その背景には『右肩上がり社会の終焉』があるという分析は日頃感じていたから納得するのに無理がなかった。
そうやって始まった90年代からはひろゆき氏の論破という現象や自傷行為の考察などが行われていた。
右肩上がりの時代に担保・保証されていたかの様な『何とかなる?』という安心感が失われ『生きている・生きて行くという実感』が極めて希薄になった。
自傷行為というのは『死を実感する』事による『生の確認行為』というのもなぁ〜るほどね?と少し理解が進んだ。
生きて行く不安がある。だからこそ『皆勝ち誇りたい』のか?と世を挙げての『非難中傷合戦』も背景として理解できた。
『負けてはいけない!』という強迫観念の背景には『安心・安全に生きて行く事の不安』がのしかかっている。
だからこそ非難中傷まで動員するという『手段を選ばない対立をベースにした社会』になってしまっている?という話は腑に落ちた。
論破は議論の対極にある。
論破する為には『相手に対して聞く耳を持つと敗北する』という徹底的な他者の意見の否定によって成り立っている。
ある学生は100人居たら100人皆それで良い?という意見を述べていた。
けれど?未来に向けて何某かの『コンセンサス(合意)を見出さなきゃ社会は成り立たない』という事を教授は述べていた。
『議論の必要』であり、その議論を支えるのは『私も間違うかも知れない?』という前提を皆が用意出来なきゃコンセンサスが取れないという提案だった。
ひろゆき氏に限らずだけど……『負けてはいけない!という強迫観念』に支配されてるSNSの論客達?は、NOを言われたら親の仇に対するかの様に口角泡を飛ばし合うのである。
討論は進むにつれて細分化されていき最後には『重箱の隅』を突いて終わる。
その結論って一体何に寄与するっていうの?
そんなの何も変える力なんてある筈もなく。
ここ迄狭小になれるのか?というくらい大の大人達が責め合うの図は結果として余計に不安ばかりを助長するだけである。
数少ない心ある大人達は『自分の間違いを認める美学』を持つこと。
そしてその外連味の無い態度を世の中に示していかなきゃね?……と思った。
『安心して間違う事が出来る社会』の構築こそが人間を追い詰めるだけ追い詰めて脅迫する『自己責任論吹き荒れる社会』を終わらせていくんじゃないか?そう思った。
賢者たらんとする者ならば?『無知の知』の意義をしっているだろう?
ソレを堂々と前面に掲げて『行動』して行きましょう。
『現実に失敗・敗北する姿』を見せて上げることが若者達の精神安定剤となるのだから……。