旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

360 明治大正昭和そして平成

2014-04-26 05:41:45 | 思い出日記
 平成もいつの間にやら26年になりました。今年も4月29日昭和の日がやってきて、そして昭和と言う時代がどんどん遠くなっていきます。
 
 昭和の歌姫美空ひばりが52歳の若さで亡くなったのが昭和62年、まさに昭和の時代を生き抜きました。学生の頃、彼女がテレビに出てくるとチャンネルを変えた程、美空ひばりは大嫌いでした。欧州から帰って来て、それが不思議にも、ひばりは大好きと真逆の評価にかわったのでした。近年は多くの歌手がやっていますが、注目するのはマネできない派手な衣装等、スターしかできなかった事をやりました。ひばり、雷蔵、裕次郎等、スターと呼べる人がいなくなっています。

 少年時代、何故か数々の歌、歌詞が耳に残っています。多分、長く歌われた曲が多かったと思います。そして何処に行っても聞こえてくるのでした。現在はテレビでタレントが増産される影響が大きいのか、それとイヤホーンで聞くということで人の好みの個人化が進んだともいえます。そしていつの間にか商店街等バックミュージックとして流されていた歌は無なりました。

 「死んだはずだよお富さん」小学生の頃、イキナクロベイミコシノマーツと訳も分からず唸っていました。「わらーにまみれてよ」等色々と、そしてズート大きくなって「骨まで骨まで」「愛しちゃたのよ」等、直ぐに様々な歌のサビが出てきます。今なら、悲しいかな覚える前に新しい歌に変わっています。これもレコード会社とかテレビ会社ので都合で、商品価値の存在がある間が短くなって、いくらでも湧いて出るタレント時代の為だと思わざるを得ないのです。

 日本は明治大正昭和平成と近代社会を作ってきました。この様な時代分けをしているのは、日本のユニークな特徴だと思うのです。しかし私の周りにある今年のカレンダーですが、西暦表示したものが全てです。来年のはどうなるのでしょう。皇太子が54歳ですから、天皇陛下になったとしても次の時代は短くなるでしょう。昭和という時代は凄く長かったのが分かります。戦前戦後という言い方も、最近言わなくなったと思います。戦後も遠くなってしまいました。

 欧州に行って直ぐ、何かは忘れましたが、年に関する事に上手く答えられずに、日本ではエンペラーのエイジを使っていると言ったことを思い出します。明治の人というと何となくイメージがわきます。大正というと何故か明治ほど強烈なイメージがなくて、暗くて戦争とイメージします。でも大正 デモクラシーと忘れてはならない関東大震災があったのでした。それと竹下夢路(明治17年生まれ - 昭和9年没)が明治生まれで大正に活躍した人を思い出します。
 意外に色々なことがあったのですが、大正時代は短くて印象が薄い感じがします。明治は遠くなりにけり..と言っていたのがズート前の事となりました。

 平成と言うと、どんな雰囲気が後の時代に思われるのでしょう。知ってみたい気がします。

 
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359 冷蔵庫とは氷を入れた保冷庫であった頃

2014-04-19 05:18:44 | 思い出日記
  魚の骨がのどに刺さったときに、ご飯と一緒に食べなさいといわれた事を思い出しました。体調が悪ければ母親がおでこに手を当てて手を当てて熱が無いかとチェックをしましたが、ここにも母親の手の感覚がありました。時代が進歩すると人との触れ合いというものが無くなってきたと思います。

 電化製品も現在に比べて極端に少ない子供時代、それが不便と感じませんでした。又、現在の電化生活を夢にも思わない時代で世界でした。この前、私が家に昔あったのは冷蔵庫と思っていましたが、たまたま報道によって、ただの保冷庫と知りました。

