1981年生まれ、タカハシヨーコ

半生を振り返りました。名前は全て仮名です。
男尊女卑、毒親、毒母、シックマザー、不登校

父が亡くなった、あの日

2023-09-24 11:41:00 | 日記

 

小学校から帰ると、

母方の祖母がなぜか家にいた。

 

祖母は私の顔を見るなり悲壮感のある声で叫んだ

「お父さん、死んじゃったんだよ!」

 

その瞬間、世界が止まってしまったのを覚えている。

え?

一粒の涙も出なかった。

 

(どうして、もっと早く教えてくれなかったの?

こんなことなら学校を早退したかった。

なぜおばあちゃんからこんなことを聞かなければいけなかったの?

お母さんから教えて欲しかった。)

何故かそんなどうでも良いことばかりを考えていた。

 

ポストに届いていた進研ゼミの封筒を開けていたら、

こんな時に何遊んでるんだ!と怒られた。

そんな瑣末なことばかりがなぜか思い出される。

 

しばらくすると、父の遺体が母屋に運びこまれていた。

 

顔に被せられている白い布を取るのが怖くて仕方なかったが、

側にいた大人に促されて布を取った。

まだ若くて血色の良かった顔は、作り物の様に白く、

入院生活が長かったためか、髪の毛も伸びていた。

私が生まれて初めて見た、人の遺体だった。

人間だとは思えず、ましてや父だとは思えなかった。

 

これは誰か他の人なのではないか?

当時TVでやっていたドッキリカメラが家に来て、私を騙しているのではないか?

そんなことを本気で考えていたのだから

7歳の私は本当に幼かったのだと思う。

 

母は泣き疲れて呆然として、

何もできずだらしなく壁に寄りかかっていた。

顔は涙でぐしゃぐしゃになり、目の焦点が定まっていない。

子供の私から見ても、母が明らかにおかしな状態だということがわかった。


父の死

2023-09-24 10:06:56 | 日記

私が小学2年生のころ、父が突然倒れた。

くも膜下出血だった。

 

倒れて運ばれた先の病院で、

脳の血管に直接カテーテルの様な物を入れる検査をしたそうだ。

何故そんな検査方法だったのか。80年代当時、MRIなどはまだギリギリ一般的ではなかったのだろう。

 

その検査の直後、

脳内出血を起こし、父は植物状態となってしまった。

 

母は連日、病院へ泊まり込みで父のそばにいた。

手足をさすっても、

緩やかな波の様にしか動かない父の脳波を見て絶望したという。

 

幼い私たちきょうだいは、親戚の伯父の家に預けられた。

伯父は、弟にはたまに話しかけることはあっても、

私には何故か一言も話しかけることはなく、私の存在を無視しているようだった。

従兄弟たちは男子で、伯父は女の子にどう接して良いのかわからなかったのかも知れないが、

伯父の前では私は自分がとことん無価値な存在であると思わされた。

義伯母は、明るく話しかけてくれる人だったがどこか意地悪なところがあった。

血の繋がりのない小さな子供を2人も家で預かることになったのだから、

ストレスも溜まったことだろうと今なら思う。

義伯母は私がいない時に、私の鞄の中身をチェックしたり、

ちょっとしたことで意地悪に私を責めたりした。

ある朝、伯母は従兄弟たちの前で洗濯物の私のパンツを取り出し

手に持って高く掲げてひらひらとさせ、

「このパンツだーれのだ?」

と私をからかった。

私は恥ずかしかったが、無反応に固まってしまった。

きっとおばさんは、「やめてー」と派手に反応する私を期待していたのだろうと思うといたたまれない気持ちになった。

そして入院から数ヶ月後、

36歳で父は帰らぬ人となった。


母と父の出会い 〜三高とクリスマスケーキ〜

2023-02-22 05:43:39 | 日記

 

母は短大卒業後、地元の大学の事務員として働いていた。

その大学に業者として時折出入りしていた父は、母に一目惚れをしたそうだ。

 

母といえば、父の存在を知ってはいたものの全く興味がなかった。

まず第一に見た目がタイプではないし、

父は会話をして楽しいような人間ではなく、田舎の朴訥な男だった。

 

そんな好きでもない男から交際を申し込まれた母だったが、

それをすんなり受け入れた。

20代半ばに差し掛かっていた母はちょうど失恋したばかりだった。

そして、女は25歳までに結婚しなければならないという社会認識が母を焦らせていたのだ。

 

