uparupapapa 日記

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お山の紅白タヌキ物語 第12話 樋口季一郎との出会い

2024-02-07 07:06:39 | 日記

 40年前と同じように五右衛門(末裔)タヌキたち一行が参加の許可を得るため東京に向かう。

 

 そこは流石に首都だけあって、戦時中とはいえまだ活気がある。

 偉そうな軍人が闊歩し、街の至る所に戦時スローガンが目立つ。

 だがそこにタヌキを見る目がある者は見当たらぬ。

 40年前と同じように、人に化けたタヌキたちを一目で見破る者など何処にもおらず、皆 喧騒に紛れ忙しく行き交うのみ。

 誰も他人に注意を払わず、無関心に通り過ぎて行った。

 

 これぞ!と云う人材を一人も見つけられず、困惑する一行。

 出来れば時の首相にでも会う事ができれば申し分ないが、何のツテもなく己の正体を明かさず面会できる訳もない。

 一週間探し続け、とうとう諦める事にした。

「これだけ話の分かりそうな人材を探して見つからないのなら、何処か別の場所に行って仕切り直そう。」

「そうだな。でも何処に行く?宛てでもあるのか?」

「そんなものあるかい。でも此処に居てもらちが明かないだろ?ただの不審者として捕まってもつまらないし。」

「そうだな。でも・・・何処に行こう?」

 

同行する権蔵(末裔)タヌキが言う。

「それにしても、腹が減りました・・・。都会は郷里のお山と違って私たちの食べ物が見つかりにくいから、長居は無用ですね。木の実すら少ないし。

 何処に行っても戦争一色だし。

 そうだ!どうでしょう、昔の例にならい四国から出征した第11師団の場所に行ってみては?そこなら郷里のよしみもあり、話の分かる人に出会えるかもしれませんよ。」

「そうかもな。此処にいつまで居ても仕方ないし、ダメ元で行くだけ行ってみるか。」

 そう話がまとまり、第11師団が展開する場所に行くことに。

 でも彼らがいるのは何処なのか?一行は誰も知らない。

 それはそうだろう。一般の国民には軍の行動など、具体的な事は何も知らされていないのだから。

 

 用意した食料も乏しくなってきたし、お腹が空くと里心が出てくる。仕方なく一時四国に戻り、人材捜索の計画を立て直すことにした。

 

 四国のお山に戻ると、一行は真っ先に雪江タヌキの元へ急ぐ。

 雪江タヌキの千里眼で、11師団の居場所を突き止めて貰うために。

 

「えぇ!私に聞くのですか?軍人さんたちの居場所を?」

 驚く雪江タヌキ。

「あぁ、頼むよ。私たちではどうする事も出来なくてな。居場所さえ教えてくれたら、後は自分たちで何とかするから。」

 大層な大人たちに頼まれ萎縮する雪江タヌキであったが、頼まれたこと自体は少し嬉しい。何だか自分を一人前として認めてもらったような気がして。

 

「分かりました。私でお役に立てるなら、やってみましょう。」

 そう言って手を合わせ全神経を集中し、千里眼の術を持てる能力一杯働かせる。

 ブツブツ何か唱えているようだが実はそれ、ただのポーズ。

 三人のタヌキに固唾を飲むように凝視され、恥ずかしいのだ。

 

 

 ものの4~5分も経過しただろうか、次第に11師団の所在地の情景が見えてくる。

 ここは何処?あたりをくまなく探索してみる。

 土壁でできたみすぼらしい家々?

 中国語の看板?

 まだ夏の筈なのに通り過ぎる人々が厚手の服をまとい、寒そうに歩いている。

 そしてついに判明した。そこは満州。

 

 第11師団は満州に居た。

 

 一行は雪江タヌキに礼を言い、直ちに満州行きの旅にでる。

 数日の後、彼らは満州に辿り着いたが、さて、誰に会おう?

