拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  心のGPS 〜 六道輪廻

2023年04月11日 | 観自在

  禅修行、という形で仏縁が結ばれる29歳まで、私はいくらか誇らしげに『無宗教人』なることを自覚していた時期があった。

  仏教に対して無関心であり、ときおり耳にする『輪廻転生』などという言葉を聞くと、異物に対する過度な免疫反応の如く

  仏教的なる陰気で、安っぽい倫理道徳論を聞くようで、私は忌み嫌ったものだ。

 

  3週間ほど前、Netflixでアメリカのストーカー犯罪で囚人になっている8人のインタビューで始まるドキュメンタリー作品を観たが

  その感想のようなものが今頃出てきたようなのだ。

  このドキュメントを観た直後、とにかく彼等全員が自分勝手な性格で本当に救いようがない…

  というような感想の影に隠れてチラホラ観えていたのが、昔修行中耳にタコができるほど唱えていたお経『白隠禅師坐禅和讃』の

  『六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき それ摩訶衍の禅定は 称嘆するにあまりあり・・・』

  の一節で、その意味は『修羅・畜生・餓鬼・地獄』それに『人間・天上』をあわせた六道輪廻のことであった・・・と今になって気付いたようなのだ。

  三十年来まったく唱えていないのに、さすが『呪文』。時代を超えてよみがえる我が『Chat 観自在』あるいは『Chat 観世音』か。

 

  昔あれほど忌み嫌っていた『修羅・畜生・餓鬼・地獄』という言葉だが、これらストーカー犯罪者の心境を表すのにこれ以上ピッタリする

  言葉はないだろう…と私は思ったのだ。 

  インタビューを観ると彼等は一応に『自分はストーカーではない』・・・と、はじめは皆思い込んでいる。自分がしたことを

  一連の流れでトータルに見せられ、説明を受けてようやく気がつく者もいればそうでない者もいる・・・といった状態であった。

 

  この『六道輪廻』というものは、じつは娑婆世界におけるその時々の、私の心境状態そのものであった・・・ということが良くわかる。

  頭に血が登って自分を見失った時、私は自分が『修羅・畜生・餓鬼・地獄』の順にエスカレーとしていった経験がこれまで何度あったであろうか?

  これらの輪廻から、観世音菩薩が私達を救済するのは『観音』という『本来の自己』の現在位置を示す『GPS受発信音』を発してくれているから

  に他ならない。・・・そんなことをこの『ドキュメンタリー』は私に教え、あらためて仏教の『六道輪廻』について考えが至ったように思う。

 

           

            昨日、義父が見せてくれた3,4歳ぐらいの相方ニコル(左)と姉のオモチャのバイオリン演奏会の図

  


  御隠れ・龍一

2023年04月03日 | 観自在

  昨日、どなたかのブログを拝見していると、坂本龍一氏が3月28日に亡くなられた事を知らせていた。

 

  つい先日、パリへ小旅行してジュンク堂書店で彼の自伝『音楽は自由にする』を買って読んだことで、私はブログに彼の事を書いた。

 2023年1月9日のブログ記事〜『観音への旅立ち』

  タイトルの『観音への旅立ち』は、彼の自伝を読んだ私の印象を記したもの、音楽家としての彼の生き様を表現したつもりであって

  彼の死をイメージしたものでは全くなかった・・・のに、今あらためてこのタイトルを観た時、まさに観音へと旅立ってしまった事を知るのみ。

 

  『観音』というものが、『生死』が発する琴線の『音色』であれば、『生と死』が紙一重などという表現が愚かしいと思う次元で密着していると観じた時

  人の死は、私にとって『観音』を形成するもう一方への『御隠れ』という表現が適切であると、思い始めている。

 

  身近な人の死を知った時、その人が真の意味で『身近』になった・・・という感覚は誰しも経験していると思う。

  私達日本人が無意識に『お陰様で・・・』と感謝の意を表すのは、自己の『生』に対する有相無相による

  慈悲と智慧の『肯定』の叫び(観音)に支えられていることを知っているからであろう。

 

  坂本龍一氏は、いま生死を超えた『観音』の世界を存分に遊戯三昧しているだろう。

 

              

