拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  沢庵を噛みしめた日々

2023年07月11日 | 禅修行の思い出

  デジタルネイティブ世代の人間達は、超アナグロな『禅修行』から遠のくのか、或いはかえって接近するのか?

 

  何事も『AI』にまかせ、時間的余裕ができた人間達はそれを自己の精神向上にむけるだろう・・・という意見もあるが

  目下のところ、それはあまりにも楽観的な見方に思える。

 

  私は渡欧して今年で32年になり、こちらで就職して初めて『バカンス』というものを経験した。

  長い休暇をまとめて取れる日本人から見ると羨ましいシステムであるが、人々の大半は海や山でノンビリ過ごす事で消化するのみで

  『精神の向上』のことなど誰も考えていない。 そういった現実を見る限り、人は『快楽の追求』にこそ心が奪われるものなのであろう。

  その点、日本には『精神の向上』に意を向ける『道の伝統文化』が随所にあり、その気があれば道は開かれているところが

  東西文化の大いなる違いで、日本の誇るべきところであることを、在外の立場にして痛感するところだ。

 

  1982年私は30歳で、円覚寺居士林で禅修行の初心者であったとき、奇しくも円覚寺創建700年遠忌を迎えたが

  朝まだ暗い時間に大仏殿から大勢の僧侶たちが般若心経を唱和する声が、居士林で坐禅する我々に響いてきた時

  一瞬私は、時空を超えた気がした。 同じ坐禅、同じお経を700年もの間、ただ黙々と続けてきた『行の力』に私は感動した。

 

  この『超アナグロの禅修行』が我々にもたらすのは、まず徹底した日常生活の『脚下照顧』であり、『沢庵食うときは、バリバリ音をたてるんじゃねエ!』

  の一喝に始まり、畳の縁を踏まない、モタモタした動作をしない、無駄口をきかない、物を一切無駄にしない、などなど日常生活上の行い

  一つ一つに意識を向け・・・随所に主となる自己を養って行く。 つまり徹底的に色界の空気を読み取る『空読』に習熟する。

  一方で、『無理会(むりえ)の処』に向かって坐禅に専心する。つまり空界の『空観』に至る。 

  『超アナグロの禅修行』は、色空の『重ね合わせ』を永遠に楽しむ『場』である・・・ということを、デジタルネイティブ世代に伝えたい。

 

  『無事是貴人』という短冊を昔、老師から3枚ほど頂いたが、当時はこの意味が解らず、もっと格好いい短冊が欲しい、と思ったものだが

  生活の隅々に『空読』を働かせ、なおかつ『空観』を徹底することで初めて『無事是貴人』が実現し、世間の『いざこざ』を鎮める…のだと解す。

  その為の『脚下照顧』だけは、世界中の人々に幼少時に実行してほしいものだと思う。

 

  

 

    

     先日レマン湖で見かけた、サップ(サーフボードにのって漕ぐ)初心者むけ教室での一幕図

 

  

  

  


 畏敬と三拝

2021年08月18日 | 禅修行の思い出

  今読んでいる本、ドナ・ヒックス著『Dignity』に畏敬についてこんな一節がある。

  『ボード・ウッドラフ著『畏敬:忘れられた美徳を新たにする』に、私たち人間は自分たちよりも偉大な力の存在に気づき、それを畏れ敬う心情

  である『畏敬』の概念に立ち返るべきだというのが、彼の訴えです。この『畏敬』の感覚はリーダーが自らの傲慢さを戒める役割を果たし

  『畏敬』は尊厳に基づいて人を率いていく必須条件です。』・・・

 

  禅の本などを読むと、『悟った者が天狗になって傲慢になることがある〜こういった者の禅を野狐禅(やこぜん)といって臨済禅では強く戒める』的な

  記述をよく目にしたが、まさに悟ったつもりが、ただ傲慢になっただけでは百害あって一利なし。

 