 第11師団は満州の(現在で云う黒竜江省)三山に駐屯していたが、彼らの任務は現地の治安維持。

 そこでも「これぞ!」と云える人材に会えず途方に暮れる。

 だが、そこである噂を耳にした。

 それは数年前この地、満州でのある事件。

 

「オトポール事件」

 

 概要を説明すると、遠くヨーロッパの地でナチスドイツによるユダヤ人への迫害があった。

 彼らユダヤ人達は、命かながら満州近くのシベリア鉄道「オトポール駅」まで逃げ伸びてきたが、そこで足止めを喰らう。

 亡命先の目的地、上海のアメリカ租界に行着くには、満州国を通らなければならない。しかし通過するには満州国外交部の入国許可が必要だった。だが外交部は同盟関係にあるナチスドイツに遠慮し、許可を出し渋る。

 

 そこに樋口季一郎なる人物が登場。

 

 1937年12月、当時彼はハルピン陸軍特務機関長(陸軍少将)であった。彼はドイツと防共協定が結ばれたばかりであったが、臆することなくナチスの反ユダヤ政策に対し「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ。」と痛烈な批判の祝辞を述べている。

(その時はまだナチスの政策は、ユダヤ人追放だけであるとの認識だった。)

 そんな経緯を経て、1938年3月、何千人ものユダヤ人がオトポール駅に押し寄せてきた。(最終的に約2万人が足止めを喰い、20人の凍死者が出ている)

 そんな悲惨な状況を黙って見ていられず、「ヒグチ・ルート」を形成、多くのユダヤ人を救った英傑である。

 この情報は軍の機密事項であったが、当地では公然の秘密であった。

 この噂を耳にした五右衛門タヌキ一行は、「この吾人である!」と直感、何としても会いに行かねば!と思った。

 そして彼(樋口季一郎)の消息を尋ね歩き、とうとう北海道札幌の北部軍司令官である事を突き止める。

 もちろん直ちに五右衛門タヌキ一行が、彼の元を訪ねたのは言うまでもない。

 

 でも、だからと云って直ぐに面会できる訳もない。

 チャンスを伺い、ここぞ!という時に人間の姿に化け、彼の前に現れてみた。

 もしこの時、樋口が何も気づかず通り過ぎれば、一行の期待は露と消える。

 一縷の望みを託す賭けだった。

 だが運は一行に味方する。樋口は人間に化けた一行に違和感を持ち、声をかけた。

 

「ん?この面妖なオーラはどうした事?君たち何者か?」

 

 この言葉が総てだった。

 五右衛門タヌキたちは元のタヌキの姿に戻り、正直に目的を告げる。

「私たちは四国のタヌキです。今までのお里の人々のご恩に報いるため、戦地への出征し、共に戦う事を望んでいます。

 でも私たちが誰の許可も得ず、勝手に参戦する訳にはいきません。ついては軍の責任者、しかも司令官であらせられる樋口様に私たちの事情をご理解いただき、是非希望を叶えて頂きたいのです。」

 更にタヌキたちは訴える。どういういきさつでお里の村人たちとの結びつきが強くなったのか?自分たちが彼らお里の村人たちのため、共に戦いたいと思うほどに。

 過去の日露戦争での実績と経験を具体的に説明した。

 

 樋口は驚愕する。

「そんな事があったのか?俄かには信じ難いが、そなたらが申す事は本当なのだろう。

 そう言えば四国のタヌキの伝承は私も聞いている。私は淡路島出身なのでな。

 幼少のみぎりのお伽話や怪談めいた話として。よく覚えているよ。

 そうか、あの話は本当なのか!それで合点がいった。

 しかし・・・。」

 樋口は深く思案した。

 いくら目の前の彼らが本当なのだとして、私に何ができる?私にどうしろと?

 私に彼らの軍隊加入の決定権はない。これは困った。一体どうすべきか?