                世界広しといえども、写真で音楽家である『坂本龍一賞』を受賞した者はそう多くないであろうの図

                   (前列右から2番目が馬骨で、彼も私もともに32歳であった)


 『 四苦八苦 』 + 出家

2023年03月31日 | 観自在

  スイスに三十年来住んでいながら、ろくにスイスに関する情報を発信しない我がブログ・・・。

  しかし、いよいよこれぞと自信を持って言える事柄を実体験しつつあるので、ここに書いてみようと思う。

 

  というのは昨日、今は二人とも老人ホームに移り、あるじ無き相方の両親宅へ用があって数ヶ月ぶりに行ってみて

  相方と私は、彼等の思い出がびっしり詰まっているであろう小綺麗に整理された、あるじ無き部屋部屋を眺めては

  つくづくと両親の現状に思いを馳せ、スイスの大半の高齢者の終の棲家となる老人ホームに移り住まなければならない事に

  あらためてその過酷さを思い、我々自身の覚悟をも促す・・・複雑な思いにふけることになった。

 

  私はこの歳になるまで、放浪者のようにアチラコチラうろうろして身近に老人がいる、ということが無かったので

  5,6年ほど前、相方の両親の双方のオバ二人が90を過ぎて、あの豊かな生活から簡素な一部屋の老人ホームに移ったのを目の当たりにし

  それを受け入れているらしい、オバ等をみて非常に感心したことを覚えている。

  相方の母にしても、早くから諦観して現状を受け入れているが、父方はなかなかそうも行かないらしく苦しみながらも現状を受け入れつつある。

  そういった意味でも『女性は強い』・・・という気がする。

 

  こういつた光景をみると、仏教が説く『生老病死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦』の他に、もう一つ除けない苦『出家』が

  スイス社会には必ずあると言え、世界的に高齢化社会に向かいつつある現状これはスイスに限ったものではないであろう。

 

  そうした時、日本で『出家』といえば僧侶になることであるが、文字通り自宅から老人ホームに『出家』しなければならない社会システムに

  生きる私達はそれを前提に生きていく覚悟がいるであろう。

  私は禅修行をした『居士』であるが、禅の修行の目的そのものが、『一度出家する』ことではないかと、今あらためて思う。

  どんな形にせよ『仏門』に向かうということは、『心の出家』であると覚悟すれば『終の棲家』がどこになろうと問題ではない…と思うが。

 

        

                   アルプスの少女ニコルの図

     相方は父譲りの完璧主義でいつも蝸牛のような小さな家を背負っているが、中は空っぽであることにうすうす気づいているようだ・・・

  

  

  


 Netflix 『 運命の子供たち・ Daughters of Destiny 』 を観て

2023年03月27日 | 観自在

  『玉石混交』・・・などと言いながら、自分でも怖いくらいヒートアップするNetflix熱に困惑。(しかし罪悪感ゼロ)

  で、今回は感動しながらもその問題の深さにあらためて注目したのは、釈尊の郷里、インドの最下層の子供たち救済の話であった。

 

  アブラハム・George氏はアメリカ合衆国育ちのインド人らしいが、米国で企業家として成功しながらも金儲けが自分の本望ではないとして

  50歳で退職した後は、以後の人生をかけて本国(インド)で差別に苦しむ最下層の子供達の救済のために寄宿学校を設立したが、

  その活動の様子を数人の娘たちに焦点をあて成長過程を16年間に渡って記録、編集したドキュメント作品が『Daughters of Destiny 』である。

 

  凄いのは、最下層の子供たちを4歳〜20歳、大学卒業までの徹底した『英才教育』を責任を持って施すことだ・・・。

  千年以上続いているインドのカースト制度は、憲法上は1950年に『差別の禁止』を明記したが、現実には複雑な差別制度は今なお機能し、 

  一旦最下層に生まれたら一生脱出ができない現状をなんとかしたい・・・というGeorge氏の強い意志だけでこれだけのことが成り立っている。

 

  夏休み、冬休みなどに親元に帰宅するが、子供たちが成長するにつれ自分の立場、両親や兄弟たちが置かれている立場を理解して苦しむ。

  また、学校創設者George氏からは勉強に対するプレッシャーも半端でなく、家族や他の最下層民を経済的に助ける担い手になるべく期待の重圧もあり

  子供たちも苦しむ・・・といった場面もドキュメントは捉えている。

  これをきっかけに、ちょっとインドの『カースト制度』をググってみると、実に複雑怪奇な形で『差別』がインドで機能していることがわかる。

 