  私は『畏敬』と聞くと、禅修行の初心者のときに驚いた事の一つを思い出す。

  というのは、私は通っていた円覚寺居士林の土日坐禅会の土曜の夜の最期の坐禅が終わったときに、全員一斉に『三拝』をする。

  『三拝』というのは、ほぼイスラム教徒がするような(どのようにするか詳細は知らないが)五体投地の礼拝で三回する。

  ちょっと違うのは額を床につけて両手は仏陀の御御足を頂くようにゆっくりと手のひらを上にあげる動作をすること。

  何度かしているうち『偉大な存在に対する畏れと敬い』の念がいつともなく自己のうちに湧いてくる思いがした。

  それにしても、最初に『三拝』をさせられた時は内心驚いた…『エッ、こんな事するのか仏教でも・・・』

  でも、長時間、足の痛い坐禅をしているので、最後の坐禅が終わったときこの『三拝』をするのは足の屈伸運動ができて

  実に有り難く、別な意味で喜んで『三拝』をしたものだ。

  老師の弟子となって公案をもらうと、参禅といって禅問答するために老師の部屋へ入る時も『三拝』をし、最初のうちは直されたりもした。

  禅寺で『三拝』が普通に行われていることは、案外知られていないのではないだろうか。

  禅修行では知らず識らずのうちに『畏敬の念』が自己のうちに育まれるように随所にシステム化している。

         

           これはスイスのアッペンツェル地方の旧暦の正月を祝うお祭りの一コマ

           『森の霊』に対する畏敬の念を表しているのだろう。こういった衣装の5人組が一軒一軒巡って家の前で『ヨーデル』を歌う・・・

   


  洗脳されちゃった私

2021年04月24日 | 禅修行の思い出

  私の辞書には『洗脳』なんていう言葉はありえない…と思っていた。

  それが35歳、初めて僧堂の接心…といって雲水と一緒に僧堂の禅道場で一週間の集中坐禅会に参加した時

  私は生まれて初めて『洗脳』というものを体験した。

  それまでも居士林で坐禅はしていたものの、老師との師弟関係はなく、ただただ教えられた数息観を一生懸命やっていた時期を経て

  その時、正式に老師の弟子になって、公案を頂き僧堂接心に参加したのだ。

  やはり、同じ接心でも居士林での接心とは違い、プロとアマの違いというのだろうか? 張り詰めた空気の濃度の違いを感じた。

  (だいぶ後に、京都であったろうか、観光で有名な臨済宗のお寺へ行った時、『ここから僧堂で、一般人の立入禁止』の張り紙の前で

  ある中年男性が『拝観料で儲けている観光寺の修行なんて、どうちゅうことないよ〜』と、知ったかぶりなことを言っていたが、

  私はそういったタイプの寺(円覚寺)で修行した経験から言うと、観光客で賑わう外と僧堂の内とでは全く世界が違い… 涙ぐましい

  真剣な修行が行われていることを知っているので、残念な思いでその言葉を聞いていたことを思い出した。)

  で、初めての僧堂接心が終わって、東京の自宅に帰る電車の中での出来事…車内で見る人々が『不潔』でたまらない気持ちになったのだ。

  だいたい普段、私以上に不潔な人間はそういない・・・と自覚している私が、なんと『娑婆の人間ども』が不潔で不浄な者たちに見えて

  嫌悪を感じたのだから・・・驚いた。

  しかし、電車を3回乗り継いて自宅につく頃には、普段の自分に戻っていた。その時初めて『ああ、自分はオート洗脳にかかっていた』…と、

  気が付いた。初めての僧堂接心で全身全霊で打ち込んだ結果、勝手に『自分は清い・・・』と思い込んでいたらしい。

  35歳のオッサンでも『思い込み…という洗脳』が在ることを体験して、その恐ろしさを学んだ。行為が純粋であればあるほど、『洗脳』に

  かかりやすいのだと思う。

  先日、以前Youtubeで働いていた米人青年が、Aiが視聴者の嗜好に従い勝手にその手のテーマの動画をどんどん選択、提供することに

  危機を感じ、辞めて問題提起している話題に出会ったが、Aiが人を洗脳する危険性が大きいというのだ。

  具体例として、今年のアメリカの大統領選挙でアメリカは分断の危機に陥ったが、陰謀論動画を見たYoutube視聴者がどんどん陰謀論に

  ハマっていく…というようなことは、誰かが後ろで手引しているというよりは、Aiが引き起こした分断である…というのだ。   

        

  それが事実であれば、私達はすでに Ai に『洗脳』されているのかもしれない・・・用心!  


