拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  人"間"工学〜『瞑想』編集

2024年01月26日 | 人"間"工学

  配信動画Newspick で、久々に松岡正剛氏の笑顔を拝顔した。彼は、昨日1月25日で80歳を迎え、傘寿(さんじゅ)となる。祝!

 

  80歳となっても『知の巨人』ぶりは相変わらずで、若干痩せたぶん、渋さに磨きがかかった男前ぶり・・・。

  松岡正剛と鈴木大拙の本を読むと、必ずインスパイアする馬骨であるが、

  還暦スキャンしてみると、意外に松岡正剛との出会いが鈴木大拙よりもだいぶ前であった。

  私が23歳の時、芦屋芸術学院という所に写真科助手として勤務したが、学院の図書室に『遊』という奇妙奇天烈な雑誌があって魅せられたが

  それが、松岡正剛が主催する工作舎の刊行雑誌であったから、その意味では禅修行のずっと以前に彼との因縁があったといえる。

  ただその時は、『遊』という雑誌を夢中になって観ただけで、編集者『松岡正剛』については、名前すらも知らなかったが・・・。

 

  その後、彼の著書に親しむものの、鈴木大拙の著書と同じで、何が書いてあるのか『良くわからん』状態が長きに渡って続いたが

  定年退職記念帰国旅行で『千本鳥居』をくぐり、『考えるな、漢字ろ!』に開眼してからは、彼の『編集工学』が手に取るように解った。(気がする)

  というか、私の潜在意識の中で、彼の『編集工学』思想の影響を受けていたのかもしれない・・・。

 

  彼の『日本の方法』の思想のなかで、しきりに『面影』という言葉を用いているが・・・それって

  禅のいう『無』に向っての瞑想の中で、脳神経のシナプスが自ずと核心にむけて編集する・・・ことでは? と、私は思い始めている。

  

  私の『人"間"工学』という命題は、松岡正剛氏の『編集工学』影響下のモジリであることに"間"違いないが、その"間"にこそ

  『日本の方法』が、秘められていることも間違いない。

 

            

  

  


 方程式 『問から間へ』

2023年03月10日 | 人"間"工学

  方程式『問から間へ』・・・これは『悟り』の方程式である。

 

  私は『不立文字』の禅界に立文字で『悟り』を表した最初の人間だろうか?

  『悟りの人参』を目前にぶら下げられても、満腹な馬、或いは眼をつぶっている馬は『人参』に気が付かない。

  いつの日からか、人は『間』をぶら下げて『人間』と称しながらその『間』を観ることをしない。

 

        

          『Good-by New York 1986』より、MO-MA (N.Y近代美術館)での風景

 

  この世は、なんと『問』に満ちていることだろう・・・幾多の『問』に眼を奪われている間は、人は答えに至らない・・・。

 

  先日読んだ、田坂広志著『運気を磨く』に 『瞑想』についての定義が示され、目からウロコであった。

  『 瞑想とは、「行う」ものではない。 瞑想とは、「起こる」ものである。』・・・このセリフ、禅僧から聴きたかったかも。

 


 『 人 "間" 工学 』 〜 人間とは

2021年04月11日 | 人"間"工学

  『人間』という言葉・・・もともと仏教用語らしいが、江戸期以前は『世間』という意味合いで使われていて、

  江戸期以降、現在のように『人』を意味し、『世間』というニアンスは薄れた。

  人間は生まれてから死ぬまでの間、一人では何も出来ない生き物で、社会の影響のもとに生活を営む生き物である…

  そういった意味で『世間を渡る人』から『人間』となった、と考えるのが普通であり、我々はそこに疑義を挟まないで済ましている。

 

  しかし、もともと『人間』という言葉が仏教用語であったなら、こんな表面的な解釈で満足していて良いはずはない・・・と私、馬骨は疑義を挟んだ。

  そもそも『時間、空間、人間』…と順に並べた時、『カン、カン、ゲン』・・・と『間』の字を発音させるところに私は尋常ならぬモノを感じぜずにはいられない。

  時間、空間、に逐一制限される人間に『人としての次元』・・・を思わせる次元の『ゲン』を発音させる『間』を『人』にわざわざ付けた祖先の真意は??

