何時だったか書いたけど……強迫観念に近い『イイ人でなきゃシンドローム』が生き辛さ、生き苦しさの元凶となっているんだけどその大元には意見の相違を極端に恐れるこの農耕民族の文化が影を落としていると思う。
三十代後半まで僕は過激な暴れ者として人の印象は強かったが……実は、軸になる手法の違いにおいてさえ、異見に対して僕は妥協を模索するという無駄な努力に明け暮れたものだった。
軸を成す手法に於いての妥協は致命傷となる事を僕は知らなかった。
例えば妥協して自分の主張の内、70%は残し30%を譲るなんて事は不可能だった。
少しの妥協であれいきなりゼロを導いたのだった。
詰まり基本線はオールオアナッシングの世界だった。少しの妥協が、自分のアイデアを台無しにしたしそんな取組の為にマイナスを生じた事さえあったのだった。
全ての構成員の要望を足して平均を出すやり方は、単純な持続的作業ならまだしも、改革とか改善を狙う時には『その小市民的な平和な段取り』では全く機能しなかったのである。
何が言いたいのか?
『軸を成す方法』……で一番重要なのは『生き方』なんじゃね?って言いたかった。
『ムラ社会的人生』を支えていた各種『制度』の悉くが瓦解に向かってる現実……。
社会保険制度、年金制度、終身雇用制度、結婚制度etc.……。
それに対して金科玉条の如く唱えられる様になったのは『自己責任!』って狩猟民族の自助自立の第一条のワードなのである。
『皆で、仲良く』取り組んで打開する事を世の中は既に見限っている……。
それに変わる次の方法は相互扶助社会の要素をかなり拡大しなきゃならない。
しかし、これはナアナア仲良しの人間関係とは全く違う、精神的自立を果たした人間同士の間にしか成立はしない。
詰まり僕たちは既にもう自己責任付きで『自由にされた』のである。
『自由を使いこなせる者』しか人生を楽しく生き抜けなくなったんですよ!……とそう言いたかったのである。