異性としてはあまり魅力を感じない父であったが

・父が4年制大学卒であったこと

・父が高収入とはいかないまでも収入は安定しており、実家も比較的裕福な家であること

・顔はハンサムとは言い難いが、身長はそれなりにあったこと

・次男であること

という条件が気に入って付き合うこととした。

 

かつて三高 (「高学歴」「高収入」「高身長」)の男性と結婚することが女の幸せとされていた時代だった。

父は何とかその条件に当てはまっていると母は打算的に思ったという。

 

そして、

農家の長男に嫁いで大変苦労した祖母が母にしきりに言っていたのは、

嫁姑問題で苦労する長男とは絶対に結婚するなということだった。

また、結婚前にその男が暴力を振るう人間か見極めなさいと。

つまりは、祖父は妻を打擲する農家の長男だった。

母はその祖母の言葉も忠実に守った。

 

双方の両親や周りから祝福され、母と父は結婚に至った。

‥幸せになれるはずだった。


子供を失うということ

2023-01-07 02:35:00 | 日記

自分が大人になり、わかったこと。

私の母は、子供に話してよいこと・話すべきでないことへの線引きが全くできていなかった。


父方の祖母がまだ元気だった頃ーー

母屋の天窓からの陽に当たりながら、祖母とよくおしゃべりした。

自分の息子の容姿によく似た私を

祖母は特別可愛がってくれた。


祖母が私の話が上手だと褒めるものだから、私は調子に乗って饒舌に話した。

ある時、

私は、母から聞いていた話を悪気なく祖母にしてしまった。


おばあちゃん、

むかし、おばあちゃんのお腹の赤ちゃんが生まれる前に死んじゃったって本当?」


母から聞かされていた話だった。

祖母は昔、妊娠中に祖父の自転車の後ろに乗って転んでしまい流産してしまったとがあるのだと。

母は4、5歳の私にその話をしていた。


私は母から聞いたその話を

何も考えずに祖母にしてしまったのだ。  

祖母の顔色は一瞬にして歪み、

その目から大粒の涙がポロポロと溢れだした。

泣いた祖母を見たのは初めてで、私は息をのんで驚き、

自分が大人を泣かせてしまったことに戸惑い混乱した。


前掛けで涙を拭いながら、祖母は事故の詳細を話してくれた。

35年ほど前の出来事を昨日のことのように泣きながら話す祖母は、

自分で自分を責め続けているようだった。


家に戻ると、私は母に泣いた祖母のことを話した。

すると、母は私を怒鳴りつけた。

「なんでそんな話をおばあちゃんにしたの!」

「私が話したって言ったの?

もーっ!余計なこと言いやがって!」


自分のせいで祖母を泣かせてしまったこと、さらに母まで怒らせたこと、

「罪悪感」という言葉をまだ知らなかった私のなかに、

その感情がどす黒く渦巻いていた。


笑顔の祖母を沢山見てきたはずなのに、

笑顔よりもあの日の涙を流した祖母の顔だけが

40年近く経った今も鮮明に思い出される。



小学校、初めての友達

2022-05-13 04:50:00 | 日記

 

小学校へ入学してすぐに友人ができた。

入学式の日、初めての教室で出席番号順に座った後ろの席の女の子だった。

 

クラスで彼女だけ年季の入ったランドセルを背負っていた。親戚のお姉さんの使わなくなったランドセルを貰い受けたそうだ。

そして、笑うと見える前歯はほとんど溶けていた。

平成初期の時代、みそっぱと呼ばれたそんな子供が少なからずいたのだ。

 

彼女は小学校低学年で少女マンガを読んだり、芸能人に詳しかったり大人びて見えた。

私の知らない言葉や世界も沢山知っていた。

一緒にいて刺激的で楽しかった。

 

彼女の家に遊びに行くと、

壁にトタンが貼り付けてあるとても古い小さな家だった。

汲み取り式のトイレで、当時でも珍しかった。

 

離婚してシングルマザーのお母さんは外に働きに出ており、

おばあちゃんが子供たちの面倒を見ていた。

 

家にはおばあちゃんの友人達、近所の爺さん婆さん連中が遊びに来ていることが多く、畳の上で賭け花札をやったりしていた。

 

大人になってから思い返してみると、彼女の家庭環境がどんなものであったか考えてしまう。

少なくとも裕福ではなかっただろう。

けれど土曜日の半日の学校帰りには、彼女のおばあちゃんにお昼をご馳走になったり、

休日には、彼女のお母さんに車で色々な所へ遊びに連れて行ってもらった。

大人になり、それがどんなにありがたいことだったのかがわかる。