 

  『世間』を渡る前に『人間』の『間』について解決すべき根源的問題がそこに秘められている…と考えた時、

  ソウシャルディスタンスとしての『世間』を前にして『マスク』を強要されている状況にある『自分とは一体何なのか?』

  『マスク』というのは『一黙』の象徴でしかない・・・普段の馬鹿話の一切を止める象徴でしかない・・・という思いを馳せた時

  何百年に一回、有るかないかのこの好機は、その『人間』の『間』が秘めているモノについて、それこそ『黙考』すべき時ではないだろうか。

 

  東洋の『マスク』が全世界にグローバル化した、その仏教的意義について、

  『今』それを考えることの必然性は『A Iの時代』を迎える人類…と無関係ではないような気がする。

 

           

           人間の『間』には自分自身とのコミュニケーション(悟り)、社会とのコミュニケーション(世間)

           その二つの『間』を観自在する次元(間)がある。

 

 

 


 『 人"間"工学 』 〜 禅脳の仏

2021年03月16日 | 人"間"工学

  私達が経験している時代の変化…というのは、これまでの人類がいまだかつて経験したことのない大変化であると言われている。

  誰もがそういった感覚をそれぞれの分野で感じていて、前途の見えない不安に怯えているところに、想定外のコロナ禍が加わり

  その不安は一層大きなものとなった。

  これまで『全能の神』…と、崇めていた人々も近年、『神は人間が生き残る為に作り上げた想念であった』と看破した本(サピエンス全史)

  が世界的ベストセラーになるなど、『神』離れするのと反比例に、『全知の電脳』の『 A I 』が台頭し、あたかも『神』に取って

  代わる勢いで躍進している。

  今流行っているアニメ『鬼滅の刃』は『効率至上主義のAIやそれに関わる人間』に対する脅威の表明なのではないか…とも思う。

  『全知の電脳 = AI 』は人間性の根源である『自他不二レベルの他者他物への共感』を理解することが出来るであろうか?

  それが出来ない限り、どんなに便利で、一面どんなに優れていても人間にとって『全知の電脳 = AI 』は道具にすぎない。

  といっても『全知の電脳 = AI 』の驚異的進化に対して、人間が愚かなままでは『全知の電脳 = AI 』は『気狂いに刃物= 鬼 』となって

  人間を破滅に追いやるのは時間の問題であろう。

  我々に残された道は唯一つ、『 人"間"工学 』による人間性の進化をはかり『禅脳の仏』になることだと思う。

  『不ニノ法門』にのっとった『慈悲と智慧』の絶妙なバランスで誰もが互いに尊重する・・・世界の実現にむけて。

        

                     『意識』を向けなければ観えない・・・


 『 人"間"工学 』  〜 観音

2021年03月14日 | 人"間"工学

  恐らくどこの禅道場に行っても、どこの宗派のお寺でも『般若心経』は読誦するであろう。

  まず、リーダーが般若心経の正式名を唱える『摩訶般若波羅蜜多心経』〜・・・と。

  次に来る一節が『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・』と続く。

  この『観自在菩薩』という菩薩はじつは家の有名な『観世音菩薩』と同一菩薩で、インドから中国に『般若心経』が

  渡った際、まず鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳では『観世音菩薩』になり、後に玄奘三蔵が訳した時『観自在菩薩』となった。

  同じ菩薩が『観自在』と『観世音』という二つの呼び名が付けられ、それぞれが機能している意味合いはかなり重要だと思う。

  これは馬骨の私見であるが、仏の働きを『慈悲と智慧』と云うとき、慈悲が『観世音』、智慧が『観自在』となって

  一人の菩薩が表裏一体の働きをしている…のだと私は理解している。

 