 そして樋口は戸惑いながらも彼らに言葉を掛けた。

「話は分かった。でもこれは私が一存で決められる案件ではない。結論は少し待ってくれないか?決定権を持つ上層部に私が掛け合ってみよう。

 後日また私の元に来て欲しい。指令部には話を通しておくから。直接私に会えるようにしておくので。」

 

 翌日早速樋口は東条英機首相と小磯国昭(陸軍大臣で後の首相)らに電話で相談する。

 

 東条は当時関東軍参謀長(中将)であり、オトポール事件に関与・主導しユダヤ人を救済した樋口を擁護した人物である。

 この時ユダヤ人を庇った樋口の行為を抗議したリッペンドロップ外相の抗議文を受け対処する際、関東軍司令部に出頭した樋口と会見し「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」との申し開きの主張を全面的に支持、抗議文を一蹴した。

 当時は同盟関係にあるドイツに忖度し、樋口の行動は両国関係を損ねるものと厳罰を求める空気が圧倒的大勢にあったのにだ。

 現在東条英機と云えば、戦争を主導した戦犯のイメージとしての悪い印象があるが、実は日米の直接の戦いには反対していた。

 

 時は1941年11月5日。帝国国策遂行要領が御前会議で検討され、米英蘭との開戦が決定される。

 それはアメリカの「ハルノート」(最終通告)を受けて、日本の対応策を御前会議で検討した結果であった。

 

 その叩き台が「対米英蘭戦争指導要綱」であり、欧米との開戦はするが、あくまで標的はイギリスの輸送船。イギリス本国への兵站を遮断し、戦闘能力を枯渇させ勝利するという計画で、アメリカとの戦争はできるだけ避けると云うもの。

 その叩き台を元に「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」を立案、1941年11月御前会議で審議の上、昭和天皇の前で決定された。

 ところが同12月8日未明、山本五十六連合艦隊司令長官の個人的野心からくる独断・暴走で真珠湾攻撃を決行、日米開戦となった経緯がある。

 

 東条英機を含む陸軍は、日米開戦は何としても避けるべきとの考えを持っており、海軍(とりわけ山本五十六の暴走は看過できないでいた。)の暴挙を事前に察知し阻止できなかったことを悔やんだ。

 そして実際にこの日米開戦の結果、日本側の被害は死者310万人と未曾有の失策を招いている。

 東条英機は確かに連合国から見た戦争を主導した戦犯かもしれないが、現在の日本の教科書で教わる悪人では決してなかった。

 

 少なくとも弱い者いじめを黙殺するほどの卑怯者ではない。

 

 話が横道に逸れたので、軌道を修正する。

 

 小磯国昭も1925年当時の上官であり、部下が起こした不祥事で樋口を庇い、助けられている。

 

 その他、オトポール事件ではもうひとり樋口の協力者であり庇護者がいた。

 それは当時南満州鉄道総裁 松岡洋右である。

 彼に直談判し特別列車を仕立て、ユダヤ人を上海に脱出させるプランへの協力を取り付けた。

 

これら有力者の理解と協力の事前了解を得て、タヌキたちの出征が秘密裏に許可された。

 

「但し、今大戦は日露戦争当時と事情は違う。

 日露戦争は陸戦も海戦も範囲が限定されていたが、今度は戦線が拡大し過ぎて守備範囲が桁違いに広くなり、兵の配置人数も分散せざるを得ない。

 つまり君たちタヌキ部隊も、必然的に広く散らばるということだ。

 当然妖術などの大規模な集団戦は使えぬが、それでも良いか?」

「自ら名乗り出た身でありながら、どうして我儘を申せましょう?

我らは銘々が、必要とされた所で精一杯命を賭して頑張るのみでございます。」

 

 

 こうして戦線参加の了承を得、それぞれの戦地へ散らばるタヌキたちであった。

 それが後に各々の悲劇と地獄への道のりへと繋がる。

 

 

 

 

 

    つづく