障がいを持つ人がわたしに教えてくれること、エピソード、
沢山あります。
自分が何か物足りないと思う時、行き詰まっている時、慢心している時、
神様は、障がいある人に出会わせてくれるのです。
何年か前、中学生の長男のことで、夫婦ともにため息ついた時がありました。
小さなこまごまとしたことですが、生活習慣が荒く、とても自分勝手に思えたからです。
廣幡八幡宮にお参りに行ったら、入口のところで、お父さんと男の子が立っていました。
男の子は長男と同じくらいの年齢。歩くのがやっとです。
お父さんがゆっくり男の子に歩調を合わせ、お宮に向かいます。
そして、神様の前に立った時、お父さんは、息子さんに、お参りの作法を教えておられました。
男の子も、言われたとおりに、お参りされてました。
その様子を見て、夫婦ともに、気持は同じでした。
神様が見せてくれた。
何を?
愛を。
あのお父さんは、息子さんが生きていることが大切。
生きているうちに、大切なことを一つ一つ教えていく。
わたしたちは息子に対し、何をつついていた?
産まれてきた時、無条件で喜んだ気持ちを、思い出すんだ。
昨日は、スーパーへ向かう長い一本道。車道の向こうとこちら、並行して
向こうの左の道に、足が不自由な男の子が歩いています。
身体全てを動かし、重たい荷物を背負い、ユッサユッサと歩いて行きます。
辛そうにも見えるその背後に、親御さんの見護る思いが見えます。
わたしに出来ることはなんだろう。
少し後ろを歩いて、あの子をエネルギーサポートしよう。
心の中で合掌しながら、頑張れ頑張れ・・と祈りながら歩いていきました。
その子はわたしに、何をくれたでしょうか。
他者を思いやる、利他の心を、わたしから引き出してくれました。
生きて、懸命に生きる姿が、人の心を打つ。
そんなの、わたしには出来ない。
そしていつも思うのです。
その子の背後にある、親の愛と、想像を絶するご苦労を。
わたしに出来るだろうか。
背負えるだろうか。
ただただ、頭が下がる思い。
そして、今自分が抱えている悩みがシュンとしぼんでしまいます。
わたしにとって、障がいある人は、気付きをくれる、学びの師ともいえます。
わたしが100偉そうなことを言っても、あの子が賢明に歩く姿にかき消される。
頑張ってなんておこがましいけれど、
黙って合掌したくなるような尊い命が、
いつもそこにあるのです。