雑学的好奇心に満ちたツーリングレポート

好奇心から調べたネタや、ルートやスポット・ランチを紹介します。
関わっているクラブの告知やツーレポも投稿します。

山梨県旧秋山村を駆け抜ける県道35号線と雛鶴姫伝承

2021-03-10 20:03:16 | ツーリング

日本で最も水不足が起こりにくいとされる神奈川県最大の貯水量を誇る宮ヶ瀬ダム。
そのダムによって蓄えられた宮ヶ瀬湖を一望できる県立自然公園の景勝地「鳥居原園地」は、湖畔エリアとの連絡路となっている「虹の大橋」などが一望でき、岬の展望台などからは宮ヶ瀬湖周辺で一番美しい景観が楽しめます。

隣接する農林産物直売所「鳥居原ふれあいの館(いえ)」では、四季折々の産地直送野菜などを販売されていて、多くの観光客で賑わいます。
9時になると屋根の上の鐘が鳴り、開店を周囲に知らせます。

その鳥井原園地には、土日祝日の午前中にもなるとツーリングの待ち合わせや休憩場所として、おびただしい数のバイクが集結します。

集まったバイクの行き先は、通称「道志みち」と言われる国道413号。山梨県富士吉田市から神奈川県相模原市緑区に至る一般国道で、多くのバイクは信号少なく適度なアップダウンとコーナーが続くこの道を走って、道の駅「どうし」や山中湖などの富士五湖方面を目指します。

鳥井原園地から県道64号を北上すると道志みちに合流できますが、今回のブログで紹介する旧秋山村を走る県道35号へは道志みちを横切るように進みます。


やがて牧馬峠(まきめとうげ、標高410m)に差し掛かります。
峠の両端には、幅員2m制限のゲートがあって、大型車の通行が禁止されている狭隘な道ですが、峠の周辺には、環境省のレッドリストで絶滅危惧種Ⅱ類に指定されているギフチョウが生息しているそうで、東京都心から50km圏内では貴重な生息域であるため保護活動が行われています。

峠にはギフチョウの生息地であることを示す説明板も。

牧馬峠を下り、信号のないT字路を左折すると「山のはちみつ」という名のはちみつの直売所があり、サイクリストやライダーが自転車やバイクを駐めています。
お目当ては、最近密かな評判になっている「はちみつたいやき」。
皆美味しそうに、たいやきを頬張っています。



牧野(まぎの)の集落を抜けると、山梨県道・神奈川県道35号四日市場上野原線の上野原市秋山(旧秋山村)に入ります。
県境の境橋には、旧秋山村にはたくさんの民話が伝承されていたことを説明する案内板が設置されています。

この県道35号は中央道・国道20号と国道413号(道志みち)の間の農村地域を快走できるツーリングルートとして、所属するHARD&GENTLEツーリングクラブのメンバーには道志みちに劣らない人気があり、甲信方面へのツーリングの帰り道に中央道・国道20号の渋滞を避けたり、あるいは渋滞していなくても好んで帰路に使うルートでもあります。

道沿いには目立った観光スポット的なものは無く、途中に都留市と旧秋山村を結ぶ新雛鶴(ひなづる)隧道があります(旧トンネルは車両通行不可)。
※下の写真は上野原市・都留市境の新雛鶴隧道

トンネルの両側には、それぞれ同じ名前の雛鶴神社があります。

また、トンネルを下るとリニアモーターカー実験線の車両基地(下の写真)があり、試験走行日には空気を切り裂いて疾走するリニアモータカーを見ることもできます。

ちなみに、県道35号を抜けた先の都留市内にはリニアモーターカーの見学施設(山梨県立リニア見学センター、どきどきリニア館)があり、試験走行が行われている日には時速500km/hで疾走するリニアモーターカーを目の前で見ることができます(リニア走行試験の運転予定は、通常毎週金曜日夕方に翌週土曜日までの予定が発表となります)。
試験走行予定はこちらです↓
https://www.linear-museum.pref.yamanashi.jp/calendar/2021/04/


こちらの話題は、また別のブログで触れたいと思います。

さて、いつも気持ちよく走り抜けてしまう旧秋山村ですが、奥多摩をソロツーリングで走った帰りに時間があったので、旧村内に点在する18あるという集落の一つ、富岡集落を走ってみたことがあります。

道教観音像があるT字路を曲がり、秋山大橋で秋山川を渡ると「秋山温泉」などの施設がある富岡地区に入ります。

集落の東側を大回りして走っていくと、安寺沢(あてらざわ)川に沿って山を登っていく安寺沢林道に出ます。
林道は道幅1.5車線程度、所々で舗装が切れてダートもあり深い山奥まで続いていますが、かなり登っていっても民家が点在しているのには少し驚きました。

沢に沿って登っていく道なので、眺望はきかず単調な風景が続きますが、それでもピークが近づく頃には富士山が見えたり麓が見下ろせるようになってきました。

林道の最高点は「厳道峠」(がんどうとうげ・標高786m)で旧秋山村と道志村の境になっていました。
この峠は元々同じ読みで「強盗峠」と呼ばれていたらしいのですが、強盗では聞こえが悪いと近年、改称されたようです。
山奥の人里離れた峠ですから、中世には旅人や流通する物資を狙った強盗や追いはぎの類がいたのでしょうか。
写真の狭い切り通しの部分が厳道峠です。

