にゃんころりんのすっとんとん

天に星 地に花 人に猫

名前が格調高く感じるのも文豪の証?

2015-09-27 11:49:31 | にゃんこ的ひとりごと



最近、太宰治の佐藤春夫に宛てた芥川賞懇願の4メートルの手紙が見つかったり、芥川賞を受賞した芸人の又吉直樹氏が太宰治のファンであったりしたことで、にわかに太宰治に脚光があたっているみたいだ。
太宰治に関しては、大昔に、2~3の小説を読んだだけで、特に造詣が深いわけではありませんが、このところ、妙な妄想が頭を離れなくて。

つまり、太宰治が太宰治という名前じゃなかったら、たとえば田中治とか、木村治だったら、ここまで名前と作品が残っていたのかな・・・なんてことを書くと太宰ファンに怒られそうですが。

クラッシックが静かに流れる昭和の香る喫茶店で、文学談義をしながら「太宰がね・・」っていう。
「太宰の『人間失格』がね・・」とか言うと、もうますますね。(何が「ますます」なんだか?)
でも「田中の『人間失格』がね・・」では、爆笑問題か?、ってツッコミ入れたくなっちゃうでしょ。
・・全国の田中さん、ごめんなさい。m(_ _)m


明治以降の日本文学の文豪と呼ばれる人って、名前も格調高く感じてしまいますよね。
太宰治が、ファンに敬愛の気持ちで「太宰」とあえて呼び捨てられるように、「漱石」「鴎外」は、もはや名前というよりは、万人に通じる記号だ。
「三島」や「川端」といえば、言わずもがなで三島由紀夫や川端康成だってわかる。

名前の一部をもってして、自分が記号化されることは、文学の中身もさることながら、文学者として数少ない選ばれし人のような気がするのだ。
だとしたら、たとえ芥川賞を取れなかったとしても、太宰治は「太宰」として、近代日本文学界の中で大成功したのではないか。
芥川賞を受賞しながら、その後いつの間にか消えてしまった人も多くいる世界なのだから。


まだ現役の作家に対しては、たとえ大江健三郎や五木寛之のような大御所であっても、「大江」「五木」と呼び捨てにすることは恐れ多い。
村上春樹はファンのことは「ハルキスト」とすでに記号化されているようだが、本人はどうなのだろう。「村上」では村上龍と間違えそうだし、「春樹」では軽すぎる。







名前が記号化されるまでになるのは、やはり時代を超え、より多くの人々の心に浸透し熟成されてこそ、その名に品格のようなものが生まれてくるのではないか。すれば、後世の人達が、敬愛の気持ちをこめてはじめて作家の名前が記号化されるのを許されるような気がするのだ。


とはいえ、又吉直樹氏は、芸人という仕事と独特の風貌と名が、あいまってすでに「又吉」で彼自身を表す記号になっている。
これは、よくわからんが、文学者としても、ある意味、とっくに成功していたということなのだろうか?
だとしたら、個性的な苗字やペンネームは、文学を志すものにはまず最初に考えねばならぬことなのかもにゃ?


でも、いくらかっこいい名前であっても肝心の中身が空疎じゃどうしようもないんだけどね。





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2 コメント

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こんばんは (チ-チャン)
2015-09-27 23:35:59
エッヘン 我が輩は猫であるのルナちゃん可愛いよ。
太宰治有名だったわね。「はしれメロス」だったかな
もう忘れちゃいました。
人間失格 読んだような読まなかったような、忘れちゃった。
本当に人間失格ですね。
にゃんちゃんも文豪家目指した時代あったのね?

学生時代は憧れたこともあったが今はすべてからっぽです。
gooブログのコメント削除できないから、書き直しがきかないよね。
返信する
チーチャンへ (にゃんころりん)
2015-09-28 11:48:04
昔の文学を読めるのは若い頃の特権化も
今更文庫本とか、もう、眼が疲れちゃったりしてね(汗)

>にゃんちゃんも文豪家目指した時代あったのね

チーチャンはあったのですね。
にゃんころりんは、全然ないです。
でも、文庫本の後ろのページにある出版された本の紹介で、読んだ本にチェック入れて、自己満足したりするのは好きでした~。

>gooブログのコメント削除できないから、書き直しがきかないよね。

それそれ。ほんと、困りますよね。
あと、表に出してほしくない内緒のコメントも書けないのも困ります。
返信する

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