  坐禅・究極の自粛

2021年01月30日 | 禅修行の思い出

  コロナ襲撃・第三波に見舞われスイスでも半ロックダウン中・・・つまり自粛である。

  自粛と言っても、食料品の買い出し、人混みを避ければ散歩もできる。

  なんといっても自宅でインターネットができる・・・3年前に定年退職したので仕事の心配もない。

  そういった意味では我が三十歳代(1980年代)に行った土日坐禅会や月イチの一週間ぶっ通しの僧堂摂心のほうがよほど『自粛』の意味合いが強く

  たった独り、周りとはまったく反対方向へ進んでいるような生活は客観的に見ると『孤独』のど真ん中であったであろうと思うが

  三十代半ばからは相方の存在が精神的支えとなって、いい歳をした男が定職も持たずバイトと修行に打ち込むことが出来た。

  辞書によると『自粛とは:自分から進んで、行いや態度を慎むこと。』とある。

  禅修行はまず『自粛』の意思を大前提として、寺に受け入れられるのであるから、『行いや態度を慎む』点では指導者は遠慮会釈なく

  寺の作法に則ったうえで、おおいに鍛えてくれた。

  まさに『煩悩無尽誓願断』で、煩悩の塊である自分には耐えられないだろう…という初期の『妄想』すら警策という棒で打ち壊され

  ただひたすら『数息観』という呼吸法に集中した。というか、するように努力した。(最初はなかなか出来るものではない)

  『悟り』は『郷里(サトリ)』であり、誰でも一度は戻るべき『場』であるという…心境に至ったのも、こうした『自粛の時期』があったからだ。

  せっかくの『世界的自粛』のこの時期、己の心奥に向かって思いっきり『自粛』してこそ『マスク』もより重要なもう一つの役割を果たすだろう。

         

              鎌倉… 時代も場所も『禅』の発祥であり日本文化の礎の図


還暦とReligion

2019年09月01日 | 禅修行の思い出

還暦…から7年も過ぎたが、還暦は60歳の時のみを意味しているのだとは思わない。

60過ぎたらそれ以降がすべて還暦ということ。というのは

Religion(宗教)をググると、ラテン語でRe (再び)+Ligare(結びつける)…と説明がある。それに最近、フランスで有名な美人ユダヤ教ラビ(指導者)の講演を直接聞いて知ったことだけど、Religionにはもう一つの意味があって『再読する』…という意味もあるそうだ。

じつは、『還暦』には『人生の再読』『真なるものと再び結びつく』…という機能が配されていることに気がつく。

これまで、忙しく前ばかり見てきた人間に、自分の過去を精査する還暦を設けた先人はさすがだ。

それで、今日突然フラッシュしたことは、『雲頂庵和尚』だ。

禅の修行は大小混ぜるとのべ8年ぐらいの期間にまたがって、それこそボクの脳内メモリーには様々な思い出があって、ボクにとってその重要度というのが30年以上立った今まさに精査しているようなのだ。

これまで、あんなことがあったなぁ〜…程度のことが、いやいやあれは実に重要であった…と各メモリーを精査再読し、再結晶している。

その中で今日は雲頂庵和尚が再結晶したのだ。

ボクの禅修行歴の中で、雲頂庵和尚との出会いは、今考えると実に貴重な出会いであったと思う。

和尚とは円覚寺の居士林という一般人を対象に禅修行する道場で、道場の責任者の和尚と一修行者であり、和尚がいない時に参加者を導く係(日によって直日(じきじつ)、侍者(じしゃ)、典座(てんぞう))を拝命された自分の関係であった。

この若い和尚は、臨済禅の家風を見事に体現する和尚で、一般的に初心者を親切に指導する風な柔らかな雰囲気の和尚達とはだいぶ違っていた。(和尚はボクより若かった、当時ボクは35、6歳、彼はたぶん32、3歳であったろう?)

本で読み知った臨済禅の創始者、臨済禅師を彷彿させるまさに竹を割ったような和尚で、彼が道場にドシドシと入ってくると道場の空気がキーンと張りつめるようであった。以前のあたりの柔らかい和尚からこの雲頂庵に変わった時、ボクはちょうど新米の役目を配した直後であったので、典座(朝食を準備し、給仕する役)などでも、少しでも躊躇しているようなところがあれば、(つまり気を使いすぎてもたもたしているような時)和尚が給仕しているボクの手からシャモジをもぎ取って、給仕の仕方を身を以てみせてくれたり、警策という棒で肩を叩くときでも、モサモサした叩き方であったら警策をボクからもぎ取って叩き方を示してくれたりして、新米指導者のあり方というものを本当に親切に教えてくれたことは、その後のボクの人生に大きな影響を及ぼしたに違いない。ただ、この雲頂庵和尚は一年半ほどで、突然の辞任の挨拶で居士林の指導者から引いた。この時、相方のニコルも和尚のもとで一緒に指導を受けていたが、最後の日にニコルは欠席していたので、後日和尚が突然辞めたことを知って、驚くというか、あまりにも禅的な別れにカルチャーショックを受けたようだった。