  私達日本人は普段、中国の共産主義や北朝鮮の市民に対する支配について云々するが、インドの『カースト制度』による『差別の酷さ』については

  ほとんど何も知らず、問題視することすら無いのが現状であろう。

  『慈悲』を説く、仏教の郷里でこのような『苦しみ』があることを、まず知ることから始めよう。

             

              George氏はあくまで英才教育で『カースト制度』に立ち向かうのであるが、『人間の尊厳』がどこから来るのか?・・・

              というような『問いかけ』、少なくとも『瞑想』という手法だけでも、子供たちに教えてほしい…と私は思った。

 


  Netflix 『DNA物語』

2023年03月16日 | 観自在

  Netflixは玉石混交・・・と思っているので、先ずはちょっと覗くつもりで観た『オリジナルドキュメント』と称する犯罪物『Making a Murdere・殺人者への道』は

  思いもよらぬ深い衝撃でもって、私をのめり込ませる犯罪実録ドキュメントであった。(一話一時間)x20を3日に渡って観ることになってしまった。

 

  『事実は小説より奇なり』を地でいってるドキュメントで、これをここで私が解説するつもりはない。

  ただ、三作目であったか? 容疑を確定するため、容疑者の甥で知的障害者の16歳の少年に自供を強要する場面に『怒り心頭』の自分に驚いたのだ。

  普段感情の起伏に乏しい自分が、『不動明王』の如く怒っている自分と、ドキュメントを観るだけで当事者の如く怒っている自分の状態に驚いた。

  その感情というのが、シーズン2に登場した女性弁護士や、その強要された自供のために10年以上服役中の少年を救済すべく活動する弁護士達の

  『弁』によって正常な反応であることに胸を下ろすと同時に、このような不条理がまかり通る現実にあらためて恐ろしさを感ぜずにはいられなかった。

 

  実際この一連の冤罪ストーリーは『DNA』という新しい科学捜査法が良い方にも悪い方にも使われて、皮肉な一面を露呈しながらも

  馬骨流『DNA』・・・つまり『Dignity・Nature・Absolute』で人間の『絶対尊厳性』への回復物語となっているようにも観え、

  いつの日か公開されるであろう『シーズン3』がドラマという作り話ではなく実話として展開される日が待ち遠しい。

               2022年6月6日のブログ記事一馬骨流(DNA)について

  

  いま日本の国会で問題となっている『総務省文書』にしても、例の『森友・加計学園』なども、このように『ドキュメント』として

  動画で観ることができれば、もっと正しく『怒り心頭』する日本人が増えるであろう・・・などと妄想。

 

            

               今朝の『朝焼けモンブラン』・・・我が家にある掛け軸『独坐大雄峰』の実写版


  『過未去来』・・・のレッドホール

2023年02月26日 | 観自在

  新しい四文字熟語を創ったかもしれない? 

  『過未去来』・・・『かみきょらい』とでも読ませて、仏教の観自在菩薩の『空』の立場と量子科学レベルで今は仮説である

  『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場が存在し、宇宙の過去、現在、未来の全ての出来事が『波動』として『ホログラム的な構造』

  で記録されているとう仮説を先取りした四文字熟語…となっている。(つもり)面白いのは『過未去来』は『神去来』とも読めること。

    *『ゼロ・ポイント・フィールド仮説』については 田坂広志著『運気を磨く』より参照

 

  そういった妄想を働かせていると、ふと思ったのが以前にブログに書いた私の幼児期の記憶話 2021年1月20日のブログ記事〜『赤い糸』の記憶

  これは私達が例外なく『道』を行く過程で(ブラック・ホール)にちなんで『赤い糸』であるから『レッド・ホール』という『穴ぼこ』が『道』の所々に空いて

  そこに一時的に落ちた瞬間の記憶は、その人の未来に必ずそれに符合する『䦙』を得、『観自在』を実現する・・・それがこの四文字熟語『過未去来』だ。

 