  特に『観音』は、初めは私の禅修行法そのものになり、後に『無の境涯』を支える基盤ともなった。

  修行道場では、鐘を鳴らし、板を叩いたりして『音』を合図に行動を起こして、音の持つ役割は大変重要になってくる。

  坐禅の開始時、チ〜ンという鐘の音が3度それぞれ空気に溶け込むまでの長さを保つ…それが調(心、息、心)の芯軸に

  なるように聞いていると、その後の数息観も無数息観も自然に『観音』…をするという感覚になってくる。

  『観音』は雑念を断つ過程を助け、いつか安寧を人にもたらす。

  これが観音菩薩の救済であり、『観音』に救われる人はそこで初めて『観自在』を得るのだと思う。

        ⬇︎こちらは弥勒菩薩ですが、『観音』しているでしょう。

       

 

  

  


 『 人" 間" 工学 』 〜 『遊』 戯(ゆげ) 三昧(ざんまい)

2021年03月05日 | 人"間"工学

  『工学』とは…何かよく解らず、ただカッコいい語感に惹かれて、この言葉を使用しているが…、数学、物理学抜きの

  私自身の中では、あれとあれがああして、こうして結びついて、こうなった…的な『奇っ怪工学』が

  我が『禅脳』によって密かに巧みに構築され、いつの間にか『知の巨人』松岡正剛氏が提唱する『編集工学』にまでに至った。

  松岡正剛氏の存在については、私がスイスに在住してからのことであるとずーっと思っていたが、実はもっと以前の

  私が関西の写真学校在学中、学校の図書でみた季刊誌『遊』(1971年創刊され、あらゆるジャンルを融合超越した独自のスタイル

  は、日本のアート、思想、メディア、デザインに多大な衝撃を与えた…Wikipediaによる)の編集が松岡正剛氏(当時27歳)であって、

  21歳であった私は、この素敵にへんてこりんな雑誌『遊』を夢中で鑑賞する形で松岡正剛氏と出逢っていたことを後で知った。

          

           これは創刊号の表紙…毎号目ン玉が飛び出る内容の図

     ( この写真から触発されたて観えてきたのは、蛙が飛び込んだ瞬間の 水の音を水玉自ら観ている(観音玉)が飛び跳ねる図 )

  松岡正剛氏は何故『遊』の字を選んだのか? 氏はすでに禅語として『遊戯三昧』を知っていたのだろうか?

  1987年、氏が43歳のとき、編集工学研究所を設立。『人間の意識や感情や行為の伴う(意味情報)に着目し、それらが生成

  交換される(生きた情報システム)を扱っていくための方法論の構築に向かった…(Wikipedia)』という難解なものを始めた。

  私はカメラをデジ一眼レフに変えた時、(2006年)猫を練習台に撮ったが、その後、『花猫風月』というタイトルで

  写真展をするまでに『猫』にハマった。そして『花鳥風月』を勉強するために松岡氏の著書『花鳥風月の科学』を買ったところから

  松岡正剛ワールドに少しずつ接点を持つことになった。

  彼の云う『編集工学』…を長い間、私は理解できないでいたが、『悟り』を軸とする『漢字』の『編集工学』性に開眼してから

  急速に彼の『編集工学』を理解するようになったと思う。

  で『遊戯三昧』、 一般的に悟った後の『悠々自適』な境涯を指していると思うが、

  実際には、泳げない人が此岸から彼岸に向けて必死に泳ぐ姿にこそ、『遊戯三昧』であった…と、後に『還暦』するのだ。

  


