拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

フランス人の落語家

2020年03月08日 | 東西異洋文化事情

昨夜、日仏語交流会の情報のおかげで、久々に落語を聞くことが出来た。

それもフランス人の落語家の落語を・・・。

我ら夫婦は国際結婚というやつで、旦那である手前がとにかく甲斐性がなく、30年もカカアの国スイスに住んでいながら冗談の一つも言えず、聞くこともままならず、会話の途中で大笑い…何んていうことは年に一回あるかないかだ。

んで、情報によるとフランス人の落語家が落語をしてくれる…ってんで、宣伝用の動画をみると日仏語ちゃんぽんでなかなか面白い!と直感したので、術後の膝をかばうためにどこに移動するにも松葉杖で、少なからずストレスが溜まっているであろう相方に笑ってもらいたい…と思ったわけででかけた。

小さな会場は100人ぐらい入場できるところに、70〜80人ぐらいいたであろうか?以外にも日本人は少なく僕自身が確認したのはボクともう一人の日本人女性で2人であったと思う。

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         客とセルフィを撮る落語家の図 2020年 3月6日の夜

フランス名はCyril Coppini で落語家名が 尻流・複写二…なるほど。

図体のでかい丸ハゲのオッサン、は昔だったらサントリーウイスキーのイラストのオッサン…とでも言えばすぐイメージが湧いたであろう男が着物きて出てきた。

非常に残念だったのは例の出囃子の音楽ではなく、何の音楽だかまったく関係のない音楽が流れていたこと。

しかし、話し出すとそれが巧いのなんのって…。落語をフランス語で日本の小話をするんだから、いろいろ工夫してあり、また顔のちょっと大袈裟な様子もボクにはけっこう受けて腹がよじれて痛くなるほど笑った。

有名な小話を少し変えて短くしたの…ジュゲムや蕎麦屋に時間を聞くやつや怪談皿屋敷や全部で8小話ぐらいしたのではないだろうか、ボクの右隣のスイスのオタク風アンチャンは前のめりになって笑っていた。日仏両語がわかる相方も彼の落語風日本語と仏語、よくわかるらしく大笑いして喜んでいた。

約85%フランス語、あとの15%は早口のべらんめい調の江戸っ子弁で彼の日本語能力レベルを垣間見たが、それより彼の落語に夢中になってフランス語を日本語のように聞き取っている自分に驚き、嬉しかった。

この落語を聞きに来た地元の人達は、一体日本とどういった関係を持った人々なのか、それぞれの縁に従ってこの会場に集ってきている。中でもボクの目を引いたのはインド人と思しき若い母娘の二人連れ、たまたま相方の隣に席を取ったので相方が10歳ぐらいの娘さんと一言二言話を交わしていた。その母娘に帰りのバス停で一緒になって少し話を聞くことができた。

インド風の女性は彼女が3歳のときにスイス人の家庭に養女としてスイスで育ったとのことで、生まれはスリランカ。10歳の女の子のはボクの孫でなくとも目に入れても痛くないほど素直で可愛い娘で来年の夏には日本に行くそうだ。

 


マンガは萬芽だった…

2020年02月08日 | 東西異洋文化事情

若者たちと混ざって日仏言語交流(タンデム)をやっていると、若い外人さん等(*彼らは外人と呼ばれるのを快く思ってないようだ…が)が日本文化に興味を持ち始めた動機は例外無く日本のマンガというか、アニメ漫画の影響をうけていることは間違いないようだ。

それについては、なるほど~・・・と思っただけで、これまでそれ以上に深く考えていなかったけれど、よ〜く、よく今年68歳になる自分の幼少時の事を考えてみると、外人どころでない、100%純日本人(江戸っ子と道産子のハーフですが)のボクですらマンガがなければ、今のボクはなかったんではないだろうか!!という衝撃の事実に今頃気がついたのだ。

北海道のオホーツク海の内陸の片田舎北見盆地で生まれ育ったボクが、武士道…みたいなものが、なんとなく理解できるのは、小学校の時散々見た東映映画時代劇と時代劇マンガのおかげであることを改めて僕らの世代の人間は考えなければいけないのではないだろうか???。

それと、北海道は本土から寄せ集めた屯田兵による開拓にて発展した経過があるわけであるが、それって海外に赴任した日本人みたいな面持ちや気概があって、開拓地でありながら、それぞれの出身地の郷土愛による、詰まるところは日本人魂をあんがい競い合うこととなったのではないだろうか。