  つまり、『過去』のある一瞬(例えば幼少期)に『未来』が赤穴『レッド・ホール』として顔を出し、それは未来のある時期に必ず確認されることが

  約束されていることを『過』・・・という仏語『観自在菩薩』の馬骨解釈となった。

            *また『レッド・ホール・Red hole』は私に日本の『日の丸』を想起させるのだが・・・。

 

            

             ところで今日は、我々の33回目の結婚記念日であった。(相方によるコラージュ写真より)

             出会った当初、相方ニコルは『ニコラ』と自称していたので『仁去来』というカッコいい漢字名を

             つけてあげたが、これも『過未去来』のゼロ・ポイント・フィールドの働きであったろうか??

 


  品がある人

2023年02月17日 | 観自在

  先日来、『品がある人』・・・の『品』という字が気になっている。

  ヨーロッパに住んでいても、『品がある』・・・としか形容できない人に稀に出会うことがあり、このような人を形容する

  フランス語があるのだろうか、と訝(いぶか)ったりしている。

  辞書には、éléganceとかdistinction・・・とかあるようだが、我々が言う『品がある』というニュアンスがあるのだろうか。

 

  毅然とした姿ながら、冷たくない、むしろ思いやりに溢れた眼差しを持っている人・・・そのような人を私は『品がある』と形容する。

  そもそも精神の気高さを形容しながら、その文字は物質を意味する『品』…というのが『色即是空空即是色』を思わせる。

 

  そんな折、たまたま去年3月に公開されたというYoutube動画、日テレNEWS『愛子さま20歳 成年皇族として』(24分)を眼にし

  天皇皇后両陛下の一人娘、愛子さまの成長記録を初めて観、合わせてTBS『愛子さま初めての単独記者会見』を拝見して

  その成長ぶりに目をみはる思いがし、控えめ故に一層輝く愛子さまの『品性』に接し、落ちぶれる一方と思われる日本を

  彼女の気品に満ちた弥勒のような『微笑み』が浄化し、思いやりに満ちた国に再建する象徴となるのでは…と私は直感した。

 

        


  必撮『観』察人・・・の戯言

2023年02月17日 | 観自在

  東京の京王プラザホテル・オープンの年(1971年)に北海道の田舎から高卒者として、就職した私がその数ヶ月後にそこを辞して

  何故か関西に行き、神戸(芦屋)のある芸術学院の写真科の看板を見た時に、初めて自分の進路…を見出した気になった事(直観的に)。

 

  その後、様々な経過を経て1981年、東洋鍼灸専門学校(東京新宿)に入学することで、観風先生に師事する機会を得

  それが縁で図らずも『本来の自己』を探求する『禅道』に足を踏み入れる事となった。

 

  この私事である二つの事柄には実は『観』・・・という、はじめは漠然と思えた『働き』が、禅修行(数息観に始まる)に没頭することで

  『観』の働きの・・・特に『観音』『観自在』という『仏性の働き』に於いて、『観』の決定的重要さに思いがいたる事となった。

 

  そこで昨年2022年、ノーベル物理学賞で『 2つの光の粒などの量子がお互いにどんなに遠く離れていても片方の量子の状態が変わると、

  もう片方の状態も瞬時に変化する』という、「量子もつれ」の現象が実際に起きることを実験を通して立証した3人の物理学者が受賞し

  『量子情報科学』という新しい分野の開拓につながる大きな貢献をした・・・というニュースが大々的に報告され、

  この科学の分野で『人間の観察』という非常に人間的行為『観』が科学現象に干渉している事実を示し、科学者自身がとまどっている状態。

 

  そういった一連の事柄をうけ『観』をめぐり、科学と仏教が急接近していることが、書物やYoutubeなどでそういった事を

  仮説として解説する人々も少なからず現れてきている。

  私自身のちっぽけな過去を振り返っても、つまりは『本来の自己』を『観』すべき『平常心是道』という『道』に

  『シンクロニシティ=引き寄せの法則』として綺麗にハマってしまっている事を、私は愛おしく思うばかりである。

           

                必撮『観』察人・・・として、この映画をこう観ましたの図

  昔見た気になっていたキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』・・・まったくもって初めて観る思いで今回観た。

 