 『 人 "間" 工学 』 〜 一粒の米

2021年03月05日 | 人"間"工学

  私は貧しい家に育ち、小学校6年生から高校まで牛乳配達などしたりしていたので、たぶん他の人より

  『物の大切さ』などは肌感覚でわかっていたつもりの30歳の時、

  初めて円覚寺居士林の春季学生接心という一週間の集中坐禅会に参加した時のこと。

  道場の外、汲み上げポンプの流し台で、世話係の袴姿の学生が鍋だったか、食器だったかを洗っている際に、

  ご飯粒が数粒、水と共に流れ出たのを大慌てで追っかけて、手で摘んで食べていた光景に出会って

  私はあっけにとられてそれを見ていた事をいまだに忘れられない。

  しばしば、私がこのブログで書いている『四弘誓願』のなかの三番目が『法門無量誓願学』というのがあるが、

  一口に禅の修行…といっても、こういった瞬景からも生涯忘れられない学びがあることも、見逃せない事だと思う。

  『仏・法・僧』…これが仏教で(三宝)と称している三大最重要素であるが、『僧』とは4人以上の修行者が集まっている

  組織をいうが、仏・法、だけでなく仲間の修行者からも学ぶ事をこの『三宝』は意味している。

  禅修行は『悟り』に向けて全力であるが、同時に私達の命を支えている全てに感謝を捧げ、大切にして、活かして使う精神

  を培う事にも全力であった。・・・世界に称賛される日本の『もったいない精神』の源泉がここにある。

  そう考えると、今の環境問題にしても、経済問題にしても、教育問題にしても、あらゆる問題を根本的に改善する答えを

  禅修行自体が持っているといえる。

       

       その初めての接心が終わって…終わった時、辛かったのと、やり終えた喜び?に学生に混じって男泣きをした思い出の図

  

  


 『 人 "間" 工学 』 〜 痛感

2021年03月03日 | 人"間"工学

  『坐禅は我慢大会じゃないぞ!』・・・警策を持つ古参の雲水がしばしば叱咤激励に発する言葉だ。

  臨済禅道場では面壁ではなく、互いに対面で坐る…その間を禅僧がゆっくりと歩くが、痛そうな顔をしてるとこのセリフが鳴り響く…。

  特に初心者にとって『坐禅は我慢大会以外の何物でもない・・・』と、私などは正直思ったものだ。

  禅というと、深淵な境涯を思い浮かべがちだが、どっこいそんな夢見心地な境涯を即座に粉砕するのが『痛感』なのだ。

  禅に憧れて来る者が、現実の坐禅に『痛感』を痛感して、意思が挫かれ惨めな気持ちで下山する…者が大半であると思う。

  それを知っているから、禅は『来る者拒まず、去る者追わず…』で、その辺は実にそっけない。

  禅道場の玄関にある『脚下照顧』…の掲示の意味を詮索するまでもなく、足の『痛感』は否応なく、即座に我々を現実に『脚下照顧』させる。

  坐禅にとって、これほど重要要素である『痛感』について、誰も全く『評価』もしなければ、『罵詈雑言』を浴びせる者もいない事が

  修行中の私の大疑問であった。禅において『痛感』は低次元のこととして無視されている気がする。

  例えば、禅に関する書物を読んでも、『足の痛み』…についての意義、じっと静止して不動に耐える『精神的苦痛』の意義について

  解説している本があるだろうか?

  どんなに『 I Q 』が高い人間でも必ずしも坐禅して『悟り』を得られるものではない…という事実(むしろ悟りにはその『 I Q 』は邪魔)

  口でどんなに偉そうなことを言っても、『痛感』は即座にその人間の『金メッキ』を剥がす。

  坐禅は或いは、『ゆるやかな拷問』かもしれない、

  拷問する者『お前は初めっから悟っているだろう!真実を吐け!』

  拷問される者『いや、私は何も知りません!・・・本当です!』

  痛みを逃れようと、思わず『丹田』を充実させ、肩の力を抜き、呼吸を『痛感』に合わせた時・・・

       

       『独坐・我慢大会・・・』UFOには乗り込んだが未だ飛び立てない図(1985年ハーレムにて)

   ところで、イエス・キリストの十字架…これほど痛々しい情景はないが・・・禅的意味合いは在りや無しや?