ボク自身はそんな視点は全然なくて、本土と比べて我が郷土の田舎性に大いに劣等感を抱いていたのだが、子供の頃に見た秋の北見祭りを思い返すと、ど田舎の大通りを槍を持ってヅラをかぶった奴さんの行列『下に〜下に!』とやっていたのは、参勤交代のなかった道産子による日本人魂しいの表れだったのではないだろうか。

マンガしかなかった…と書くつもりが、そうでもなかった…という展開になってしまうところが、文章を書く面白さだろうか。

とにかく、小、中、高…と莫大な時間をマンガに費やした者としては、マンガは日本文化を育成する上で貢献していなければ困るのである。

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貸本屋に通い詰めた習慣は成人後古本屋に毎日のようにのぞきに行くことに繫がった図


11月の赤トンボ

2019年11月02日 | 東西異洋文化事情

昨日11月1日、相方ニコルの従姉妹の息子・テル君がついに結婚した。

彼については8年前の2011年8月にこのブログに引っ越しする前のブログで書いた。

嗚呼! 日瑞の恋 - 拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

日本に恋に落ちたテル君は、日本に住むべくあらゆる手段を駆使した結果の一つとして日本人女性との結婚という最善の道に至った…。でもヒミコとは違う女性と。

ボク自身も異国に住むにあたって、その土地に住む伴侶をまず見つけたところから実現した経過がある。ただ、ボクの場合は諸事情から結婚式はしなかったが。

彼らの場合は、盛大な結婚式を挙げた。

盛大とは参加人数にとどまらず、お嫁さん側のお母さんがベトナム人、しかもフランスに移民したベトナム人親戚が主体ということもあり、両家から集まった親戚はそれぞれ5ヶ国に渡ったという。・・・ここらあたりに、純日本人女性が結婚相手ではなかったという出会いの面白さに(日仏語ともに堪能な嫁)、ボクは他人事ながら彼らの運命的出会いに感心している。

新郎のテル君からほぼ中継に近い形で、神社で行った結婚式の様子、彼の両親が初めて着た紋付袴と着物…という出で立ちは、驚くほど板について見えて笑った…写真を相方の携帯に送ってくれた。

その写真の一枚に、青空の外で撮った花嫁の綿帽子に赤トンボが止まった写真があった。

そこで、お祝いの一句

『 綿帽子 頭巾の白に 赤トンボ  よう子、ティモテの 前途祝って 』一撮

 

それにしても11月に赤トンボって、どれだけ目出度いの・・・

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写真は彼らの結婚とは関係ないが、『船出する二人』…のイメージから一撮した図


『いらっしゃいませ』の国

2018年12月26日 | 東西異洋文化事情

一度海外在住(特に欧米方面)経験した人間が身にしみて思うこと…は、何と言っても日本でのショッピングの快適さだろう。

そしてそれってかなり重要なことなのに、自分の中で何故か過小評価している…ていうか、どうにもならないこととして忘れるよう、諦めるよう自分を説得させているのだ。

今、ボクの回りでスイス人達が日本に憧れを持つ人々が増え、実際に何度も足を運んでいる人々ともよく出会うようになった。考えてみればボクの相方も一緒に日本に5年住んですっかり気に入り、ボクと約束していたスイスへの帰国の際には後ろ髪を引かれる思いで、日本を出国した。

なんでこんなに、日本は外国人にモテるんだろうか・・・

まぁ、いろいろあるだろうけど、日本は基本的に『いらっしゃいませ、の国』だからなのだと思う。

店に入って『いらっしゃいませ』というのは日本では当たり前。しかし、これは欧米では当たり前ではないのだ…。ここに、まず文化の違いを強烈に感じる。

よく日本文化の特徴を表す言葉に『和』というのがあるが、これは神道とか仏教とかその他もろもろの要素が長い間に集約して『和』という文化が出来上がった、そしてそれってよその国ではなかなか体験することができない貴重な文化を日本は作り上げたのかもしれない。

ちなみにフランス語圏では店の人は『いらっしゃいませ』とは言わない『ボンジュール(こんにちは)』というのだ。そして支払いが終わった際に『ありがとう』を言わない売り子さんも案外多い。『ありがとう』を言うのはむしろ客のほうだったりする。

