1981年生まれ、タカハシヨーコ

半生を振り返りました。名前は全て仮名です。
男尊女卑、毒親、毒母、シックマザー、不登校

父親とのお風呂

2022-01-11 15:13:00 | 日記

人生で初めて覚えた言葉は、「ママ」ではなく「パパ」だった。

そして、私は母乳を拒んで全く飲まなかったそうだ。

そんな私に対して、母はよく

「ヨーコちゃんは、昔からパパっ子だったんだからね」

と言った。

 

弟が退院してからも、弟につきっきりになっている母に対して、

私は寂しさを募らせて尋ねた。

「ねぇ、ママは私と弟くん、どっちが大事?」

母は悩むことなく答えた。

「弟くんだよ。

女親は息子が可愛いし、男親は娘がかわいいものなの!」

 

✳︎

 

パパっ子の私だったが、

小学生になってすぐ、父とお風呂に入ることが嫌になっていた。

幼稚園で男子にトイレを覗かれてから、

自分の身体に向けられる異性の視線が怖かった。

大好きな父であってもそれは変わらなかった。

「パパは娘と入りたいんだから、パパと入りなさい」

と母に強制されるのも嫌だった。

父が弟よりも、私とばかり入ろうとするのも不思議だった。

 

パパとはもうお風呂に入りたくない、と訴える私に母は言った。

 

「ねぇ、どうしてパパとお風呂に入りたくないの?

パパは『いずれ娘とはお風呂に入れなくなるから入りたい、

6歳で嫌がられるのは早すぎる』って、悲しんでたよ?」

「〇〇ちゃんは、中学生になってもお父さんとお風呂に入ってるって言ってたよ?

「お願いだからパパと一緒に入ってあげて」

 

母の言い分に、言葉にできない気持ちの悪さを感じていた。

 

(パパの事は大好きなのに、私がおかしいのかな?

パパと一緒にお風呂に入りたくない、こんな私は悪い子なのかな?)

 

父が大好きなわたしと、

父とお風呂に入りたくないわたし。

その間で気持ちが引き裂かれた。

 

 

 

 


女である自分が嫌だ 子供の性加害

2022-01-11 12:45:00 | 日記

 

私の通っていた幼稚園では、

トイレのドアが大人の腰くらいの高さしか無く、子供でも簡単に覗ける高さだった。

 

男女区別されていたかどうかは記憶にないが、

区別されていたとしても、男児が女子用のトイレに入ってくることは珍しいことではなかった。

 

そして和式トイレばかりだったので、

トイレに入る時は誰かに覗かれないか、後ろを振り返りながらいつもヒヤヒヤしていたのを憶えている。

 

そしてやはりそれは起こった。

 

ある日、トイレに入って用を足している真っ最中に、

ドアに手をかけて背伸びした男の子に覗かれたのだ。

 

振り返った私をみて、ニヤッと笑ったその男の子の顔は今だに忘れられない。

 

生まれて初めて味わった、

恥ずかしく屈辱的な瞬間だった。

 

消えてしまいたいーーー

言いようのない悔しさが胸に込み上げて、

顔が熱くなり苦しくなった。

 

