旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

352 寒い日が続くので 

2014-02-22 04:52:40 | 思い出日記
 待ちどおしい春、そこで、アジアのリゾートは余り行っていないので何とも言えませんが、やっぱりリゾートといえば、バミュダーが一番です。2番目と言うとカンクーンで3-4度行きました。そして地中海クラブの研修で旅行社の人達と一緒に行ったバハマを思い出します。本当に行ったのか、いづれも遠い所となりました。

 ハワイはずーと前、海が綺麗な頃、映画‘森繁の社長漫遊記’は当時を知る上で面白かったです。リバイバルをテレビで見たのですが、充分に笑う事が出来ました。名作というより、名コメディーのひとつであります。
 1ドルが360円の頃チップを1ドルと大きさが一緒の100ドル紙幣と間違ってドアボーイやポーターに惜しげも無く渡して、アラモアナショピングセンターが無くて、その前が何も無い海辺には感動しました。その2つの場面を今懐かしく思い出します。

 古い映画を見ていて、ストーリーよりもバックの風景を懐かしく見ています。特に東映は一度、映画村ができる前に一般では入れない太秦東映に連れてもらった事を思い出します。映画の中で大名行列というと、良く遊んだ舗装していない二条城の前だという事がすごく懐かしいです。

 新丸太町が開通する前に、バイトで古いミゼットで毎日走りました。まだ工事中で進入禁止の看板を越えて新丸太町から、電柱だけが並んで立っていて電線が引かれる前、標識もセンターラインも無い道路を気持ち良く思い切り飛ばしていました。

 京都円町から嵐山までは、本当に何も無い、田圃ぼだけの西山の麓まで、夏の青い風景を一望にできたのを未だに忘れられないです。道路が開通後、その美しかった光景は何処かに行きました。それは美しかったですが、写真があればと思います。 
 狭い京都の通りしか知らない頃、片側は2車線の新丸太町通りも広く感じたのです。今は車が一杯で、片側3車線にすれば良かったのですが、十分に土地はありましたが、当時は精一杯だったのでしょう。

 話は戻り、バハマへは小さな飛行機でマイアミで乗り換えて、そのまま夜に着いたのでした。村まで、途中道路が暗く狭いと言う雰囲気だけ印象あります。そこでゴルフをやり、ボールが波打ち際に落ちて、波が来る前に打たなければならなかった事を思い出します。その時に撮った古い写真を見ていて思い出しました。

 研修で同じ地中海クラブのウェストパームビーチに行った時には、ニューオーリンズで世話になった夫婦が空港迄出迎えて貰ったのに挨拶だけで終わった事を悔いて、大変に済まなく思っています。学生時代にパスポートを盗まれて、その家に着いて疲れ果てて生涯で一番気持ち良く眠った家でした。寝た部屋のクローゼットにピストルがあったのは忘れられないです。

 その時に最初で最後の水上スキーをして、立っているだけで精一杯だったのを覚えています。総て思い出になりました。
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351 電気社会 

2014-02-15 05:57:42 | 思い出日記
 周りを見渡して、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器(ガスはありました)、それに掃除機、トースター等、子供の時に、その総てが家になかったとは信じられなくなってきました。

 特に、トースターは小家族であるから一般化したと思うのです。と言うのも兄家族の話ですが、ある日の朝ごはんの時、炊飯器が故障しましてパンの朝食を食べました。それだけ見ると普通の家庭の朝食ですが、兄家族は3つ子とその2つ上にお姉さんと、今なら例外的に子供が4人もいる家庭でした。それと信じられないですが、その親2人と私がいて合計7人、トースター1つでパンを焼いたという事を思い出します。
 その結果、とんでも無く時間が掛かったのです。それを思うと、私の小さい時、我が家は大家族で、朝、昼、晩とお米のご飯を食べていたのも不思議ではありません。

 今となっては信じられないですが、冷蔵庫は今の冷凍庫位の大きさのものに氷を買っていれて使っていました。それでもそんな冷蔵庫があるだけで十分でした。その頃アメリカドラマで見た、大きな冷蔵庫もテレビでの夢の事でした。