生活の中で、ショッピングする比率がバカにならない時、僕らは『いらっしゃいませ』の国にあこがれる。

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 今日、ジュネーブで見かけた憧れのポーズ『いらっしゃいませ』を見た思い。


美しい日本の私

2018年12月03日 | 東西異洋文化事情

 

 上記のビデオが見られるようなので、目下再チェック中。

その中で、彼がオススメしているので読んだのが、川端康成がノーベル文学賞を受賞した際、講演で話した内容が本になった文章、『美しい日本の私』・・・

(なんか、どこかで聞いたような…と思ったら、安倍晋三の『美しい国』云々。あぁ、これはもしかしたら、川端康成のここからパクリしたものか〜ぁとは思った。)

 

確かに徹頭徹尾、道元・一休・良寛など禅僧による短歌を中心に日本人の美意識について切々と述べられていて、ボクは本当に驚いた。(詳しくはウィキペディアを)

伊豆の踊子は2バージョンを映画で見たような気がするが、正直、川端康成の本は一冊も読んでいないのでなんであるが、彼がこれほどまでに禅について肩入れ以上の気持ちを持っていたとは本当に驚いたのである。

このノーベル文学賞受賞が1968年、禅の大家鈴木大拙が死んだのが1966年、もし彼が生きていたら、どんなに川端康成のこの講演内容に喜んだであろうか…と思う。

大きな流れからゆうと、日本の禅の存在を世界に知らしめた鈴木大拙の働きが日本の作家、川端康成のノーベル文学賞授賞を促した…とも言えなくはない。

だから、これはボク一撮の独断でしかないが、

『禅の東洋文化は間違いなく、いつの日か世界文化に貢献する…』と絶えず唱えていた鈴木大拙が没した後すぐに、それを引き継ぐ形で川端康成が文学の面から獅子吼したように思う。

そのせいもあってか、1980年代には禅が(そして禅に関する本が)世界的隆盛をみせたが、2018年現在本屋にいっても禅に関する本はほんの数冊のみ…という現状になっている。

しかし、先日も書いたように、ネットワークのおかげもあってか世界中の人々が日本に興味を持ち、実際に足を運ぶ様には先人がばらまいた『禅の香り』に魅せられて集まって来ているのかもしれない…。

 

著書『美しい日本の私』中でも、ボクが最も気に入った短歌

 

 『 心とは いかなるものを 言うならん 墨絵に書きし 松風の音 』 一休

 

 


常不軽菩薩に思うこと

2018年11月28日 | 東西異洋文化事情

今日もカテゴリーとしては(東西異洋文化事情)。

最近、本屋をぶらりとしていたら、日本関係の棚に(Ryokan〜梅の花)と題した小冊本を見つけた。

良寛の短歌集で日本語〜ローマ字読み下し〜フランス語訳となっていた。

バラバラとめくって、眼に飛び込んできた短歌

 

『 僧はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける 』良寛

 

良寛の短歌やら漢詩やら俳句などがたくさんあることは知っていたが、この詩は初めてお目にかかって、ボクは(一丁前に)いっぺんに良寛を肯った。

あぁ、良寛は仏教をこんなふうに思っていたのか・・・と。

常不軽菩薩とは

『法華経』に登場する菩薩の名前。彼は人を見ると『われ常に 汝を軽んぜず 汝まさに昨仏すべし』(わたしはあなたを軽蔑しませんよ、あなたは仏さまになられるおかただ…)・・・と、一人ひとりに丁寧に礼拝されたという。すると拝まれた人が、気色悪がって『わしはお前さんに、そんな予言をしてもらう覚えはない、うるさい!』といって、罵っても、殴っても、石を投げつけても逃げながら、『われ常に汝を軽んぜず、汝まさに作仏すべし』と言って拝まれ、一生をこの礼拝で貫いた。この菩薩こそ、釈尊の前生のご修行であったという。

ボクは30年ぐらい前に誰の著書であったか失念したが、この常不軽菩薩の話に大変印象づけられ、(ノートに書き込んでいたのを、最近発見)その後もこの名前に出会うたびに仏教の最も深いところを表現しているように思って心の引き出しの一項目として大切にしていたものが、たまたま今回、良寛の詩でこの名を観て触発した。

釈迦は、悟りを開いた時 『草木国土悉皆成仏』と言ったそうだが…

まぁ、それは置いとくとして

日本へ旅行した外国人の多くが、日本の虜になってしまう現象をみるとき

ボクは、仏教のこうした常不軽菩薩の話が象徴するような『他者への尊厳』の思想…などという型苦しい在り方ではなくまさに自然にそういった風潮を醸し出す国が日本ナノではないか?…というようなことは、海外に長く生活しているとよくよく感じられることではある。

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スイス人の禅僧、道海さんの後ろ姿…彼こそは洋風『良寛』とボクは密かにおもっている。

 


木こりの国… か?