  肖像権問題が起こってから、必撮『観』察人…の出番も無くなってしまった事は、まったくもって遺憾である。

  007に『殺』の認可がある如く、必撮『観』察人には『撮』の認可を国は保証すべであると考える。

  人間の進化には『監視』ではなく、その人間性を見透す優れた『観』を使命とする撮人家はこの世に絶対必要であると私は思う。

  

 

  

 

  清静 (しょうじょう)…について

2022年12月20日 | 観自在

  『禅修行』について語るとき、『坐禅』そのもの、或いは『禅問答』について語られることが大半であると思う。

  雲水として禅寺の僧堂で修行した者であれば、半端ない『作務』について語る人もいるだろう。

  私のように居士(一般人の修行者)として土日坐禅会などで修行した者でも、早朝の道場内外、寺境内の掃除の作務の

  思い出があり、夏は蚊の出現、冬は寒い中、素足に下駄姿で境内を掃き清めるのも楽ではなかった。

 

 

  当時、禅修行の一環として『掃除』をすることは当たり前の事として受け止めていたので、無心で掃除をしていたが

  だからといって、プライベートでもアパートをキレイにすることを心がけていたかどうか?疑問である。

  ただ、そういった修行を7,8年ほど続けているといわゆる『熏習』というやつで、自然と綺麗好き・・・というか

  『清静』を好む人間になっていた事は間違いないようだ。

  そして今思うのであるが、この『清静』の体得もまた禅修行において『悟り』同様に重要事項であった…ということだ。

 

  仏教には五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)があるが、

  禅修行中そういった『戎』についてあらためて薫陶を受けた覚えがないし、 円覚寺から頂いた簡素な『修養聖典』にも

  『諸悪莫作』の一語のみで、『五戒』は見当たらない。

  しかし、禅修行で『清静』という言葉を用いずとも、作務を徹底することで、『清静』を体得すれば

  自ずと『戎』を犯す行為から人は遠のいていくものだ。

  私が普段から『カッコいい』のを好むのは、人間の『性』であり、『清静』という『美しい戒め』が

  人をして仏道に導く基本であるからではないだろうか。

 

          

               古池や ゆるく環を描く 金魚たち : 一撮

         この写真は2006年に、初めて買った『デジタル一眼レフカメラ』で、初めてカラー写真を撮った作品。

         (それまで、白黒、人物をテーマにしていた) デジタルで色が誇張されているが『色』が美しいと初めて思った瞬間だった。

  

  

 

 

  

  


  人 = ブレーキの無い車

2022年12月12日 | 観自在

  禅宗の原理と言われるものに、『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』の4つがあるなか

  私にとって最もわかりにくいと思えたのが『直指人心』であった。

  しかし今思い返せば、そのことは『坐禅の初心者』の時期にイヤというほど長期に渡り体験してきた事の中にこそ

  『直指人心』の入り口に立ってウロウロさまよっていた自分に気がつく。

 

  『坐禅』こそ端的に『直指人心』を示しているというのは、坐禅という人間にとって物凄く不自然な行為・・・

  一定時間、身体を『坐』の形に静止することによって、『心』が動転する様を直視する自分を体験させる事にあるからだ。

 

  もし、誰かが私に『坐禅とは何か』と尋ねたら

  『急ブレーキをかけた車に乗っている自分』と答えるだろう。

  その心は?・・・ 

  『車中、私の全身が全力で前に突っ込むように、私の頭の中の全妄想が止めどなくドッと吹き出るのを観る…』からである。

 

 

  人間は動物の一種とはよく言ったもので、私達は絶えず動いて、しかもそのことに疑念をはさまない生き物である。

  特に『心』は眠っている間も動いていて一時もじっとしていない。まず、この事実に気付くことが『直指人心』の入門であったのだ。

 

 

  坐禅初心者の頃、なんでこう妄想が湧くのか?と思ったが、教えられた吐く息を数える『数息観』に打ち込んでも、気がついたら

  いつの間にか妄想の中にいた…というようなことがかなり長期間続いていた。

  さほどに身心を『制止、制御』することは大変難しいことで、『難しく、それが出来ない自分』を意識した時、

  自分の弱さを心から解り、それが人間としての『謙虚さ』に自分を導いた・・・ことは間違いない。

  (*謙虚さに気付く…という副作用は、郷里(サトリ)への道標として必須要素であったかも… )

 

 

  私達は、『ブレーキのない車』に乗っているようなものではないだろうか?