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年末最後の坐禅を終えて、これからささやかな食事会を迎えるところ。(ニコル撮影)

左から2番目、鼻血がでて鼻に紙をつめて、大笑いしているボク、その右隣りのいつもほのぼのとしたユーモア禅者のM氏、そのとなりが真面目一徹の禅者 I 氏、それに雲頂庵和尚の左に座っている、大先輩W氏など土日坐禅会を支え合った同志等と、普段白い歯を見せることのない道場ではめずらしい今から31年前の貴重な写真。


それぞれの『門』

2018年11月01日 | 禅修行の思い出

こういうのも『縁』というのだろうか。

というのは、鈴木大拙さんに会いたい(というか年に3回ぐらい彼の人柄に接したい気持ちが起きる事)気がして、大拙の自称弟子を自認している志村武著『鈴木大拙に学ぶ禅の人生智−ありのままに生きる』という著者が23歳の雑誌記者であった時、76歳の鈴木大拙に取材して以来、人柄に惹かれ、それから大拙がなくなる96歳までなにかと教えを請うた、その体験を記したこの本、2度目の再読になるが、その出だしから夏目漱石の小説『門』の主人公、宗助の生活心情の吐露から始まり、後半にはタイトルとなる北鎌倉の円覚寺の門をくぐって禅に参じ、再び日常生活に戻っていく…という内容を織り交ぜながら『ありのままに生きる』とはどういうことなのかを掘り下げる体裁になっていた。…?というのはなにせ、昔読んだのは今から28年前で、漱石の『門』がこの本に書かれていたことも、この門がボクが修行した円覚寺の『門』であったことも今回再読するまでまったく忘却してたか、単に知らなかったか…。

それで、この『門』が気になって早速、I-Tunes Book で漱石の作品が無料でダウンロードして読み始めた。漱石の『門』自体にはボクは正直特に反応しなかった。そこでYoutubeに助けを求めると、奇特な人がいて読書感想を聞かせてくれる人がいた。その人は3度も涙するところがあった…そうだが、やはりボクとは感受性が数段高いところの人のようで、本以上にこの人には関心した。

この本を読んでいる最中に偶然に大昔、36年前ボクが30歳の時(1982年)、それこそ円覚寺の『門』をくぐって一週間の学生接心に参加し、それをやり終えて親友のタカヒデと一緒に写っている写真を見つけた。

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接心という一週間集中『禅修行』はこの時初めてのことで、ボクには結構キツかった。

終了の最後の朝、学生のリーダー格を直日(じきじつ)が挨拶した時、参加者の殆どが感無量の思いで泣いていたが、若い学生に混じって30歳になるボクも泣いたっけ。

これが、ボクが『門』を叩くキッカケとなった。

小説『門』では宗助は10日間の修行をして、漱石にこう言わせている…

『彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』…

ここを読んだ時、ボクは漱石と大拙のあまりの差に驚いた。というか呆れた。

こんな人が、禅寺の『門』をタイトルに小説を書いたのか?!…と思う。

まぁ、それはともかく志村武著の本『ありのままに生きる』の最後の方に著者が大拙にした質問『人間が生きていく上に、最も大切なものはなんでしょうか?』

 

大拙『平凡な言葉だけれど、愛ということが大事ではないかな。仏教でいう無縁の大悲、無縁の大慈だ。そして生きがいを自覚することが、信仰でありそれが『誠』で、それは自分をむなしくすると、『誠』がおのずと心の中に湧いてくる。その誠をもって他人のために労力を惜しまず働くのだ。そこでもう一つ必要なのが『詩』だなぁ。詩がないと、人間の世の中はギスギスしてしまう。月は月、花は花だけに終わってしまっては、殺風景この上もない。詩の世界に遊ぶことを忘れてはならんなぁ。』

 

ム~っ、ボクの場合『詩』に遊ぶことはまあまあだが、問題は『誠』だなぁ…。

 

それと『門』が開くかどうか、そんな事どうでもいい。門の前で開くまで『無〜ッ』とおのれをむなしく…するのみだろう漱石さん!