2018年11月27日 | 東西異洋文化事情

新しいカテゴリー『東西異洋文化事情』をこのほど立ち上げた。

1991年からヨーロッパはスイス・ローザンヌに定住してから、『なんじゃコリャ?』と思う違和感について、誰かに話そう話そうと思いながらも…そのチャンスも時間も意気地もないまま、いつの間にか27年というかもうすぐ28年になろうとしている。

( でも多分すぐネタ切れになるカテゴリーかもしれない… が  )

これは、スイスに来て最初に思った違和感というか、ボクにとってものすご〜く異様に思えたこと。

キッチンでパンをパン用ノコギリでギコギコとパンを切ったはいいが、テーブル回りがパンくずだらけになってしまう状態…のことであった。

キッチンはボクにとっては、清浄かつ神聖なる…的な観念をいつのまにか持っていたようで、きれいなテーブル回りが、丸太ん棒のようなパンの塊をノコギリで切ってその切り屑だらけになってしまうキッチンに我慢せざるをえないながらも、心の深いところではずーっと違和感を持っていたのだ。

ヨーロッパなのだから、人々はパンを食べると言うことは当然知っていたが、それはボクが日本で食べていた食パンではなくて表面が固いパン塊をいちいちノコギリで切り分けて食べるとは全く知らなかったのだ…。

西洋人は一見ボクよりも華奢な男であっても、二の腕は必ずゴツ太いが、それはこの果てしない森林を切り開き、岩を砕いた子孫から引き継がれたDNAだからなのだろうか?パン塊を切りながら、ボクは時どきそれを考えている。

 

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書初め〜と書いて "かきぞめ" と読む・・・のか。

2010年01月02日 | 東西異洋文化事情

 広辞苑によると<新年に初めて文字を書くこと。>とあった。なあんだ。 別に硯と筆で持って書く書道でなくても"かきぞめ" なんだ!

 すこし肩の力が抜けて,このブログによる<書初め>を書くことにする。しかし、何といっても一年の計は元旦にあり!

 多少は何か( 計 )と言えるようなものを、ここに書いておきたい・・・と言うことでまた少し肩に力が入り、まず友達のマリカ、とニコラが来る前に風呂にはり、計について拈提することにする。妻のニコルは昨日の忘年会がすっかり日本的雰囲気をかもしだすのに成功して気を良くし、新年会を今度はモチでもって親日家のヤングカップルを急遽招待することになった。

 (元旦の今日はまさに元旦らしい暗くどんより曇った天気、それでも我々夫婦はレンタカーでもって5分の所に車をとめて恒例のレマン湖参り。我々夫婦にとって湖は神社みたいなもの、とても神聖なものである。一時間ほど散歩した所で、ニコルの姉がTel、二人で話した結果ヨーロッパでも指折りのホテル、ボーリバージュのカフェで井戸端会議をすることになったようだ。写楽斎はそんな所で澄ました顔で"茶"を飲む柄ではないので帰ってネットで日本のお笑い番組を見る。)

 今風呂から上がり(計)を拈提した結果、今年は(漢字)の素晴らしさを世界的規模で提言して行こう!!!という壮大な妄想を抱いた。それを前提してたわけではないが、一冊の本(漢字、その特質と漢字文明の将来・鈴木修次著)を昨日読み終えたばかり。この本の中で、論語について述べていて、興味を持ち手持ちの本"孔子"をまず読んでみることにした。
気が散りやすいタイプなのでなかなか一気に、というわけには行きそうにも無く、当年とって38歳(これは自推年齢=自分で推定した自己の精神年齢)からの論語というのはそう簡単なことではないと自覚し、マイペースでの世界的規模提言にすることにした。

 もっと身近で、実現可能な(計)をすべり止めとして・・・ブログを出来る限り継続させる・・・という壮大な抱負を披露したところで元旦の挨拶としたいと思います。2010年皆さんにとって、素晴らしい年になりますように!
 