 初めて掃除機を若狭の小浜の親戚の家で見たときは、あんなもので掃除ができるのかと思ったのです。我が家に掃除機は、必要が無くて、掃除をした覚えが無いのでその後もあったかなと今思っています。

 向かいの家は、半世紀以上前、近所で評判になりましたが、他に先駆けて一軒だけ早くに水洗トイレにしました。その頃ドブ川だった堀川まで自分の家の為に水路を作ったという話を聞いたことがりました。

 それほど前ではありませんが、いずれにしろ古い40年程近く前に家にスイス人が泊まった先は、日本式トイレで未だ水洗では無かったのでビックリしたと思います。私の説明が悪くて、冬に湯船に入らなかった事もありました。
 トイレで言うと、昔旅行中にイタリア確かミラノの近く何故か、公衆トイレが面白かった。そこは床全体が平面で、確かでないですが、水の流れる穴があって、平面にそこだけ足が置ける高下駄の様なものがありました。ようをたすと、水が四方から勢い良く流れ出すのでした。この方法を日本でも使えると思ったこともありました。
 その他にも、以前お話した、デンマークでの2つ穴あきの肥溜め式のトイレや、オランダでの水を流す所が見つからないトイレを思い出します。アメリカではつま先で足を置く位高いトイレや有料トイレでそこだけタダのドアの無いトイレ等、世界中何処にでもあるトイレ、世界のトイレは面白い。写真を撮っておくべきでした。

 今となっては、ますます嘘のような誠の話ですが、水洗でない時トイレットペーパーなど無く、おとし紙といって四角な大き目の紙でした。確か、家によっては新聞紙を切って使っていました。小学生のころ堀川通りに、いつ建ったのか鉄筋のアパートの友達の家が羨ましかったですが、そう考えれば、丸太町通りにあった3階建てボロ鉄筋アパートも水洗だったと思うのですが、そこに住んでいた友人、小学校の同窓会の時に聞けば良かったです。
 昭和平成と長い人生いろいろな事を経験して、時代を生きてきたと思います。

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350 映画大会… 

2014-02-08 06:04:56 | 思い出日記
 20年、長い様で短い20年前に誰が首相であったのか、政治家が何を公約したのか忘れています。20年とはそういうもので、政治家が責任逃れに使う未来です。言った本人が責任ある地位にいる5年先、少なくとも10年先の事のタイムプロセスを公約しないと嘘を言っていると気をつけなくてはいけないです。
 
 その20年よりずっと前、私の小学生の頃、夏休みに近くの公園で、映画が上映され一杯の人で溢れました。そこで、今なら考えも付かない裏側から映画を見ました。とりあえず、見れれば嬉かったのか、映画を裏側から見るという、今考えると自然になったと思うのです。半分近くの人が反対側、最終的に画面は真ん中になりました。

 公園と言うと、余談で(余談に付き合ってもらって有難う、ちなみに本文も余談)不思議と思われますが、触れ合う緑と言うものが京都市内には非常に少ないです。自然に緑を意識したのは蝉取りに行った京都御苑、つまり御所だけです。世間的に京都は緑が多いと思われていますが、回りの山の緑に誤魔化されています。近年はどぶ川だった堀川も良く整備されています。
そんな中、市内の子供が少なくなり小学校が合併しています、どの小学校も歴史があるので取り壊しずらいと思いますが、あの小学校を公園にすれば公園不足を解消できると思います。良い考えと思うのですが、無理でしょうね。
 狭い通りから見える京の山々は好きでした。山が全く無いデンマーク、ロンドンついでに東京と、ビルの間、家の間、通りから山々が見えないので凄く淋しかったです。昔、四条通り以外、京都にはビルと言えるものが殆どなかったですから、家から大文字、左大文字等も良く見えました。何処にいても山が見える京都が好きで、同じレベルに置いて申し訳無いですが、スイスも大好きでした。

 ところでシネコンが普通になった昨今、前の映画の終わる前に座る場所を探し、結末を聞か無い努力をする苦労が無くなりました。昔は、1本がメインで2本目がどうでも良い映画が多かった様でした。