 

 


 犀角独歩

2018年08月21日 | 禅修行の思い出

 60歳過ぎを『還暦』とは、本当によく云ったものだと最近もつくづく思う。
 去年退職し、本当に少しずつ少しずつ過去のことを振り返り、反すうするが如くの中で、いろいろなことがわかってくる気がする。

 最近、禅修行の思い出から、とても大切なことに思いが至った。

 鎌倉、円覚寺のまずは一般人が修行する道場『居士林』での修行、後に居士のまま老師の弟子となって、

 摂心を中心とした僧堂での修行とだいたい足掛け10年の禅修行を行なった。


 その間、寺に支払ったのは居士林での食事代…いくらだったか忘れてしまったが、実に微々たるものであった。
 で、正式に老師の弟子にしてもらうときに払った相見料…というのだったか? たしか3000円ぐらいだったような…

 兎に角、何を言いたいかというと一旦、修行をやると腹決め、認められると金はほとんどかからなかったことだ。
 よく教団に入信する際に、お金をいくらいくら払ったなどという話を耳にするが、ボクが修行した円覚寺ではこちらが申し訳ないほど金がかからなかった。

 そう言う事を、最近まで何とも思っていなかったのであるが、よくよく考えるに実に重要な教えであり、これぞ禅…と言えることに気がつく。

 およそ10年間の禅の修行中、『仏教徒になれ』というような事を、一度たりとも言われたことも聞いたこともなかった。
 禅の修行中ボクは宗教を修行しているというような、宗教臭いことは一度も考えたことはなかったのだ。


 居士林では『数息観』、僧堂で修行してからは『公案』に集中するばかりで、その他の一切から完全に開放されていた・・・。
 僧堂で5年修行し、ボクの年齢も40に近づき、その旨老師にお話し、渡欧するために修行をやめる事を話た時にも
 『 そうだなぁ・・・、頑張んなさい 』 それだけであった。

 禅は『来る者拒まず、去る者追わず・・・』ということは知っていたが、まさにその通りであった。

 ボクはそのことを、今日まで何とも思っていなかったが、最近その禅のあり方が実に釈尊が云ったという『犀角独歩』=『犀の角の如く、ただ一人行け』
 の教えを見事に表し、禅の生き方をよく体現している素晴らしい出来事であったと理解することが出来たように思う。

 人間は『社会的動物』ということで、一人では生きていけない存在であるが、仲間と群れるばかりではどうしても様々な問題を生み出す生き物であることも事実。
 基本的には独歩で、協力するところは互いに思いやりを持って接していく…といったような教えが『仏教』の基本にあるのではないだろうか。

 
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                先日話した『練功十八法』体操をしている若き一撮


 一畳詩人

2014年12月24日 | 禅修行の思い出
  今日はクリスマス・イブだけれど、ボクは仏教について考えたい。
  
  それも『禅』について。 
  仏教といってもいろいろな宗派があるなかで、禅は魅力的ではあるけれど、どこか難しく近寄りがたいイメージがあって、実際に『禅』つまり坐禅を組む
  ところまで行く人は実に少ないと思う。
  しかしながら、あらゆる理屈を取り除いて、座に集中させる『禅』は仏教入門としては最も簡単明瞭な修行法ではないだろうか。

  ボクは初め小さなお寺で仲間数人と月一回の坐禅会に一年間ほど参加。次に円覚寺居士林にて土日坐禅会に参加して2,3年通った。
  坐禅はこれでもう充分だろうと思って、長年夢であった海外へでてみると、西欧では禅ブームの最盛期の後半ぐらいの時期であって
  なんでもかんでも『Zen』の名前が付けられ、猫も杓子も・・・という感じであった。そんな中、禅の何たるかを知ったかぶりした人々が
  西洋人にチヤホヤされている風景を見るにつけ、ボク自身こそどれほど『禅』について知っているのか?と反省し、急遽帰国して
  円覚寺の老師に弟子入りした。といっても坊さんになったわけではなく、居士として毎月ある一週間の僧堂の接心と呼ばれる坐禅会に5年ほど通った。

  それ以前に参加していた居士林の修行は何だったのか?と思えるほど僧堂での修行では、まずもってボクという自我を徹底的に奪い取ることから始まった。
  禅は一見、『禅問答』といってとても理屈っぽいような印象を持つが、実際は問答でも何でもない真逆の行為で『俺が、私が』という自我の殻をひっぺがす
  作業と言える。
  ボクの貰った公案は『庭前の白樹子』といって、達磨さん(禅の創始者)が西(インド)から来た意味は?の答えがこの『庭にある白樹です』・・・という答えで
  取り付く島がない。取り付く島がないと言えば 『父母未生以前』風景を言ってみろ!・・・という公案がいいね。両親が生まれる以前のお前はどこで何を
  していたのか?という問題ですが・・・。 貴方はどう答えます?