写楽斎にとっての三種の神器

2009年12月29日 | 東西異洋文化事情

  13日ぶりに出勤した。電車で45分の通勤時間はボクにとって大切な読書時間。この病欠中やはり家では本を読まなかった。

  久しぶりの出勤は家をでる時も,帰宅するときも病欠する以前より暗いし,天気も重い曇り空でなんだかとても憂鬱であったが、

  しかしいつもの生活リズムをとりもどしたという点では(つまり健康人としての)うれしい感じ。

  坐骨神経痛であるが、ボクの場合はほぼ一週間でだいぶ良くなってきたが、足の爪先小指側3本目あたりまで少し麻痺がず’ーっと残って,

  それは残念ながら今だにまだ軽く麻痺している。それと朝起床してから2時間ぐらい尻からふくらはぎ辺りまで少し痛む。

  2週間後に専門の医者にみてもらうのでそれまで様子を見よう。

  この病気で見てもらった太っちょの女医さんは治療としては,薬をくれただけ。あと整体師へ6回ぐらい行くようにアドバイス。

  整体の先生もたいした治療らしいものをしてくれず。結局,我妻ニコルに指示をして調べたツボに情け容赦ないお灸を毎日すえた。

  それら総合の結果なのか,痛みはかなりとれた。



  スイスで初めて腰痛になった時(いわゆるギックリ腰)医者に来てもらいながらも,体に触ってもらいたくない(あまりの痛さのため)ので

  何もせずに帰ってもらった思い出があるが、その時初めて,まだ結婚していなかったニコルにお灸をしてもらって,治った。 

  腰痛も慣れで,痛さの程度も、どんな時になるかも,いろいろわかってきたからそう怖くはないが,今回の痺れは,この先どうなるであろうか・・・後日報告。

  兎に角,自分で何か治療が "出来る” 或いは,その手助けだけでも"出来る"というだけでもどれだけ有難いことか・・。


  特にお灸の様になんとなくのんびりしている感じの治療は気分的にもいいね。

  禅の公案の"喫茶去"(キッサコ)ーまあ,お茶でも飲みなさい・・・に通じるものがありそうだ。

  それと写楽斎にとっての三種の神器の一つ、練功十八法という体操,これは毎朝欠かさずやって20年になる。

  あまりにも空気のような存在になっているので忘れていたが、健康のバロメーターとして非常に大事なもの。


座骨神経痛という名の贈り物

2009年12月15日 | 東西異洋文化事情

 西瑞のちまたでは、マッシェド・ノエルつまりクリスマスの為の市場というのがあちこちの広場で店を出す季節である。
来週のクリスマスは家族や友人が集まってプレゼントを交換する。ボクらもニコルの両親の家へ24日の夜、ニコルの叔母が主催するパーティへ25日、そしてもう一日、友人宅でのパーティがある。

 どんなささいなプレゼントでもいいので、兎に角、たくさん用意しなければならない。この人にはこれ、とよく考えて選択するものと、成り行きによっては誰にあげても喜ばれるようなモノを少しずつ買って準備しておく。買い物好きのニコルもさすがに準備が大変だと音を上げる。ボクはいつも彼女まかせなので確かに大変と同情をする・・・のみ。

 こっちの人間はやはり慣れているのか、鍛えられているのか、一見どんなにつまらないモノを貰っても、大喜びする事が出来る技を持っている。ボクなんかは、いまだに日本風の、貰い物は客が帰ってからユックリと開けて吟味するという習慣からでれずにいるので、モノをくれるその人の面前で包装紙を開けるのはとても緊張して嫌な瞬間だ。

ボクの場合すぐ正直に顔に感情が出てしまうから大いに困る。どっちにしろ、ボクは大袈裟に喜ばないタイプなのだ。

 そんなクリスマスを無意識ながらに意識した為か、ボクは思わぬプレゼントを前倒しで貰ってしまった。
そのため、各パーティには出席できないかも?


冬到来〜一時帰国者の恐れるもの

2009年12月14日 | 東西異洋文化事情

 ボクの周りに何人か、クリスマス、正月を日本で過ごそうという果報者がいる。自分などはここ何十年と日本の正月を知らない。嗚呼、いいな〜あの年末年始の雰囲気。

 ただこの果報者も日本帰国で恐れているものがあるのだ。連中はこの西瑞の生活ですっかり心身がなまってしまっている事実を改めてこの帰国時に知らされることになる。ワッハハハハ〜ッ!