 そんな中‘寅さん’を上演していた時に、2本目の映画が実につまらない映画で、何故か強烈に頭に残っているのが確か、財津一郎(ピアノの宣伝に出ていて、してちょうだいといっている人)主演の‘猿飛び佐助’をやっていました。当時、同じお金をかけないなら、こんな時に若手を起用して、テストをやれば新しいシリーズの作品ができるのにと思ったのでした。一つ成功したのが、‘釣りバカ日誌’だと思います。いずれにしても、日本映画会が落ち込んでいる時ですから、そんな考えが無いからその後もずるずる落ちて行ったのです。

 ‘釣りバカ日誌’といえば、最近の日本映画で現代劇、明日は時代劇と、殆ど出ずっぱりなのが西田俊之と役所広司です。一時期、永島 敏行が今の西田、役所と同じに出ずっぱりの事がありました。ヒットするとその人を集中的に使わざるを得ない、本人たちがいかに演技が上手くても、あれだけ出たら見飽きます。ハリウッド映画でもそうですが、冒険を好まない、これが映画会の悪い所だと思うのです。 
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349 エスカレーターから

2014-02-01 06:19:10 | 思い出日記
 関東と関西の違いの一つに、エスカレーター立つ位置が右か左かが違うのを御存じだと思います。それは大阪万博の時に国際的に合わしたのが関西に右側に立つ様になったと良く言われています。
 成田で勤務している時、休みに伊丹空港に戻って来ると、見事に、みんな右側に立っているので関西に戻って来たと感じた瞬間でした。それが成田に戻ると、不思議なんですが、また見事に左側に人が立っていてその都度、関東に来たと意識します。同じ国なのに、成田に国際線で着いたら左側、関西人は良く合わすと思います。

 しかし新説を見つけました。それは侍が左腰に刀をさしている以上、左からよりも右から来るよりも右から来る敵の方が刀を抜き合わせやすい為に、この時代の武士階級には道を往く時はその左側を歩く習慣があったという事です。200年以上続いたのが、大江戸は侍が多くいた侍社会、その習慣がエレベーターの左に立って右側を歩いて登ったという事。これが関西は町人の町、侍を意識する必要がなかったので国際的に比較的に簡単に合わしてエレベータの上がり下がりに左側を歩いたのではと思っています。ちょっと無理かも知れないですが、この様に考えるのも面白いではないですか。

 ちなみに現在のような自動改札も1967年に阪急の大阪の北千里駅です。デンマークからロンドンに渡って、地下鉄を初めて利用した時でした。信じられないですが、殆ど住んでいる京都から出た事が無かった人間にとって、自動改札は初めて経験しました。切符を持ってどうやって改札を通り抜けるか分からず、途方にくれて親切そうな人に尋ねたことを思い出しました。
 それと欧州に初めて着いた時、コインロッカーもウィーンで初めて使いました。その時は、一緒に行った日本人画家に聞きましたが、取り出す時に隣の箱に入れていた間違いに気づきました。米映画で親切な様子でロッカー入れるのを手伝って、隣の箱に入れてキーを渡して盗むシーンがありましたが、私の場合、時代が良かったのか、荷物があって良かったと思います。
 都会に子供達が慣れるように、必要ない信号を無理やりつけている町を紹介していましたが、同じようなカルチャーショックが、今でも田舎から出てきた人は困っていると思うのです。

 九州の通販の会社方言を改めないで全国に電話セールスをやっているのを紹介していました。自分たちの言葉を大切にしなくては、TVで全国標準語化が進んでいるのに、視聴率が地域によって、いつまでも変わるのか不思議です。良く目にするのが大河ドラマや他の視聴率です。岡田君(当然友達ではありませんが便宜上そう呼ばして頂きます)の黒田官平が関西の方が視聴率が高くなっています。勿論、関西が舞台になっているのですが、NHKの番組は基本関東の方が視聴率が高いと思うのです。関東でうけるのが関西でうけないというパターンが多い様に思うのです。関東の営業の仕方が違うのか、大阪駅の伊勢丹も販売面積を少なくすると言うことです。
 地元を愛するということを大事にしなくてはと思います...

 
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