1981年生まれ、タカハシヨーコ

半生を振り返りました。名前は全て仮名です。
男尊女卑、毒親、毒母、シックマザー、不登校

法は家庭に入らず 祖父のDV

2024-07-23 00:52:00 | 日記

私が小学生の頃、

法事が何か用事があったのか、珍しく母方の祖父母が我が家に泊まりにきたことがあった。

その時、母の家事を手伝っていた祖母が誤ってお風呂を空焚きしてしまった。

少し焦げた様な臭いがしただけで、風呂釜が壊れたりすることはなかったが、

祖父は祖母を責めたて、

私の目の前で祖母の頬を思い切り平手打ちした。


大人の男が女に手を挙げる瞬間を

初めて目の当たりにした私は衝撃を受けた。


私は祖父に手を上げられたどころか、怒られたことすらなく、

孫の私には優しい祖父だった。

その祖父が、何の落ち度もない祖母を突然殴ったのだ。

リウマチで杖をついて歩いている、弱々しく痩せ細った祖母を。


一方で、祖母は孫の私にもちょっとしたことで容赦なく怒ったり

大人になった母に対しても支配的に振る舞い、

私にとっては怖い存在だった。


私や母には気の強い祖母なのに、

祖父に理不尽に殴られても、祖父には何も言い返さなかった。

殴られた頬に手を当てながら、大人しく固まったままだった。

その祖母の姿は、自尊心を奪われ感情を失った弱々しい生き物の様に見えた。


当時の私には理解できなかったが、暴力は連鎖するのだ。

祖父は第二次世界大戦中、20代で近衛兵として徴兵されたが、

毎日上官に殴られまくっていたという。

終戦後、祖母と見合い結婚した。


妻を殴ることになんの疑問をもたないま、祖父は亡くなっていった。

祖父の葬儀では、天皇陛下から賜ったという品々が誇らしげに飾られていた。


祖父にはそれなりに可愛がってもらったはずなのに、

私には価値のわからないそれらを見て、

悲しみよりも虚しさを感じていた。








断ち切られた連鎖

2024-07-22 11:06:00 | 日記
母は、私や弟に対して決して手を挙げたことはなかった。

もしかしたら一度か二度くらいは叩かれたことがあったかもしれないが記憶にはない。

唯一思い出されるのは、小学生の頃

母の逆鱗に触れるようなことをして母を怒らせた時のことだ。

私は、怒り狂った母に家の中で追いかけられ、

追い詰められて学習机の下に潜り込んだ。

そのまま母は私を足蹴にしようと思いきり足をあげたが、

本当に蹴られることはなかった。


子供の頃の母は、祖母から折檻を受けていた。

今で言えば、児童相談所に通報される様な虐待や暴力が当たり前にあった。

母が幼いころ時計を読めなかったというだけで

祖母は罰として、

母を家の柱に紐で動けない様に縛り付け

箒の柄で何度も殴ったという。


1950年代、

親が躾として子供を殴ることはありふれており、祖母は特に厳しい母親だった。

(そして、その祖母はというと祖父から日常的に暴力を受けていた)