  仮のブレーキとして『学問』や自己を様々に規定する社会での『地位』、『親子の役目』などいろいろあるが

  そういった装飾的な『仮ブレーキ』ではない、本物のブレーキ『坐禅による仏心』に眼を向けることが

  禅の『直指人心』の教えなのだと思う。

 

 

  先日、2022年10月22日のブログ記事一『無期懲役囚の話』 を書いたが、自己を制する『ブレーキ』、たとえ『仮のブレーキ』であっても

  それがあれば防げたかもしれない・・・と思うと切なく、またそういった教えに一人でも多く幼いうちに接することの大切さを思う。

 

       

  

  

  

 


 禅は然り

2022年12月10日 | 観自在

    禅は然り・・・

  禅とは何かと問うけれど  知ってて当然 自然だろ。

  私しゃ 偶然出逢ったが  山見りゃ 泰然 海 悠然

      禅に出逢うは 必然じゃ・・・  馬骨

 

  『禅』のZen…という発音が 『然』と同じというところに ちょっとこだわっていたら、こんな詩ができた。

  で思うのは、『禅』と『然』が同じ発音というのはもしかすると、偶然では無い気がしてきたことだ。

  中国ではその辺の関係など、どうだか知らないが、漢字を取り入れた日本人は『音読み』『訓読み』などと読み分けたりして

  その際に、私達が知らない艱難辛苦の工夫に工夫を何代にも渡って重ねた末の『読み方』を編み出したのだ。

  私達後輩はそれを『漢字』から汲み取って、もっともっと糧にしなければ・・・。

 

  いずれにせよ、このブログで私は『考えるな、漢字ろ!』・・・あたりから実に好き勝手な学識ならぬいい加減な『楽識』を披露

  しているが、今日、『知の巨人』と称される松岡正剛著の『神仏たちの秘密』(2008年出版)私はこれを2019年に購入して

  今回、再読をしていると、その103頁にこんな記述を発見した

 

   『 「日本」を語るときには、言葉や語りかたを時々まぜこぜにしたり、入れ替えたりしてもいい方法があることに気がついて

     いったんですね。これは一言でいえば「日本的な編集の発見」なんですが、その目で日本の社会文化にひそむ方法に分け入って

     みると、そうとうに面白いことが見えてきたんですね。』・・・と、あるではないか!

  松岡正剛氏は『編集工学』という言葉で、『方法日本』ということを追求されているが、私がやっていることもほぼ同路線上に

  あるようだ。3年前にこの本を読んだときは、もう一つよく解らん…と思ったが、今回は手に取るように解る。

 

                                             

                                              Jean-Marieから購入?した『女神人魚と梟』の作品を我が家に設置

             必然の『場』におさまって我々を見守っているかのようだ・・・

          

  

 

 

 

 

 

 

 

  


  釈迦の奇跡

2022年12月08日 | 観自在

  『 張り過ぎず 緩め過ぎない いい加減 観音奏でる 琴ノ音の糸 』

 

  『 琴線は 生死の糸よ 観音の 奏でる音色 慈悲と響けば・・・』

 

  早朝寝床でうつらうつらしていると、こんな短歌が出てきた・・・。

  早く書き留めなければ…と思い起きて書留め、日付をみると12月8日・・・嗚呼〜そうだ、お釈迦様が悟った日であった。

 

  禅修行に関わった人にとって、12月8日は特別な日…としてそれぞれの心の奥に深く印される日である。

  禅寺の僧堂では、その年の最後に行われる一週間の接心(集中坐禅)を『臘八(ろうはつ)接心』といって

  釈迦の『悟りの日』を最終日に合わせた最も厳しい接心で、何か感じることが出来た人もそうでない人も

  それぞれ何かを心の奥深くに印し、一生忘れない、いい意味で『トラウマの日』と言っても良いだろう。

  こんな短歌が、12月8日の早朝にふと出てくるのも、そういった『御縁』の賜物だろう。

 