 子供の頃は、ただ、何も考えずに自由に遊んでいれば良かったのでした。碁盤の目の一部である京都の町(ちょう)は、ハッキリと分かれていました。町内(ちょうない)は隣の家の前(かど)を掃除しないように、すぐ隣の町(ちょう)かみんちょ(北側)で、盆踊りをやっていたのに参加せず、学区の区民運動会、野球大会等、チョウ別対抗で待賢小学校でやりました。総てちょうが中心になりましたが、その小学校も廃校になりました。でも、町内ご近所みんな知り合いで、お風呂屋さんで、おじさんが声をかけてきたり、私の下町の定義である、家の前に沢山の鉢植えがある事はありませんが、本当に下町と呼べる世界でした。

 今、我が家で当たり前にある保温式炊飯器が出来る前、こもでご飯を保温していました。コモが正しい言葉か、そもそも今日見当たらないこもとは、説明が難しいです。ワラを筒上にして一つの円筒のふたのある箱にして、木のお櫃(ひつ)暖める為に、そのお櫃の1-2回り程大きいものでした。今は茶づけと言うと、暖かな出来立てのご飯ですが、我が家の冷ご飯は水分を十分に含み、それは美味しかったです。その様な冷ご飯も無くなりました。その米も加茂のおばさんが配給米外(どれだけ古いのか?)で持ってきたものです。世の中進むのが必ずしもいい事ばかりでないという話です。

 「中国の昔、ある人がある所で見た画があまりにも素晴らしかったので、もう一度見せてもらいたいと願ったが、持ち主はそれを許さなかった。星霜数十年、持ち主が替わって念願の名画を再び見る事が出来た。ところが、それは平凡な画だったのである。その人は怪しみ、もとの持ち主は‘弧仙’かなにかで、自分はたぶらかされていたのだろうかと思ったという。」(芥川龍之介「秋山図」)

 なにか自分の昔話をしているのが、総て実際よりも時たま思っているより平凡な事ではなかったかと思います。平凡な話にに付き合って貰って、いえ、そうでは無くて実際良かったと思っています。今、不便を感じることを、何も無かったので不便と感じなかったのです。ガラパンとランニングシャツ1枚で遊びまわったのが、今は信じられないです。
 
 人格のススはらいをしてボケを防止しているともいえ、決して耄碌(もうろく)した為に昔話をしている訳ではないのです。そう思って聞いて貰えれば有難いです。し(ひ)つこいようで分かっていますが、時たま2度3度言ったと思うことが出てきます。まだボケてはいませんので辛抱して下さい。

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358 ADHDとは?

2014-04-12 05:29:01 | 思い出日記
  人の話をしっかり聞かず、忘れっぽくて、計画的に物事を進めれない。注意力を持続できない、気が散りやすい、物をよくなくすなど、落ち着きが無くしゃべりすぎる、思いたったら後先考えずに行動する。

 私の事を言っているのではありません。この症状は、主に小児の症状と考えらるADHDは注意欠陥多動性障害というのだそうです。薬もあるという事で、大人になって急に発症することはないのですという事です。最近は思春期以降の人にもADHSだと分かるケースも増えてきたということです。

 当たっていることが多くて、自分の事を言っているような感じがします。最近になって知ったADHD、もっとも今そうと分かったのですが、早くに分かっていれば対処のしようがあったのに残念です。今や人生残り少なくなってから気づいても仕方ない事が多くあります。いえ、まだまだ強く生きなくてはいけないのです。最近はものを失くさないように気をつけているのですが、気をつけ過ぎて、いつもポケットに入っているかと心配になってきています。

 そう言う感じで物探しに忙しい毎日ですが、これが注意欠陥多動性障害と病気であればもっと自分が分かったと思うのです。医学の進歩は多くの病気を発見しています。昔なら普通の子供のやる事でほったらかしにしていた事も、それを研究している人がいたとは、驚きました。何でも共通する何かを見つける事は素晴らしいことですが、注意深いとは新たな発見を見出すのですね。研究者はどんな事にでも興味を持つという事であると思います。色々と研究している人がいるのでこれからは益々新たな発見ができると思います。
 
 思いたったら後先考えずに行動する。いい方向に行けば問題ないのですが、この前迄、インターネットで猛烈にほめられていた小保方さん。≪「STAP細胞」を発見した小保方晴子(30)さんが可愛いと評判になって ... うぶかたさんという30歳の若い女性の 研究員が、どんな臓器にも変化できる万能細胞発見!すごい!≫と数々出ていましたが、会見後、前後して評価は地に落ちました。