  ボクは禅ブームの火付け役『鈴木大拙』を尊敬していますが、何故かと言うと僕らに公案の存在を世に示したからです。
  私達は解かろうが解るまいが『公案』を持つべきであると思います。大いなる『疑問』を持つべきだと思います。

  ボクは初めてヨーロッパに来た時、スペインのどこの教会であったか、とてもリアリスティックな十字架上の血だらけのイエスを観た時
  あっこれは『公案だ!』とハッキリ思いました。じつに『不立文字』でした。何百ページの聖書なんてこの十字架のイエスを見ればいらないのです。

  ボクは鈴木大拙さんの本を読んで、禅道場入門に背中を押されたようなものです。
  しっかりこびりついた自我というのはなかなか自分一人で取り除くことは出来るものではありません。
  禅道場はそれを取り除くための工夫の行き届いたところで、今になってとても感心しています。

  道場の畳(たたみ)一畳が各自に与えられたスペース、坐・食・寝をこの畳一畳で修行期をすごします。
  ここで、自我を殺すんですよね。死人になったらお祝いするんです。


                        一畳で 死人となって 詠う句は 『天上天下 唯我独尊』 : 一撮
  
  
  

 ~ 独坐大雄峰 ~

2013年02月04日 | 禅修行の思い出
  ボクの部屋の中 雑然とゴチャゴチャ 物がある中で 唯一 “本物” と言っていいもの それは老師から貰った書

  “ 独坐大雄峰 ” だけだろうか。

  ある日 居士林(一般人の修行者の道場)で修行中 直日(じきじつ=リーダー)を交代でしていた ボクを含めた4人が

  老師の住まいに呼ばれて お茶を頂いた。

  その時に 老師は 4枚の書を 畳のうえに並べて 4人に好きな書を 持っていけ・・・と仰ったが、

  先輩格の Wさんも 他の2人も ボクも 何故か皆 この”独坐大雄峰” を所望した。

  それで ジャンケンで 決めることに なって  それが 今 ボクの部屋に 掛かっているのだ。

  他の3枚は どんな文句だったのか・・・ ダイイチ ボクには読めなかったし 意味もわからん 難しい書としか 

  記憶にないが 今になって 他の書が どんな内容だったのか 興味津津だ。


  友人が 重い病気で 苦しんでいるが 何にもしてやることが できない。 

  生命の問題は じつに 一人一人が 対面する ことで 他の人は それを 見守るだけなのだ。

             

   

 成りきる

2012年02月12日 | 禅修行の思い出
  禅の修行中 一番よく聞かされた 教え?は 「成りきれ!」であった。

  数息観をしているときは 吐く息を1~10まで数えたら また1から・・・というふうに その40分~一時間の坐の間
  延々と吐く息を数えていく。 その時に 和尚や直日(じきじつ・リーダー)はよく 「吐く息に 成りきれ!」と言っていたっけ。

  正式に老師の弟子に なってからは 「庭前の柏樹子」という公案をもらい  よく「柏樹子に成りきって来い!」と怒鳴られた。
  柏樹子というのは ようするに 「樹」のことで それに成りきって来い・・・というのだ。

  修行中のボクの一番の思い出の 一つに ある雲水の思い出がある。

  まだ公案をもらって 間もないころ その人(名前は知らない)が直日となって 雲水たち そしてボクのような居士を指導・指揮を
  していた。 その頃ボクは 36,7歳で 彼は27,8歳ぐらいであったろうか? 兎に角 直日としての指揮ぶりが 威厳があり 一切の無駄が
  なく 「お見事!」とボクは心の中で 感嘆していた。

  ある時 その人は 今度は典座(てんぞ・食事したく役)であったか 僧堂に座っている我々に お茶を給仕してくれたのだが
  あの時の威厳ある彼とは またぜんぜん違って (さあ、さあ、暖かいお茶をどうぞ!)と云わんばかりの給仕ぶりであった。

  修行中一番 印象に残った雲水は この人ひとりであったが、 この「成りきる」を地で行って 見本として見せてくれた 師として
  ボクにとっては 最も大切で  強烈な思い出となっている。