  西洋の人々にとって『キリストの復活』こそ『奇跡』であろうが、そう言うのであれば東洋では『釈迦の悟り』が『奇跡』である・・・

  などと思い巡らしていると、釈迦の弟子たちがその500年後に『大乗仏教』にまで押し上げた事も『奇跡』、

  さらにその約1500年後、どこの馬の骨とも知らぬ私のような者にまで伝えられた事もじつに『奇跡』である・・・と、

  奇跡づくしになったしまった。

 

  『奇なるかな、奇なるかな。 一切衆生ことごとく皆、如来の智慧徳相を具有す』

  『一仏成道して法界を観見すれば、草木国土悉皆成仏』・・・と、悟った釈迦は言ったそうだから、私が『奇跡尽くし』と思うのも

  まんざら的はずれではないだろう。

                      

            『 琴線は 生死の糸よ 観音の 奏でる音色 慈悲と響けば・・・』 馬骨

      

             


  154人圧死の悲劇から…

2022年11月07日 | 観自在

  10月29日韓国ソウル梨泰院での154人圧死事故の悲報は、世界中の人を震撼させた。

 

  この事故が起きる以前、私は『道の字』の『首』について考察していて、これについて何かブログに書こうと思っていた。

  『漢字』の著者・白川静氏によると『道』の字の『首』についてこう述べている。

  『異族の首を境界のところに埋めておく、『呪禁』として有効であった。ことに族長の首ならば最も効果がある。』

  ・・・つまり、『道』の字のおこりは『呪禁』として道の脇に異族の首を埋めた・・・という事から発想しているらしい。

 

  私、馬骨としてはこれとは全く違う、発想・・・と言っても、私自身の発想というのではなくインド、中国、韓国、日本という

  仏教思想を主体とする、大雑把な東洋思想の流れの中から育まれてきた『道』・・・というものが、

  『すべからく人間の悟性の開花』を導くのを『道』と定義する所に落着する『道』における『首』を考えていたところに

  『韓国ハロウイン圧死事故』の悲報が入ってきた。

 

  そもそも『ハロウイン』とは、『秋の収穫を祝い悪霊を追い出す古代ケルト人の祭りが起源』(大辞泉より)…とあって

  古代中国の『呪禁』とほぼ同質の発想から起こっている気がした時、ソウル梨泰院の狭い路地『道』で起こった圧死事故は

  『呪禁』であるはずの『ハロウイン・道』の時空にあって、その真意から全くそれた人々が密集した所を悪霊に取り憑かれてしまった

  のだろうか・・・などと、ありえない路上での圧死事故の悲報に頭(首)がついていかない私は、あらぬ妄想を抱いたのだ。

 

  『悲劇』の『悲』は『心に非(そむ)く』ことであると読むとき、人の『道』にそれる心のあり様を

  仏は『慈悲』の心で観て、人々の『覚醒』を待っているのだろう。   喝!

 

        

  

  

  

 

  


  『Last』・侍

2022年11月01日 | 観自在

  『ラスト・サムライ』2003年に公開された映画は、エドワード・ズウィック監督、主演トム・クルーズ、 渡辺謙 助演で大変話題になった。

  私はスイスでオリジナル英語版(フランス語字幕)で見て、英会話部分の60〜68%ほどしか理解出来なかったものの

  サムライ歴史を先祖に持つ一日本人として、大意は伝わり大いに心を打つものがあった。

 

  『刀』が象徴してきた武士道精神から『洋式鉄砲』が象徴する合理的近代化の新しい精神の台頭を表現していたと思う。

 

  禅の修行をした者の視点から、この映画『ラスト・サムライ』の要点は、次のようなモノに観えた。

  明治維新が一般大衆にもたらした一番の変化は、『着物から洋服』への変化で、それは何を意味したか?・・・というと

  『丹田』を拠り所にした精神文化の衰弱であったろう…と私は思う。

 