  


 『 人"間"工学 』 〜 意伝子

2021年02月24日 | 人"間"工学

  『 Wake up , Neo ..... 』

  『 The Matrix has you 』

  『 Follow the white rabbit 』・・・

 

  1999年に公開された映画『マトリックス』の出だしの場面で、ここは何回見てもぞくぞくさせれる場面だ。

  この時、私は47歳でスイスに住んで8年目、仕事は観光ガイド、趣味はバトミントンに熱中していた時期だった。

  だから、この映画は劇場でオリジナル版を字幕がフランス語で見たので、詳細はぜんぜん解らなかったが、大まかには理解できて感動した。

  しかし、だいぶ後にマーレーシアの友人による説明で、モーフィアスが電池を示してネオに説明する場面が

  『人間がコンピューターを作動させるための電源として家畜されている』・・・と教えてもらい、そんな肝心なことを解らずに映画を  

  見ていた自分に情けなく&驚愕した。以来日本語字幕なしで洋画を見るをやめるようにした・・・。

 

  とにかく、この映画が洋の東西に関係なく人間に与えた『ショック』は大きかった。

  私自身はこの映画を見て、『禅』そのもの…を感じ、いよいよ世界は『覚醒』の時代を迎えるのだろうか?と思ったものだ。

  映画の中で、仲間を裏切るサイファーが美味そうにステーキを食べるシーンがあって、『覚醒した真実』よりも『快楽の夢』を選択

  する場面があったが、日本の欲にまみれた政治家を見るまでもなく『夢』から覚めようなどと思う人間はやはり少ない・・・それが現実なのだ。

  それが現実と受け入れるゆえに、また『葛藤の苦悩』からも決して逃れられない。

 

  この『葛藤の苦悩』がどこから来るのか? それはやはり人間がもって生まれた遺伝子に含まれる『意伝子』のためであろう。

  人間は常に本質(真実)に帰ろうとする…性に支配されている。それが仏教的にいえば『悟り』であり、馬骨風に言えば『郷里(さとり)』となる。

  快楽にとらわれている最中はそれでもいいが、そうでない時は人間は常に『何だか落ち着かない、不安な…』状態となるが、それは意伝子の働きに

  対抗しているわけであるから、当然の結果といえる。不眠症の正体も意伝子の『覚醒』の働きともいえる。

  私が言う、意伝子(D・N・A)とは Dignity-Nature-Absolute の略で、『天上天下唯我独尊』の馬骨流・意訳である。

 

          

             人間はその『意伝子』に向かっては天道説なのだ。

 

  『マトリックス』…この映画がアメリカ人によって制作された意義は大きい、『悟り』という覚醒が東西を超えた『人間の本質』を表したこと、

  また将来の東西交流の原点を明らかにしたと思うからだ。

 

 


 『人"間"工学』 〜 Zen 脳

2021年02月22日 | 人"間"工学

  三年前、Youtubeでアメリカで有名な啓発講演番組『TED』を日本語字幕付きだったので見たのだが、大いに興奮させられた。

  大まかに内容を話すと、1996年、当時三十代半ばのアメリカ脳科学者だったジル・ボトル・ティラー女史は、自身が左側脳の脳卒中になり、

  正常に回復するまで8年を要したが、その時体験した事柄の講演である。

  左脳が出血により損傷を受け、左脳の働きである、自分自身を他から分離された存在であると認識したり、過去の情報整理して

  未来に備える…というような働きが出来なくなり、右脳の性格が新しく目覚め表に現れてきた。・・・といった内容。

  で、結果的に言うと右脳の働きは仏教でいう『悟り』そのもののようで、彼女自身もニルバーナ(涅槃、悟り)…という表現を使っている。

  私は、彼女のYoutubeを見て感銘を受け、このことを書いた彼女の本『奇跡の脳』日本語版を読んだが、

  まさか禅を意識して書いたわけではあるまいが…と考えるほど『右脳の働き』は『悟り』そのもののようだ。

      

 