そんな中で育った母は、

自分の子供には手をあげないと決めていたという。


母はよく癇癪やヒステリーを起こし

泣いたり怒鳴りまくったりしていたが、

今思えば、それは幼少期のトラウマがそうさせていたのかも知れない。


私は、自分の受けた心の傷についてはずっと母を責め、

母に反省して欲しい、私の痛みを思い知らせてやりたいとさえ思っていた。

けれど、

どうして母が受けた傷について知っていながら、母の痛みには寄り添えなかったのだろう。


子供の頃、母から祖母からの虐待の話を聞かされた時、

祖母に対する不審感と嫌悪感が募っただけで、母の痛みそれ自体については、無頓着だった

小さな身体を震わせて泣いていた母の姿を想像はしても、

心の底から憐れんではいなかったと思う。


私は大人になり、

中年と呼ばれるような年齢になった。


子供を持ちたいと一度も願わなかった私だが、

無邪気に遊ぶ幼い姪っ子の姿を見たとき

初めて、

その姿に幼少期の母の姿を重ね

切りつけられるような心の痛みと罪悪感を感じた。



悲しい別れ

2024-07-18 22:35:00 | 日記

家の敷地内で野良猫が仔猫を産んだ。

白い仔猫を拾って、チャロと名付けて飼うことになった。

赤ちゃんの頃はスポイトでミルクをあげて育てた。

チャロに会いたくて、学校にいても一刻も早く家に帰りたかった。

仔猫から人の手で育てられたチャロは、

甘えん坊で人懐っこい猫に育った。

白猫だが、しっぽだけうっすらと茶色の縞模様が入っており、しっぽの先は少し曲がっている。

青い目と、すこしごわごわとした毛並み。

寝る時も一緒で、チャロは時々母猫を思い出しているらしく、人の人差し指を吸いながら前足をふみふみした。


大きくなったチャロは、家と庭を自由に行き来して

毎朝、私と弟の登校班の集合場所近くまでついてきてくれた。

どれだけチャロの存在に癒され励まされただろう。

チャロは紛れもなく、家族の一員だった。


ある日のこと

隣家に住む女性の叫び声が聞こえた。

「犬が車に轢かれてる!!」

弟が走って家の前の道路まで見に行った。

車に撥ねられて、もがき苦しんでいるのは犬ではなく、チャロだった。

頭を強く打ったのか、眼球は飛び出しそうになり血まみれで苦しんでいた。


チャロと知って、私は道路まで見に行くことができずその場で腰が抜けた様に座り込み泣き叫んだ。


母が水色のシーツを持っていき、チャロを包んだ。

チャロは足をバタバタさせて、しばらくもがき苦しんだあと死んでしまったようだった。


ぐるぐる巻きに巻いたシーツには、大きな血の跡が滲んできていた。

チャロを抱いた母は、死んだ人間の赤ちゃんを抱っこしている様に見えた。


あんなに声をあげて泣いたのは

人生であとにも先にもあの時だけだったかもしれない。


騒ぎを聞きつけたのか、

祖父も出てきて、泣いている私を見るなり怒鳴った。


「泣くな!

父親が死んだ時は泣かなかったくせに、

猫ごときが死んでなんだ!」


珍しく母が、私を抱きしめてくれた。


祖父が、家から離れた庭にスコップで大きく深い穴を堀り、早々にチャロは埋葬された。


夢の中にチャロが出てきて、

弟と一緒に抱きよせて夢の中で喜んだ。

夢をみながら、これは夢なんだと気付いたのは初めてだった。


小学校でのいじめ

2024-07-18 18:25:00 | 日記

父が亡くなってから、もともと内気だった私は更に大人しくなっていた。


その頃の私は、夢遊病で夜中に突然起きて歩き出すことがあったり、

家にいても突然恐怖の感情に襲われ、居た堪れなくなる症状が出ていた。

今でこそそれが、パニック障害の発作だったとわかるが、

当時は何がなんだかわからないまま恐怖に震えた。

弟は円形脱毛症になった。


小学三年生になった私は

学校でも時折、現実感がなくなりボーッとしていた。

忘れ物は多く、先生にしょっちゅう注意される。


引っ越してきたばかりで、クラスに必死に馴染もうとしている男子がいた。

彼は勉強ができて難しい言葉を良く知っていた。


席が近かった彼は、皆に聞こえる様に私をからかって大声をあげた。

「こいつ、全然喋んないで

植物人間みてぇー!」

「植物人間!」


まわりのクラスメイトも笑った。

私は、「植物人間」という言葉をこの中の誰よりもよく知っていた。

父が植物状態になってから亡くなったからだ。

彼の言葉に心が凍りつきながら、

誤魔化すように私も苦し紛れの笑顔を作った。


同じ班の意地悪な女子も、私だけを無視する様になった。

私の前で目を合わさずに、

「大っ嫌い」と呟いた。


私の様に陰気な空気を纏っている人間は

それだけで周りの人をなんとなく居心地の悪い気持ちにさせたり、

サディスト気質の人間にとっては格好の餌食となるのだ。


ある日、

女子トイレの和式の個室に入り、流そうと立ち上がった瞬間、

隣の個室からどっと複数人の笑い声が聞こえた。

女子数人が、私が個室に入っているのを隣の個室の上から覗いていたのだった。

消えてしまいたいほど恥ずかしく、屈辱的だった。

覗いていたと思われる女子に、すれ違いざまに揶揄われる様なことを言われ、胸を抉られるようだった。


殴られたわけではない、

直接的に嫌がらせをされたり

何か物を隠された訳でもない。


しかし、彼らの何気ない言葉や振る舞いは

私を地獄の底に突き落とすに充分だった。


娘は小さなカウンセラー

2024-07-18 05:08:10 | 日記

父が亡くなってから母親は友人との付き合いも辞めてしまった。

他県に住んでいる友人から久々に電話がかかってきても、夫が亡くなったとは伝えられなかった。

長年文通をしている友人にも、手紙を書けなくなりそのまま縁を切った。

 

「自分が惨めだと思われたくないから」

父が亡くなってから泣き暮らしていた母はそう言って人を遠ざけた。

「惨め」その言葉を母はよく使った。

 「みじめ、みじめ、みじめぇ〜、惨めになっちゃった」とよく歌まで歌っていた。

 

孤独な母は、自分の気持ちを娘である私に吐くしかなかった。

義父母や親戚への不信感や愚痴、

昔からの友人の悪口、

将来や老後の不安、お金の不安、

過去の辛かったことや屈辱的な体験、等々。

私は母の嘆きを聞いて、慰めたり励ましたりして深夜まで話に付き合うこともあった。

時計の針が夜中の2時をすぎるまで母の話を聞いた時、

私は自分が大人になった様な誇らしい高揚感で満たされた。

 

母はそんな私を褒めてくれた。

「ヨーコちゃんは、頭がいいから

大人の話でもちゃんとわかるんだよね」

「ヨーコちゃんはパパに似てる、

死んだパパが乗り移って話してくれてるみたい。」

そう言われて素直に嬉しかった。

(お母さんが喜んでくれると私も嬉しい、

お母さんの役に立てて嬉しい、

可哀想なお母さんのためならなんでもしてあげたい。

お母さんに、

元気に幸せになって欲しい…)

 

当時、精神状態に波のある母がいつか自殺してしまうのではないか、

もしくは病気で死んでしまうのではないかと私はいつも不安だった。

時折見せる母の、母親らしい優しさに、

鼻がツーンと苦しくなって涙が溢れそうになるのを

私は明るく笑って誤魔化した。