  洋服にせよ和服にせよ、着ている物を腰回りで装着するのに、ベルトは『臍』付近に、帯は『臍下』の丹田に着けるのであるが

  大小の刀を腰にさしている武士の場合、自然と『丹田』を刺激する腹圧は相当なものであったであろう。

  鎌倉時代になって武士集団が台頭し、彼等が精神の拠り所として『禅』仏教を取り入れたのは、日本文化にとって

  決定的瞬間であった。

  昔の日本人は、『丹田』が身心に及ぼす近代医学的見解はなかったであろうが、

  『丹田』が冷静、豪胆な人格形成に何らかの影響をあたえていることは、体験的に解っていたに違いない。

  『着物に帯』『畳の生活』『禅仏教』エトセトラ・・・が相まって、知らないうちに『丹田』を養う『道の文化』を形成していたのだ。

  

  で、映画『ラスト・サムライ』の『ラスト』は、『最後の侍』というニュアンスは誰もがわかったと思うが

  英語の『Last』には『続く・継続する』・・・という意味があり、『サムライは滅んでも丹田による(武士)道精神は続く…』という

  狙いがこの映画に初めからあったのであろうか? アメリカ映画が我々日本人に投げかけた禅問答(公案)とも観える。

  

      

  定年退職後、私は布ベルトを丹田に締め『上虚下実』を実践しているが、侍の刀が丹田に及ぼす実験をしてみた図

  二刀で2Kg以上の重みが腰に加わり、丹田への腹圧が相当なものであることがわかった。

 

  いつも『爺自撮像』をアップして恐縮であるが、他にモデルになってくれる人もなくご容赦願う・・・。

  また、私はべつに『愛刀家』でもなんでもなく、写真の刀は引越屋時代にお客が『処分』するというので

  捨てるに忍ばず頂くことにした『まがい物』の刀で、私の狭い書斎を浄めている。

 

 

 

 

  

  


  慈悲の華

2022年10月25日 | 観自在

  『仏教と華』の関係に私はいまあらためて注目している。

  なかでも『蓮華』と仏教とは切っても切れない関係があって、それは仏教がインドで発生、発展した事も理由であろうが

  『煩悩の泥沼から美しい悟りの花を咲かせる』・・・という仏教の特徴を見事に象徴し、仏像なども蓮華座が表されたり

  手に蓮華そのものを持っている仏像もよく見かけ、仏教がどのような教えであるかを端的に示している。

 

  『華』によって『端的に示している』はずの仏教であるが、案外誰も『そこ』に注目しなかった・・・。

  修行によって悟って『仏』になる・・・という一面が仏教においてあまりにも強調され、

  植物のように『華を咲かせる』という本来備わっているDNAをただ開花させる・・・という最も大切な主張がないがしろにされてしまった。

 

  仏教に関する屁理屈は、9世紀中国唐代の禅僧『臨済禅師』が悟った時のエピソードで終わっているはずだ。

  先輩僧が臨済が見所があると見込んで、老師に『仏法に真意を聞いてこい』と言われ、素直にその通りにすると

  臨済の質問が終わらぬうちに、老師から棒で叩かれてしまった。何故叩かれたのかわけが分からない・・・

  先輩僧に、一回じゃわかるもんじゃないと励まされ、もう一度行くと、再び棒で叩かれた。

  そういったことが、3度あり、すっかり参ってしまった臨済はあきらめて下山しますと、音を上げると

  この和尚を紹介するから、彼の処に行け・・・とアドバイスされた。

  その和尚のところに行き、これまでの経緯を話すと、『お前の老師はなんて、親切なんだ。3度も懇切に指導してくれたのに

  こんなところまで来て、何をグダグダ言っているのか!』と怒鳴られ、それを聞いた途端、臨済禅師は大悟した・・・という。

  その時臨済禅師は、『あの老師の仏法って、こんなことか〜』と、さっきまでメソメソしていた男が大口をたたいた…そうだ。

 

  私はこの話が大好きで、どこがいいって屁理屈をただ、ただぶっ叩く老師・・・の一幕が痛快で、ほんのさっきまで

  泣きべそをかいていた臨済が、打って変わって大口を叩くというところがなんとも言えない。

 

  で、その『華』って結局、主語を介在させない『愛』のことで、仏教ではそれを『慈悲』と称している。

 

        

  この写真の湖は『ジュラ湖』といってジュラ山脈中にあり、今朝はじつに『明鏡止水』そのものだった。

  秋はその気配を律儀にも『腰痛』というわかりやすい仕方で示してくれ、有り難いような、迷惑なような・・・