小児科医の高橋孝雄氏と解剖学者の養老孟司氏の対談を東洋経済オンラインの記事で読んだ。
現代の親達が育児に自信喪失している。そこでともすればネットに縋って『育児の正しい情報?』を追い求めてしまう……と高橋氏は指摘する。
養老孟司氏……
私はよく「現代人は『ああすればこうなる』と思っていると言っていますが、社会全体に何かに不足があったら、ネットの情報を〝投与〟すればうまくいく」というようなシステム化の原理が働いていると感じています。『その原理に対して一番大きな齟齬(そご)が生じるのが子どもの問題ではないでしょうか?』高橋孝雄氏……
子供が百人いれば100人性格も違えば環境も状況も違う。『ああすればこうなる』なんてことは一切ないのにです。
養老孟司氏……
いまのお話をもう少し進めると、現代人は「成熟した人間の姿」がわからなくなっているような気がします。子育ての目標を進学や就職とリンクさせすぎるために、本来目標とするべき「成熟した人間像」が思い描けないのかもしれません。
対談の中で高橋氏は……『死を悟った子供は急速に成熟する』という事を述べていた。
そして、周りの医者や看護師、親達に対して『共感する力を得る』のだと……。
あたかも『楽出来る・簡単便利の万能薬?』かの様にネットに依存する社会……。
元来、ネットには『愛と正解なんぞはない』のである。
鮮明なコンセプトを有し、全体の中の『この部分を探したい』というスタンスでネットにアクセスする人はネットを道具として使いこなせる。
しかし『答え自体』を欲しがってネットを使えば振り回されることになる。玉石混淆の『様々の情報に翻弄される』からである。
人間は弱い(そして中途半端に強くもある)から『何か?確りしたモノ』に依存したくなる。
アレコレ悩まず『これさえ演っとけば……』という答に決め打ちして、それ以上悩みたくない!!……という心理である。
ネットに対して『何か?どこか?確りしたモノ』ってな雰囲気を感じてしまうのである。
両氏の対談を読みながら……ネット、SNSに対する日頃の違和感の根幹に気付いた気がした。
ネット空間には……『人格の有無・態様』という要素が存在しないのである。
例えばガーシーが何かを叫ぶ。
それによって城田某という俳優?はテレビから姿を消した。
いきなり『城田某の奴って〇〇なんだってよぉ!』っていう『情報?』があっという間に喧伝される。
ガーシーとは?『どんな人格の?』人間であり、何を動機に『発信しているのか?』という視点が無い。
『その発信の成否』は集まる数と騒ぎの大きさによってのみ扱いが変わるのである。
城田某さんという人がどんな人か?知らない内に、その騒ぎの大きさによって『城田某というイメージ』が強く脳内にインプットされてしまうのである。
気が付けば……『その情報?の真偽のほど』を自分は一切確かめてもいないのである。
その人のカネ、資産の『保有数』がその人の信用保証となるネット社会。
どんな精神を以て、どんな方法論でカネを得たのか?というプロセスなんて一切関係ない。
そこで交換される情報に、『人格の成熟度とか品質』なんてものは『何の意味もない』のである。
対談の中でもあったけれど……『イイ会社』って多くの年収が得られる。
『イイ大学』って偏差値高く、『イイ会社』に入りやすい。
『イイ学校』ってそのイイ大学に入りやすい『イイ中学・高校』ってことなのである。
究極の人生の目的が『沢山のカネ』を安定的にゲット出来る会社に入ること!をよしとして子供達は育て上げられる。
知らず識らず……世の中が『数で評価する(カネとか偏差値)だけの有利不利の価値観』を最大限の分母として発想されている社会になっちゃったのかもね?
それが最大限の分母なのだから?人格とか?意味とか?成熟度とか?……『発想に組み込まれる余地』って生活の中のどこにもないのである。
ググってウィキって生きて来て……いよいよチャットGptに答えまで貰っちゃおうか?なぁ~んて人が……好むと好まざるとにかかわらず多数を占めていく時代……。
辛うじて残された性欲で、本能的にツガイになって結婚なんかしちゃったりなんかしたりして……。
でも……なぁ~んとなく別れちゃった?
何で?なんて聞かないでよぉ!
私も何で?上手くいかなかったのか?皆目見当がつかないんだから……?
お互い?飽きちゃったのかも……?
そんな自分で自分を把握してない人達が多数を占める時代の流れは止めようもないかもね?
彼等はきっと言うだろう?
少しは自分で考えろってか?……?
仕方ないでしょ!情緒の組み立て方なんて……そんなの『誰も教えてくれなかった』んだから……と。