そんな時、人は自分が恵まれない事の原因(犯人)を探す事で自分に納得をもたらそうとするモノなんだろう。
その時の条件は『自分以外の要素』となる。
『自分が悪いんじゃない!』と思う事で自分を慰めるという訳である。
それでも……神戸でも福島でも北陸能登でも嘆いてばかりじゃ進まない。と『自分が出来ること』から手を付ける『勇敢な人』というのは居る。
自分の出来ることと演らなきゃならない事の大きな量的乖離……それでも瓦礫をコツコツ片付ける人間の強さを目にすると何も言えなくなる。
こういう天変地異はソコに住む人達の過去の積み重ねを一瞬にして無に帰してしまう。
コレが自分だったらと?思うと……。
心構えとしてそんな『勇敢な人』に自分も斯く在りたい!とシッカリ目に刻んでおかなきゃ!と思うのである。
そんな過酷な状況じゃないけれど……長い間、賽の河原で石積みさせられている様なプロセスが僕にもあった。
僕が編み出したのは……全てを投げて逃げ出したい様な絶望的状況に立つ時、『コレが自分だ!』という呪文だった。
この条件こそが『自分そのもののテーマ』なのだから未来に向けて演りたいのなら一つ一つ『自分でこなしながら進むしかない』と自分の心に言い聞かせるしかなかった。
自分に窮地を押し付けた『犯人』として眼前にチラホラ見えたのは、ギャンブル依存症の男だった。
しかし、何度も何度もその男にカネをモノを持たせ盗める自由を与えたのは僕だった。
『犯人は僕……』だからこの状況全ては『コレが僕なのだ』という苦痛の限りから得た当たり前の答えだった。
褒められるのは……逡巡、疲弊し全身の力が抜ける状態で『この原因、犯人』に自分を指名したことだけたった。
しかし、今も、こうして職場にやって来てあらぬ誹謗中傷に晒されながらも、『自分の生きてる時間』の中のど真ん中に自分を据えて生きてる事の幸せは何物にも代え難いのである。
人多く……苦しさに負け、悲しさにイヤ気が差し
『事の犯人に自分以外の対象を求めてしまう』
でもね、その時、一回止まって落ち着いて欲しい。
自分の人生の当事者は自分でなきゃ『生きる意味そのもの』を失うのである。
生きる横着に魂を売り、『自分以外の人間評論家』を演ってる人間達の虚ろな視線……。
評論も評価も文句も自分自身に対して発しなきゃ意味はないのである。
昨今のテレビのお笑いタレントもMCもやたらと人を揶揄し中傷してお茶を濁してる。
それね?とりも直さず『自分の人生』をお茶を濁して誤魔化してるのである。
自分に起きた事件の『主犯』になれる人だけが自分の人生を生きる事が出来るのだという『当たり前』の感覚を取り返さなきゃね?
どんな事があっても……『自分の人生にイエス!という人間』で生きて行きましょう……。