   


  成りきれと 慈悲の警策 鳴り響く お堂を月は 照らす雲間に :一撮
 

  

 パーミ・タイナー2

2011年07月12日 | 禅修行の思い出
 どこかのオヤジから ぼくのブロクに対して 抗議が来た。

 「プログを見る人間のほとんどが、まともじゃないのはご存知ですよね。」・・・とはじまった。

  じつは 「これを書いている奴も まともじゃないんですよ」・・・と返答する。
           

  ボクは今日の小出さんの発言を 聞いて どこかスッキリした 思いだ。
 
  勇気を持ってこれを聞いてほしい。http://hiroakikoide.wordpress.com/
  これは7月11日、テレビ朝日の報道番組「報道ステーション」内のコーナー「原発 わたしはこう思う」
  に出演した小出さんの 発言に「明るい未来なんてないですよ。」・・・と言い切ったのだ。

 これまでそのような予感というか 不安というか あったのが ここで ハッキリしたみたいな。
 これに対する 覚悟を 決めなきゃ 先に進めない・・・というような中途半端な気持ちでいたのが
 これで ハッキリした 感じがする。
 
 そう云えば 水谷さんのブロクも 今日はスッキリしてたな。
 http://mmps-inc.jugem.jp/
  
 
  

 
 

 

禅修行<いまさらマトリクス・赤いピルを飲め>

2009年12月24日 | 禅修行の思い出

 島ではアバターが始まりましたね,どうですか?気に入りましたか。視覚的にすごい仕事を見せてもらい将来性を感じさせてくれたと思いますが,写楽斎的には深みの点でマトリックスの足元に及ばないと感じましたが・・・。

 ほんとに今さらマトリックスなんですが、ボクにとってはこの映画は画期的なおかつ、禅がZenになる道を示す象徴的な出来事と捉えています。この映画を仏教的に捉えた人が結構いたようですが、特に禅的であったと思います。

 映画では,真実を知りたければ赤いピル,ここから引き返したければ青いピル・・・と迫られますが,ボクの場合は,小さなお寺での週一の坐禅会からもう少し厳しい一泊二日の坐禅会にきりかえる際にこんな感じに自分をせめこんだ気がします。

 この土日坐禅会を3年ぐらい続け、その頃通っていた鍼灸学校卒業と同時にボクはニューヨークに一年,ヨーロッパに一年の旅をしている最中,急に世の中が虚構で塗かためられている様に感じて帰国、以前通っいた禅寺の老師に正式に弟子にしていただき改めて禅修行を始めた。この時は何のためらいも無く,と言うより薬を欲しがる病人の如くボクは"赤いピル"を口に放り込んだわけです。

 今思うと,土日坐禅会を3年続けたボクは、それなりの天狗になっていてカラ自信満々のまま,海外にでかけ,世はまさに禅ブームだったので、知ったかぶりをしていたと思います。しかし,いろいろなところで自分に似たような中途半端な日本人がブームをいいことに禅指圧とか,何でもかんでも禅の名をつけて商売をいていればうける様な風調も帰国の一因でした。

 主人公のネオを導いたのは白兎でした。ボクを禅の道に導いてくれたのは,鍼灸関係の二人の先生と学友でした。ボクは最初はあまり気乗りしなかったのですが、途中で学友そっちのけで禅にのめり込んでいきました。
 
 初めて寺で坐禅したとき、足の痛さと、ただただ時間が無駄に過ぎていく様な気がして、無性に腹が立つたのですが、そのときふと、思ったのです。まてよ、今までボクにとっての時間とは,生と死を結ぶ方向に”直線に進んでいく”としか考えていなかったから,無駄な時間を過ごすことに腹が立ったのではないだろうか・・と。禅の時間はまた違うのではないか?と。ボクはこの時,直感で違うことがわかっていたと思うのですが,その事をどうしても確認したかったのだと思います。これがボクの本当の禅入門の理由であったと思います。


禅修行 <脚下照顧の ”Zen”>

2009年12月20日 | 禅修行の思い出

 今朝、ふと昨日の”戦メリ”の自分の記事のことで,大事なことに気づいた。
 
 坂本龍一さんも,先日終えたCOP15も,そして映画”アバター”もつまるところ ”エコロ”の問題に帰するわけだ。
それで今,世界中のひとが何かしなければ・・・と思案している。