 目先を変えて、マスコミに取り上げられていい話題ばかり、こんどは非難、良い餌食になっていると思います。マスコミは仕方ないですが、一般大衆の興味あることに1点集中するのです。だから、マスコミが時代を作るとも思います。怖いのはその方向性が良ければいいのですが、戦争を行わないと言っていたのが状況次第になって来ました。怖い事です。

 袴田事件の場合も、もう忘れたようになっていますが、人生の殆ど半世紀も監獄、毎日死と接し過ごしたのは計り知れないです。マスコミは何も感じてない如く報道していますが、難しいのは分かりますが事件発生時どのような報道をしたか、改めて画面に出すべきだと思います。

 人生いろいろあるけど、普通に暮らして、普通に去って行くのが、これまた幸せな事なのですね...一週間いろいろありました。
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357 ヒッチハイク

2014-04-05 04:04:53 | 思い出日記
 ヒッチハイクは、私の学生の頃もアメリカでは危険な話がいっぱいありました。まさか自分が、ヒッチハイクをするとは思いませんでした。

 まず、初めにフランクフルトからストックホルムまで、良くやったと思います。フランクフルトで日本で予約したスチュウデントフライトがキャンセルされたのでした。その時まで予定通りだったのに、訳も分からずとりあえず空港まで行って、途方にくれました。その時は先の目先も立たず、日本を出て初めての大変な試練でした。

 救われたのは、たまたまユースで会った日本人に幸運にもヒッチのやり方を教えて貰ッた事でした。今思うと大層な事ではなく、紙に行く先を書いて幹線道路で待てと言われただけでしたが、でも本当に助かりました。しかし車で拾われて 人任せになるというという旅です。そして今日何処で寝るかという事で自分の人生が変わるのだと実感しました。というより、その後の、人生観が変わりました。

 途中でフランス人と一緒になって、大きなリュックを背に2人旅を続けました。しかし車を拾う度に、フランス人である事を自慢して鼻についてきたので別れる事になったのです。スウェーデンに入ると、今なら景色を楽しむ余裕があったのですが、まったく車が無く、苦労した思い出があります。

 イギリスに行ってから、同じフラット(アパート)に住んでいる英国人とヒッチハイクに出かけた事があります。同行は途中まで、彼はアイルランドにそして私はスコットランドへ行きました。確か高速に乗ろうとして、ルートM1を選び、夜に出て車を拾うつもりでしたが、雨に叩かれて寒さも酷いものでした。そこで寒さを忘れるために、彼がポッケトウィスキーを差し出してくれたのを今でも有難く良く覚えています。
 一人きりになってから、高速道路でヒッチをしていて、パトカーに注意され英語が分からないと、分かるのに分からない振りをするのに四苦八苦でした。
 
 途中、グラスゴーで親切な親子に乗せてもらった事があります。その家に泊めてもらうと言うラッキーな時もありました。暖かなごく普通の労働者の家で、今考えると母親はいなかったと思います。どんなベットに寝たか覚えが無いですが、朝食がその当時の私にすれば立派なもので、初めてトマトとベーコン焼きを頂いたのでした。かなり訛りが分かりにくかったですが、朝食が英国では一番だと後から知りました。
 
 その時巡っていた時、3時間、それ以上かも知れないですが、拾ってくれる車をただただ待っていた時、Fort Williamその景色が心に残っていて社会人になってからもう一度訪れました。今度は誰かハイカーを拾うつもりが、やはり見た目に汚い人達を拾えなかったでした。
 ネス湖の近くで孫に毎週会いに車で行くお婆さんが拾ってくれた事があります。その時は強烈なスコッテシュで湖巡りをしながら分からない言葉で一生懸命、説明してくれました。いい思い出です。
 
 今思うと、スイス人が我が家に泊まって、日本中を列車で回ると言ったのが良く分かるのでした。印象あることは忘れないものです。
 
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