女というだけで、隠したい部分を男に無理矢理見られる対象なのだ、

「女なんて嫌だ」

初めてそう思った瞬間でもあった。


1950年代生まれ、母の時代

2022-01-07 19:56:00 | 日記

戦争に駆り出されてまともに高等教育を受けられなかった祖父は、

女は高校まで出せば十分だと考えていた。

一方、

女に教育はいらないという時代に女学校を出た祖母は、

娘であってもせめて短大へ行かせてやってくれと譲らなかったそうだ。


こんな祖母の後押しがあって、

勉強が苦手な母だったが、高校を卒業後都内の短大に進学した。

そして、短大卒業後は地元の私立大学に就職した。


就職といっても、

女は結婚が決まったら仕事をやめる、といういわゆる寿退職が当たり前の時代だった。


母から伝え聞いた話で一番恐ろしかったのは、

大学事務の職場でのセクハラが当たり前だったことだ。


「〇〇ちゃん、おはよう」

と言いながら、毎日の様に女性職員の臀部を触る男性上司がいた。

上司から女子職員へのボディタッチは日常茶飯事だったという。


それに対して、

「もう、部長ったら〜」

と笑いながらいなすのが女性職員のあるべき姿だった。

言葉のセクハラなどは、微塵も問題視されなかった。


ある時、

母は職場でふいに後ろに立った上司から、むんずと胸を鷲掴みにされた。

お尻を軽く触られる程度なら大人しく我慢していた母だったが、

その瞬間、顔を真っ赤にして、思わずその上司の頬を平手打ちにしたという。


すると上司は「減るもんじゃあるまいに」と捨て台詞を吐いてばつが悪そうにその場を去った。


その後、その上司は母を目の敵にし、無視するようになったという。

相変わらず、他の女性職員にはわいせつ行為を繰り返しながら。


体を触るといった明らかなわいせつ行為に対しても、

当時は「スケベおやじ」と形容するのが関の山だったという。


1970年代後半、「セクハラ」という言葉自体がまだ存在していなかった。




嫁と姑

2022-01-07 09:10:00 | 日記

母が私を身籠った時に「女腹」と嫌味を言った祖母だったが、

私はその祖母にたいそう可愛がられた。


祖母には娘がおらず、また孫も女の子は私だけだった。

私は、見かけはお世辞にも可愛いとは言えない子供だったが、

初めての女の子だ、かわいい

とかしづかれた。


祖母とはよく縁側で日向ぼっこをして、

ひだまりの中で色々な話をして過ごしたのを思い出す。


私にとっては、温かく優しい印象しかない祖母だが、

母にとっては、恐ろしく忌まわしい存在だった。


幼い頃より母から

ありとあらゆる祖母の母に対する仕打ちを聞かされていた。


ことあるごとに母に嫌味を言う

嫌がらせのようなことをされる

近所の人に「うちの嫁はだらしない」「どうしようもない嫁」と母のことを吹聴する

兄嫁と比較して母を見下す 

等々


家族にヒエラルキーがあるならば、嫁である母は常に最下層だった。

祖父母には何を言われても逆らえず、

いつもおどおどして、肩をすくめて小さくなっている母の姿がそこにはあった。


同じ市内にある実家に帰るのも、

買い物以外で外出をするのも、

祖父母にお伺いを立てなければならなかった。


昭和の時代。

結婚し「嫁」となった母に、人としての尊厳や自由はあったのだろうかと思う。



やけどの原因

2022-01-06 13:19:00 | 日記

弟がやけどをしたことで、母は病院に泊まり込むことが増え、

家に残された私は、祖母にあれこれと尋ねられた。


「どうしてあんなことになったの?

弟くんはなんでやけどしちゃったの?」


幼い私は正直に答えた。


「ママがカップラーメンを作ろうとしてお湯をわかして、

それでママがやかんを持ったとき、まちがえて弟くんにこぼしちゃったの」


母は料理をするのが嫌いで、カップラーメンを私達きょうだいによく食べさせていた。


家の跡取りである孫に大怪我をさせ、

その原因がカップラーメンと聞いて、祖母は激怒したのだろう。


後日、祖母から何かを言われた母は、

祖母に話をした私に対して怒り狂った。


「おばあちゃんに余計なことをいいやがって!」

「弟くんのことでお母さんはこんなに苦しんでいるのに、

なんでお前はお母さんをもっと苦しめる様なことをするの?」

「弟くんがカップラーメン食べたいって言うから作ろうとしただけなのに!」


母のヒステリーが一度始まるとなかなか止まらない。

母は泣きながら大きな声で私を怒鳴り続けた。


幼稚園児だった私には、自分が怒られている意味がわからなかった。

ただ、余計なことをしてしまった自分を責めながら、

嵐が過ぎ去るのを待っていた。