 ところで、25年前、写楽斉が始めた ”Zen” 自体が”究極のエコロジカル・ライフの方法論と思想に裏打ちされた実践システムを持っているという事,それが茶道とか俳句とか様々な形で我々の日常生活に浸透している。・・・という事を、遅いボクは今日のきょうまで考えもしなかった・・・という反省なのである。

 一切の無駄を嫌い、モノを活かして使う・・・というより,使わせていただくという心持ち。自分が生きるというより,周りのすべてに生かされているという一点に気づくことがZenであると1500年前からダルマさんは我々におしえている。

 そんな教えが我々の身近に”禅文化”=日本伝統文化として存在している。

 まさに ”脚下照顧!” (しっかり自分の足元を見なさい・・・)

 三十歳を過ぎたボクが初めて,学生摂心という一週間の禅修行に参加して最も驚いたことは、外にある流し台で鍋を洗っていた学生が流れていく飯粒を追いかけて、つまんで口に入れている光景であった。

 学生の一途な行為にボクはビックリしつつ感銘を受けたが、そういう風にモノを徹底的に大切にする生き方を身を持って教える機関が今、禅の他に存在しているだろうか。

 禅の修行ではモチロン、”エコロジー”なんてことを一言も言わないが,モノを粗末にしない、モノを活かしきっていくという態度が”悟り”をどうこういう以前の基本的第一事項としている。・・・という事実を我々日本人はもっと評価していくべきではないだろうか。

 ”エコロジー”問題といっても究極は ”我欲”の問題でそれを見ずして云々しても根本的解決は無理であろう。


禅修行 <公案としてのロックンロール>

2009年12月11日 | 禅修行の思い出

 臨済宗で本格的に修行をすると、公案という問題が与えられ修行中はそれに向かって全力で体当たりするわけだが、以来、何を見ても公案にみえてくる。初めてヨーロッパを旅行してスペインの教会で十字架上の血だらけのイエスを見たとき、強烈にそう感じたのをよく覚えている。

 写楽斎の作品に自写像があるが、最近ふと思ったのだが、これなどはボクにとってはロックンロールなのだと思う。
物心ついてから、これだけロックと演歌を聞かされて育てば、写真にだってそれがイヤでも出てしまう。
 それなのに、写真界では何故かロックンロール的な解釈が全く出てこないというのはオカシイ。

 こんどその写真で写真展をやる時は、その辺の解釈を強調してみようか。

 そこで、今日考えたが、ロックンロールというは、立派な公案だと思う。公案的に和訳すると”踊りだす岩”てなことになるのだろうか。

 臨済禅師は9世紀、唐の禅僧で 何かと言うと ” カ〜ッ!!!”叫んでいた人だが、かなりロックンロールしていたと思う。RockとZenは色即是空の如きものだと思うが。


禅修行<全然のZen (2)>

2009年12月10日 | 禅修行の思い出

 昨日の自分の日記を読んでみると、説明が舌たらずの為、30代の10年間禅の修行に明け暮れました、みたいに思われるのでは・・と少し反省。この10年間は小、中、高校、大学みたいな感じで徐々に修行のレベル?を上げていったわけで、それでなければ直ぐ挫折していたと思う。

 禅寺(ボクの場合は臨済宗)の修行で、不思議に感じたことは、修行の目的に一直線あるのみ。で、

修行中自分が仏教を体で学んでいるのだ・・・ということすら感じなかったほど、仏教の仏の字も出てこなかったこと。普通宗教というと、勧誘とかなんとか有るように思っていたが、そんなこと一切ない、どころか気に入らなければさっさと帰れ・・・みたいに容赦なくひたすら坐禅に集中あるのみ。

 ボクはしばらく一泊の土日座禅会というのに通ったがこれらの道友とは大晦日の坐禅会の時話しをしただけでその他の時はほとんど口をきかなかった。毎週末、顔を合わせて厳しい修行に共に耐えていくと、ああ、アイツも頑張っているなあ、ぐらいなものでネチネチ、ヨナヨナ式の人間関係は全くなかった。

 教えというと、何の説明も受けずにひたすら大声で読んでいた、般若心経や、その他のお経。意味が分からないが、だんだんと薫習(くんじゅう〜香が少しずつしみ込む様に習慣によって身に付く様)されていく。ボクの場合、老師の説法もさることながら、弟子の雲水達の立ち居振る舞いにおおいに、学ぶところがあった様に思う。