サンチョパンサの憂鬱

昼下がりのサンチョパンサ(2)……『普通の真っ当なこと』が『固い話』に変わった30年の流れ

真っ当な神経なら?如何にシリアスになろうとも、考えたり話したりしなきゃならない話なんだけど……?
なんで?といえば……目の前の重大で深刻な問題解決する為にである。

しかし……『ま、ま、今、そんな話しなくても……ねぇ?』なぁ~んて『ボンヤリさせて流し、その場を終われる阿吽の地点』をお互い探り合う様になる……。

んでもって……今話さなかった事は今後ずっと、話題に登ることなんてない。そんな未来に対するスタンスもまた、阿吽の呼吸で沈黙を以て了解済み……。

そんなこんなで……確かにあった筈の問題も何時しか『無かった事』になっていく。

学校現場で生徒が怪我をする?なり事故に合う?なりの事態は……かつては上を下への大騒ぎ?って事態だった。

ましてや、生徒が自殺なんて問題が起これば、徹底的に原因や責任や善後策等で学校上げて『大騒ぎする事が出来た』という。
それだけの常識と見識を組織全体が保有していたからである……。

何時しか?人事考課?なんてものが今では『学校・教育関係組織のプライオリティのトップ』になった。
校長も一般教諭も『カネで済む問題じゃない』レベル以上を見なくなった。
ソコは見てはイケないというコンセンサスが学校を支配する様になった……。

イジメ問題が公になれば……その学校の校長の評価は落ち、退職金、その後の年金にも影響する。クラスの担当の教諭も評価が下がるから?だという……。

だからね?『イジメ自殺問題』は無かった事になるのだと……『学校教育の宇宙の住人』は理路整然と説明して見せるのである。

『真っ当なこと』が『カタイこと』になる。
『見過ごすこと』が『物分かりが良いこと』になり、『惚けて当事者の親に諦めさせた人』は学校・教育宇宙の『番人となり守護者』となる。

ここんとこ、『見たいものしか見ない』、『話したいことしか話さない・許さない』……そんな『不寛容社会』について書いた。

教育現場さえ?……『そんな現実』となり、今や破廉恥教師のニュースを見ない日はない。
校長からヒラ教諭まで……見事にライナップされた出演陣である。

逆に、その昔聖域として長く保護された時代があったからこその流れかもね?とも感じる。
どんな生物も『保護されたら生命力は弱体化する』という定理が自然界にはあるからである。

辞めず、休まず、働かず……かつての公務員のキャッチフレーズ……。
シリアスな責任はない。犯罪でも犯さなきゃクビはない。

その公務員病が『人間教育を商品とする教育界』にも蔓延した結果である。
かつては……権利≧義務ではなく、『権利≦使命感』で自己管理出来る人材が多数派だった学校現場だったのだろう?……。

『学校教育界のお役所化』が完成の域に入った今、学校・教育界は『不寛容社会の先端』をヒタ走っている……。

旭川市のイジメ自殺事件発生当時の教頭は
『一人の死より生きてる生徒の未来が大事!!』という論を用いて『自分が望む状態』に頑迷に固執し死亡した少女の母親を追い返したのである。

『命の問題』に対しても『不寛容社会』は頑迷に立ちはだかり『せめてもの原因究明』さえも妨害している。
コレが『真っ当に解決されて当然の問題』じゃないのなら?……社会には常識ある大人が向き合わなきゃならない問題なんぞ何一つなくなるのではないか……?
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