士見小学校の児童だと思います。こんな遭遇にも東京を感じました。地図を見ると付近には日本歯科大、ルーテル外語学校、暁星高、和洋九段女子高、九段高の学校やシャミナード修学院などあり文教地区と知りました。

 そして、右手に平安神宮なみの立派な大鳥居が見受けられたので行くと花見の屋台がずらりありました。そこは靖国神社でした。まったく予定していませんでしたが、訪れたかった所なので早速、公人では無く個人参拝しました。(実際は無料の入り口迄)。韓国大統領が先日行きたいと言っていた遊就館に800円の入場料を払い見学。ただただ、日本の戦争参加の正当性を訴えた映画、展示品も上級将校ばかりの綺麗なものばかりで戦争の悲惨さを伝えるものも無く、私の年代では誰より戦争の実態の知識があると自負する私にとっては許されるものではありませんでした。アジアの国々に非難されるのが分かる靖国神社でした。入る前に買おう思っていた饅頭のことも忘れそこを心重く去りました。二度と来ることは無いと思います。
 
 そんな落ち込んだ気分もそこから5分程の千鳥ヶ淵のお堀を後ろにした桜並木の壮大な景色に打ち消されました。夜桜照明の最後の日と言うことで少し葉が多い桜もありましたが大変綺麗で御座いました。堀にはボートを楽しんでいるカップルが見え、できれば私は、ボートに乗ってお酒と桜を優雅に楽しみながら誰かに漕いでもらいたい。
 堀沿いに千鳥ヶ淵公園の桜並木を下っていくと立派な半蔵門がありそこから堀の幅が大変大きくなり、そして道から堀の水面までがどこも深い。二条城(外周1.8キロ)の堀しか知らずに育った私としてはその雄大な景色に圧倒されました。見下ろした大きな堀の向こうにはビル群、右手に国会議事堂、目の前の国立劇場との間の道は広く立派なものでした。

 その古い歴史あるものと新しさの融合した景色は世界でも有数のユニークな都市、東京にしか無いものです。ちょっと誉め過ぎましたが実際感動の景色でした。
 歴史に名高い桜田門をくぐり抜けてやたら広い皇居前ひろばへ向かいました。門の脇にある石垣の綺麗な配置に驚き、この感受性はまだまだ若いと自分で勝手に一人納得しました。

 この一日の体験での結論。この町には何でもあるから東京一極集中止む無し。残念そして、急に京都河原町通りの寂れた情景を思い、京の古い町家の破壊状況に寂しい思いをしました。戦争で残った歴史的な庶民のものの個人による保存は極めて難しいと認識させられました。昔から思っていたことですが、総ての歴史ある都市のテーマパーク化、昔いった倉敷、又は京都で祇園コーナーのような町の一部のみを保存すると言うように、日本国中一律特徴無し同じ町になる日もそう遠く無い事でしょう。
 ご注意 この地、東京に住んでいると、そこからは他の地域は見えません、必要なし。まあ、東京独立国家ですね。
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246 ビルマ 

2012-04-07 07:42:11 | 散策
 突然ビルマですが、大阪ピースを見学して、スー チーさんも勝利に、これは書かなくてはと思いました。40年近く前、まだミヤンマーがビルマと呼ばれていた頃に合計3度もビルマに行ってます。ビルマが鎖国を止めて何年かたっていたと思います。
 ビルマ航空のチケットも買え無い状態でしたので、シンガポールの旅行社に頼んで切符を空港内で受け取ると言う事で、先ず最初からビクビクで心配でした。

 飛行機に乗ってビックリ、サービスは何度も使い、色が茶色に変わっているプラスチックのコーヒーカップで出てきました。その当時は煙草を機内で吸えたのですが、そこで隣の人がマッチと言うと、使いふるしたかなり大き目のマッチがでてきました。何もかもが珍しいものでした。

 一度はどこの空港か忘れましたが、50人程のプロペラ飛行機で、中には戦闘で負傷した兵士は乗っていて、何と草原の滑走路に降りました。草原に降りたのは後先初めてでしたが、着陸した時は気持ち良くクッションの上に降りた様でした。

  京都の128戦友会のメンバーとご一緒させてもらい、グループとして移動しました。最終的にラングーン、マンダレー、パガンと色々回りました。初めて行った時の事ですが、顔に白い刷毛で書いたようなものが殆どの人に付いていました。てっきり皮膚病かと思っていました。寺院で裸足にならなくてはいけなくて、病気がうつったらどうしようかと本当に怖かったでした。後で日焼け止めの為だと分かりましたが、町の家々は、ガラス窓は無くて総て鉄柵で凄い所に来たなと思いました。男女総てに服装はロンジン(腰巻の様なもの)を着用でしていました。ラングーンのホテルはインヤレイクホテルでそこだけ立派でしたが、首都を離れると壁にイモリがいるホテルでした。
 
 現地での日本人受けは本当に良かったです。長年のイギリス植民地を解放してくれた日本が、統治期間も短くて好意を持ってくれたと思いました。日本軍が連合国に敗れて逃げて行く時でも、軒先に食料品を置いてくれたそうで、暫く立つまで、日本軍に対する反感が怖かったですが、その時もどの人も優しくしてくれたと聞きました。私の父親の年位の128戦友会の人達と気安く付き合ってもらいました。

 別の時、二人の女性が一緒で、田舎に行くとトイレがありませんので、草原の草を積んだ広い所迄行って大地の真ん中で用をたした事がありました。違う時に、おばあさんの名は確か木村(はな)さんと思いますが、82歳のおばあさんが一緒になりました。
 印象深い人でした。その頃こんな物があったのと思われる大日本帝国のパスポートを見せてもらったのでした。お医者さんとして現地に住んで、マラリアの患者を沢山診られたといたと言う事でした。マラリアの患者を診るのに、なんと蚊帳の中に患者を一人一人診察していたと言う話でした。自分でも日本人で一番マラリア患者を診たと言っていました。
 現地では露店で売っている食べ物を、買い食いするなど私には衛生上、信じられなかったでした。歴史にのらないこの様な人がいたのでした。

 その後、その方達の誘いで先斗町で芸者遊びと言うものも味わいました。銀閣寺の‘のんき’と言う高級なお店のご主人に可愛がってもらいまして、何度かお帳場でお酒を飲むという事とか若い時は色々経験しました。そのご主人が、兵隊ヤクザの様な方で規則に逆らう面白い話を色々聞けました。特に馬に投網を乗せて移動したと言う事も武勇伝として印象に残りました。中尉だった人がいて、その方が随分怖かったのでしょうと聞きました。弾は前からばかり飛ぶとは限っていないと戦争中は将校は、おちおち出来なかったそうでした。
 戦争の悲惨さも私の年代でしたら、良く聞いた方です。ヒルが身体に何匹も付いた時は、取れないからタバコの火で取ったとか、戦車が通った時は手足が飛んで行ったとかと言う事も聞きました。残念な事に、その方達も殆どが、鬼籍に入ってしまいました。

 色々経験しているので自分でビックリします。
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