 というのは、スイスの家屋は普通、全館スチーム暖房みたいなシステムになっていて、へやのなかにストーブや炬燵など全然いらないのだ!自分などは初めてスイスに来て、山小屋に連れて行ってもらった時、ストーブもないのに暖かく、瞬間湯沸かし器なども見当たらないのに、蛇口を回すとすぐお湯がでることにブッタマゲタ思い出がある。

それくらいだから、この時期に帰国する者は日本未完成暖房システム、朝起きる時など寒くて耐えられない・・・というような事に帰国前から恐れている状態である。日本には帰りたし、されど朝は寒し。

 考えてみるとここ西瑞は暮らし良すぎる嫌いがある。ボクなどは、『台風』という言葉すらわすれてしまったし、地震なんか日本を出て以来経験していない。自然による驚異が何にもないのである。(山地方には崖崩れとかあるが)

だから、昨日も散歩してきたが、昔レマン湖畔を散歩して考えた事が、”こんな所にいたら本当にボケてしまうからさっさと帰りましょう!”という事であったのに。


写楽斎は”ハーフ”

2009年12月13日 | 東西異洋文化事情

 これまでいろいろな家族構成を見てきたけれど今日じっくり知り合った5人家族はかなり珍しいく、また素敵な家族であった。奥さんはボクの所属しているスイス在住日本人芸術家協会の新メンバーで書道家。グループ展最終日の今日、彼女の家族全員が来て話がはずんだ。

 彼らはいまスイスのチューリッヒ在住2年目、ご主人はチューリッヒ大学で日本の美術史を教えてる先生、しかもデンマーク人であるが、京都生まれの京都育ちで完璧な京都弁を話す、だけではなく、(彼曰く、商売柄)かな書の万葉集なんかも読める・・・とのこと。奥さんも京都出身。5人の子供は上から17、16、15歳しばらく間があいて7と5歳。17と7歳が男の子であとは女の子。上の3人は京都生まれでアメリカ育ち、下の2人はアメリカ生まれ、それでも家の中では、京都訛りの日本語が飛び交っているという。
 5歳のマリアちゃんはとてもお茶目で可愛いく、7歳のペーターはヤンチャ坊主で紙ヒコーキを作ってやると『どないするん?』と京都弁、なんや不思議やな〜。

 ボクは以前からいわゆる『ハーフ』という立場の人々に非常に興味がある、というのは親の都合によって、というか運命によって親すら予測も出来ないような状況を子供たちは受け入れながら大人になっていく。そんな中で自分のアイデンティティというものをどのように確立するのか、どの程度日本人的要素を持ち、それを活かして行くのか。などなど興味が尽きない。

 実は、ボクも『ハーフ』なんです。父が道産子、母が江戸っ子の畳屋の子でした。
いずれにせよ、真の自己探しは、どこで、どのように生まれ育とうと各自が自分の足で、探し当てなければならない事だと思う。だからハーフの彼らの様に初めから自問しなければならない状況というのはある意味、恵まれていると言える。

様々な立場のハーフの皆さん、頑張って!


忘れると来るモノ ”酔足抄”

2009年12月07日 | 東西異洋文化事情

 それは日本のある座禅会の会員誌でここ7年ほど毎年秋が深まる頃、突然届けられる。7年も続いて届けられれば期待感とか普通もつけれど、現実はそうでなく、いつもすっかり忘れている時を狙って届けられるような気がするほど、届くといつも凄く驚き喜ぶ。
 なぜ驚くのか?と言うと、多分もともとボク自身がこの座禅会の会員ではなく、妻のニコルがメンバーであったが、彼女は日本語を書けないというようなことで長いことご無沙汰していたのが、メインメンバーの編集の人が送ってくれ、それに対してボクが礼状などを書いているうちに、その礼状をそのままこの会員誌に載せてくれたりしているうちに、いつの間にか、ボクもこの会員誌のメンバーになってしまった。という事。

 なぜ喜ぶかと言うと、様々な立場の人達約35人の人がこの一年を振り返っての感想なり、反省なりいろいろな事を思い思いの筆使いで書いてあって、ヨーロッパに住んでいる人間としてこれこそ生の日本だ〜!と感じさせるものは他にはあまりここには無いからである。

 その中でも今回はこの二人の文が印象に残った。

 一人は、去年の会員誌でやります!と宣言した安増義人さんは見事実行して、『昭和の風よ、永久に吹け』という本を書き上げ中央公論事業出版から出版しました。 まだ読んでないのですが、素晴らしい本である事は間違いないと思います。