  仏典では菩薩の誓願である『四弘誓願』の一番目は『衆生無辺誓願度』で『救済』を『度』と書き『渡す』からきている。

  それはおそらく『般若心経』の正式名が『摩訶般若波羅蜜多心経』で『摩訶般若』が『偉大な智慧』、『波羅蜜多』は『到彼岸』を意味し、

  『偉大な智慧の完成』と訳し、俗なる『此岸』から悟りの境地『彼岸』に衆生を『渡す』ことが仏道の救済であると考えられている。

  日本でも『お彼岸』と親しまれている言葉は『あの世』的ニアンスで捉えられているが、本来は『到彼岸』で『悟り』を意味していた。

  悟りの世界を『彼岸』、俗界を『此岸』と『岸』に見立てたのはお経の成り立ったインドのガンジス川…のイメージからではないかと言われているが

  私は、先人たちが『脳の働き』について直感していたのでは無いかと思っている・・・。

   般若心経の最後のほうは呪文になっていて『ぎゃーてーぎゃーてー』…と、サンスクリット語で『渡ろう、渡ろう』と励ましている。

  しかし、『到彼岸』だからといって、渡ってしまってそれでおしまい…というのではなく、渡ることで、両岸が無くなって『観自在』を得ることが

  大切で、本の中でも、『2つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけるだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格(左右脳の)に

  主導権を握らせるべきかコントロールすることが、きわめて重要である』…とティラー女史は言っている。

  近い将来、このように『悟りの境地』と『大脳の働き』の関係も明らかにされる日がくるであろう。

  少なくとも『悟りの境地』が素敵に頭のイカれた変態の境地ではないこと…だけは、西洋の科学者達の間にも浸透しつつあるようだ。

  

         

                                       ジル・ボルト・テイラー氏のパワフルな講演(2008年)*動画下の字幕マークを押せば日本語字幕がでる。

 


 『人"間"工学』 〜 丹田

2021年02月20日 | 人"間"工学

  私が考える『人"間"工学』において『丹田』は芯軸そのもの。

  調身・調息・調心の芯軸が『丹田』であり、仏道を歩んで、通るべき第一の『門』が『丹田』であると、近年ことに思う…。

  

  日本文化もいろいろな方面から捉えられるが、仏道で伝えられた『丹田』が『道の文化』として、日本で華を咲かせた理由の一つに

  着物を着て、『帯をしめる習慣』・・・のあったことが、とても重要なポイントではなかったかと思うのだ。

  自分の体験としても、禅寺で一週間の集中修行『接心』を終えて、銭湯に行くと、自分の下腹部がふっくらと、膨らんでいた。

  下腹部(丹田)が充実していると、間違いなく精神が安定していて、ちょっとやそっとのことではビクつかない事を実感し、

  『肝が据わる』とか昔から言われている訳に納得したりした。

  『丹田が充実』するためには『肩の力が抜けている』事が重要で、それは道場で雲水から警策で肩を打たれた時、はっきり自覚したことを覚えている。

  それと、老師の弟子となって参禅する際に、必要条件として着物と袴の着衣を申し付けられたが、35歳になって初めて袴を身に着け、下帯にしても

  袴の紐にしても無意識であれ、くびれた胴回りでなく、自然と『丹田』に巻いていた。

       

             東大寺南大門に構える仁王様、1203年、運慶による像 (写真はPinterestより:赤帯着色は筆者)

             注目すべきは、帯の位置…『丹田』にあり、全ての仏像は工学的に『丹田』が中心になっている。

  浅学な私の意見であるが

  明治維新で日本人が失ったものの一つに、『帯をする習慣』の喪失があったと思う。

  東洋文化の基礎となる『丹田の充実』に重要な役割を果たしていた『帯』の使用の喪失は、大きかったであろう。

  ただ、雲水や様々な『道』にたずさわる文化では、未だに袴や着物の着衣を要するものがあり、そこでは『帯』が使用されている点は素晴らしい。


 『 人 "間" 工学 』 〜 『 法界定印 』

2021年02月06日 | 人"間"工学

  時代はいよいよ、釈尊が至った『悟り』という境涯を科学的解明を試み、『 人 "間" 工学 』を確立したとき

  科学者は改めて『禅宗の修行法』が如何なる方法よりも『最短で悟る道』として最も優れている事を再確認するだろう。

  その時、『法界定印』が『坐禅』という『空』へ直に飛び立つロケットの『イグニッション・キー』である事をも悟るはずだ。

 

