父は見栄っ張りな性質だったため、若者が乗るような乗用車を買い、そのトランクに商品を積み、自宅から30kmも離れた街まで行商に出かけた。
個人の寿司屋やお茶屋へと飛び込み、商売をしていたのだ。父は多弁だったが、内弁慶で対人恐怖症。しかし、まるで知らない場所になると、自分を取り繕い別人になりすます事が出来たようだ。
その商売は、どう頑張っても利益は上がらなかった。夜になるとそろばんを弾き、帳簿をつけながらイライラして、商売道具のお茶をすすっていた姿を思い出す。
お金がないという事は、夫婦だけでなく、家族全体を暗くさせた。学校で必要なものを購入するため、母が父にお金をねだると父はどうでも良い事を引き合いに出し悪態をついた。
そんな時、4人きょうだいの末っ子だった自分はいつも身を縮めていた。特に高校の授業料入金やバス定期券を購入する時、父は舌打ちをしながら私を不出来な娘だとなじり続けた。
私はまるで自分が家のトラブルを全て起こしたかのような罪悪感に苛まれた。今思えばおかしい事だけど。
母は近所の人と繊維仕分けの内職工場を開き、せっせと働き家計を助けた。
相変わらず父は暴漢ぶりを発揮し、罵詈雑言で母をなじり、自分を正当化していた。
父の仕事は、同級生の海苔問屋から大箱で海苔やお茶を仕入れ、10枚単位で自分の店の名前入りの袋に入れシーリングし販売していた。
それは、自宅での作業となり、時に母をアシスタントにして、箱詰め贈答用に包装を
させていた。
新学期が始まる時は苦痛だった。
父の職業欄には、農業と書かれていた。
農業など、負債を負って田畑を売却したと同時にやめているのに。
何故父は自分の仕事に誇りを持てなかったのだろう。行商は長年続け、父が腎臓透析に倒れるまで、約30年ほど頑張っていたのに。
自称社長の肩書きは父の妄想にすぎなかったのだろうか?
田舎の付き合いを避け、毎日遠い街まで出掛けていたあの頃、父はしあわせだったのだろうか。