 もう一人は、1、2年前に出産時の様子とその後の子育てを書いた女性の話ですが、陣痛時の痛みに耐えながら、この痛み方が坐禅の時の究極に足腰が痛くて息が詰まりそうになる感じと似ている・・ということに気づいてから、坐禅での経験を活かしながらお産を無事終えた・・・と言う話は男のボクにはとても新鮮であった。坐禅時の足の痛みは伊達にあるわけでは無い・・・と言う事についてはいつか書きたいと思っているが、この苦しみに耐えるという点だけでも大いなる意義があったわけだ。


琴線ー1

2009年11月30日 | 東西異洋文化事情

 フランスの歌手というか、ラップの変種でハートで歌い、語り、踊るアフリカ系フランス人青年の名はアブ・ドラ・マリック。

 彼の音楽はジャズぽく、アフリカンぽく、フランスシャンソンぽいが、一番大事なのは彼の詩で、

 ボクはその半分ほどしか意味を聞き取る事が出来なかったのにも関わらず、今夜の彼のコンサートに感動した。

 ローザンヌの隣町モルジュでのコンサート。

 彼の歌の内容は政治、宗教、人種、そういう枠を取り去った、或はそういう制限の中にもしっかり咲く一人一人の人間性・・・

 みたいなものをしっかり見つめている自分や他人の存在のようだ。



 そんな大音響の中で、ぼくは”琴線”という言葉を練っていた。

 この言葉は自分の中で、大事なキーワードなので、これからもこの日記の中で何度も出てくると思う。

 琴線というものは、震わそうとして震うものではなく、何かによって震わされるものだと思う。

 この世の中には、絶対音があってそれを聞き取る為には適度な緊張、弦の張りがあってそれが絶対音と共鳴した時、琴線は大きく震うのだと思う。

 それは世音を観るほどの緊張で、ボクはそれを観世音と解している。ボクにとってこの絶対音は観世音。

 

 質のいい仏像を観て欲しい、彼らは必ず絶対音を観、聴いている姿でいる。

 仏教でいう智慧はこの適度な緊張を保ち制御する事が出来る能力で、それはどんな人にも備わっているという教えではないだろうか。

 人との関係の中で、どんな人との関わりでもこの緊張が欠けたとき、エゴがはびこり和を失う。

 

 日本にはまだ”道”という形で、この緊張を体で学ぶシステムがある。茶道、華道、書道、剣道、素晴らしいものがまだまだ沢山ある。

 ここヨーロッパはどうか。


カンジのない世界〜2

2009年11月27日 | 東西異洋文化事情

 漢字のない世界はカンジにくい世界であるという事。

 我々は漢字が身に染み込んでしまっている人間である、という認識は、一度外国に住んでみて日本という国がホンマに島国であるのだな〜という認識と同質だ。

 外国に住む以前は誰も自分が日本という"島"に住んでいるという思いを普通持っていない。

 それと同じように誰だって西洋に行ったら横文字アルファベットの世界で漢字なんか目にしないという事は当たり前だから、

 自分は今からまったく漢字のない世界に行くのだ・・などという思いすら持たないだろう。

 しかし、自分は外国に行ってその国の事を学ぶのだ、或は日本の何事かを教えるのだという気持ちで出かけても、

 いずれ犬も歩けば棒に当たる的に、この辺のカンジに思い当たるようで、案外それに気が付かないもののようだ。

 いつまでもここに住んでいながらまったく進歩しない自分の語学を自己分析するとこういう不甲斐ない結論は、

 逆にここに生まれ住む西洋人が日本を攻略しようとしても難攻不落の鉄壁の城であるのは、やはりこのカンジなのだという、

 わけの解らないもう一つの結論を導いた。 地理的には海に守られ、文化的にもカンジで守られて島国は安泰である。

 一方、釈迦の悟りを拈華微笑、つまり華を弟子達の前に示し、その中の一人の弟子が微笑みで釈迦に答えた。

 というように不立文字、教下別伝、直指人心、の世界がある。

 それぞれの人の背景にどんな文字が横たわろうと、無心の微笑みは人の心を暖かくするのは確かで、

 そういう次元の生き方もあって、だから、ぼくでもディランがわかり、レノンに共感、ピカソに微笑み、ゴッホに風をカンジるのだろう。