  人間はいつの時代でも、その時点で最高、最新、最強で最先端であるモノを欲するが

  どういうわけか、己自身の身心にそれを要求することがなかった・・・ 

  2500年前に釈尊が、1500年前に達磨が丸出しで『常・最高、新、強』で最先端の『座相』を披露していたのに。

           

            『法界定印』が丹田に直結して身・息・心を統制している図 


 『 禅 』 という 『 人"間"工学 』 

2021年02月02日 | 人"間"工学

  言葉の定義もろくに知らない、無学な私、馬骨の直感による戯言(たわごと)をご容赦願う。

  『悟り』への道は確かに様々あるなかで、禅の方法こそは『 人"間"工学 』に則る、まさに人を『悟り』に向けて大乗させ

  此岸から彼岸へ渡す『工学』ではないかと考える。

  既存の『人間工学』は、いまだ ”間 "の真意を理解しないレベルの学問であるが、『A I 』が今後人間を脅かす存在であることが

  確かである現状、私達は『 人"間"工学 』に真剣に取り組み、身心の進化(深化)をはかり、『 A I 』を万人の幸福に向けて自在に

  使い分ける能力を身につけなければならない。

         

           8世紀に『人"間"工学』によって現れた『千手観音菩薩』国宝 葛井(ふじい)寺(大阪府)

  優れた仏像は、禅の根本的理念(不立文字・教外別伝・直指人心・涅槃寂静)すべてを表し私達に現前して観せている。

  日本に禅宗が開かれた13世紀以前に、仏像として7,8世紀には日本に伝えられていたのだ・・・。

  当時の平安時代から現代に至っても、仏像のメッセージが『人 "間 "工学』の面を多大に有しているとは一般的に

  考えられていないが、今後は日本が世界に先駆けて開発し、貢献すべき重要な分野となるであろう。

  

  

  


『間』を悟った人 = 人間

2018年11月20日 | 人"間"工学

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一撮流解釈だけど、人をして『人間』という言葉を創作した中国人はなんと素晴らしいのだろうか…と最近考えている。

日本では昔から『間』が大事…てなことを言われていたので、日本人であれば誰でも聞いたことがあると思う。特に芸事に関して『間』ということをやかましく言うようだ。

一応ググってみると

ーー『人間』は仏教用語でサンスクリット語『Mamusya』の漢訳。(音から、間無者と聞こえるのが面白い…)

仏教語としての『人間』は世の中、世間、人の世…を意味した言葉で『人間』に『人』そのものの意味が加わったのは江戸時代以降 ーー。

そうだったのか、『人間』はもともと仏教語であったか!

しかし、そうであっても漢訳の『人間』は世の中を意識した人と人の関わりを表す意味で『人間』であったか。・・・

しかし、後の唐代の禅僧、臨済なんかは違う『人間』を解釈したに違いない。

彼は各々皆の中に『無位の真人』が息づいているのだから、それを証明してみよ!

と修行僧の胸ぐらを掴んで『喝!』を入れた、それがボクの言う『人間』の字源だ。

だいたい、最初の漢訳者が『人間』を誤った訳をした可能性もあるし…。

いや、これが『禅』の活き方なのかもしれない。あくまで人間を深掘りした解釈が。

『人』が『間』を悟った時、人は本当に『愛』を解し、その生き方は二つの『間』に風流を吹き込むのだろう…よ。

追加:そうそう、大事なことを忘れていた。

自分が『間』に行き着いた、もう一つの事…それはアメリカの脳解剖学者Dr.Jill Bolte TaylorのYoutube動画と著書『奇跡の脳』による、右脳と左脳の話だった。