旧秋山村は桂川や険しい山に囲まれた陸の孤島のような地区だったそうで、厳道峠のような山道は旧秋山村と近隣の村とを結ぶ貴重な物流ルートでした。
また、モノだけではなく婚姻などの行き来もあったようです。

厳道峠から先には分岐があり、そのまま進むと、下るのをちょっと躊躇してしまうようなするような急な下り坂で2本の道があり、どちらも落石が多かったりダートもあったりしますが、1kmあまり坂を下りきると国道413号(道志みち)に出ました。

※2021.4.8現在、近年の風水害の影響で「安寺沢林道」や接続する「原野林道」などは路肩崩壊や落石で通行できません。

ちょっとした冒険心を満足させることができた旧秋山村ですが、民話や伝承の宝庫であったり、国の重要無形文化財に指定されている踊り念仏を主体とした伝統行事である「無生野の大念仏」など、好奇心をそそる話題が幾つかあり調べてみました。

此処から先は「信忠と松姫」に続く、ツーリングブログ的ヒストリア第2弾です。

護良親王と雛鶴姫のお話
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の皇子で大塔宮・護良親王(おうとうのみや・もりながしんおう)という人がいました。
皇族でありながら幼少より英明で勇猛、武芸に秀でて豪胆、知略の優れた人物で、鎌倉幕府倒幕に活躍したそうです。
倒幕が成り、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると征夷大将軍に任ぜられました。
鎌倉幕府時代、源氏の嫡流が三代将軍実朝公で途絶えると、実権を握った北条氏は京から形だけの宮将軍を迎えて政治を行っていましたが、武士以外で征夷大将軍の座を実力で勝ち取った唯一の人物ではないかと思います。

しかし倒幕後の主導権争いで、室町幕府を興した足利尊氏との政争に破れ、父後醍醐天皇とも対立した護良親王は失脚し、讒言によって捉えられて尊氏の弟・直義の監視下で鎌倉・東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。

やがて北条の残党が「中先代の乱」を起こし、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、護良親王を北条の残党に奉じられることを恐れた直義により、親王暗殺の命を受けた淵辺義博という武士に殺害されてしまいました。

『太平記』によると、淵辺は土牢の中で護良親王を組み伏せ、太刀で喉元を刺そうとしました。
親王は首をちぢめて剣先を咥え歯で噛み折りました。
そうして必死に抵抗した親王ですが、8ヶ月に渡った幽閉生活で弱っていた体では、やがて力尽き討ち取られてしまいます。享年は数えで28歳でした。

格闘の末にようやく御首を取った淵辺が御首を持ち外に出て月あかりで見ると、両眼を見開き歯には刀の先をくわえたままの凄惨な形相でした。
本来は御首を直義の届けて報告をしなければならなかったところ、淵辺はあまりの恐ろしい形相に恐れをなし、御首を竹藪に投げ捨ててしまったのだそうです。

淵辺が竹やぶに投げ捨てた御首を探し出したのは雛鶴姫という女性でした。
雛鶴姫の素性については諸説がありますが、確かであったのは護良親王の寵姫であったことと、親王が殺害された時に、姫は親王の子を宿していた事でした。

親王の御首を抱いた姫は、深い悲しみに打ちのめされますが、足利の支配する関東から脱出し、京の都かあるいは自分の生まれ故郷である関西方面に御首を運んで葬ることを決意します。
現在の横浜市戸塚区にあった四つ杭の井戸で御首を清め、東海道を西に向かおうとしました。

しかし、足利方の兵で溢れる東海道で京に向かうことは難しく、相模川に沿って北上し甲斐から都へ向かおうとしましたが、途中、身重の体で御首を運ぶ姫は病気になり、津久井の青山の寺で養生しました。

回復した姫たち一行は青野原から険しい牧馬峠を越え牧野を通って12月も押し詰まった頃、秋山村に着きました。
ここで姫が産気づいてしまい、供のものが近くの農家に助けを求めましたが、秋山村は足利家の勢力が及ぶ地、後難を恐れる村人たちには、姫たち一行を助けることができませんでした。
やむを得ず供の者たちは秋山嶺の頂に登り、松の枝を折ってしとねをつくり産所として、姫は皇子を産みました。
しかし、季節は冬で山間の風も冷たい。
寒さと疲労の為に、供の懸命な看病も空しく、姫も皇子も亡くなってしまいました。
姫は22歳の若さでした。
姫が臨終の際に悲しみのあまり、「ああ無情...」と嘆いたことから、この地が無情の野と呼ばれるようになり、無情野、そして無生野という地名になったと伝えられているそうです。
また、姫が亡くなった秋山嶺は雛鶴峠と呼ばれるようになり、青山から秋山までの道を雛鶴街道と呼ばれるようになりました。

姫の最期を哀れに思った村人たちが、姫たちを祀った雛鶴神社を創建しました。


前述したように、雛鶴峠を挟んで何故か2つの雛鶴神社があります。
旧秋山村側の雛鶴神社は無生野地区の県道沿いにあります。

こちらには旅姿と思われる雛鶴姫の石像が建てられています。

都留市側の雛鶴神社は県道から600mほど山道を登った山中にあります。
県道には「護良親王妃 雛鶴姫終焉の地」という看板があり、こちらには姫を慕い殉死した数人の従者の墓に植えられた「お供の松」の跡と近年建てられたと思われる雛鶴姫の墓がありました。

「無生野の大念仏」の起源・発祥の由来については、護良親王の悲劇にまつわる雛鶴姫と姫に仕えた人々の霊を慰めるために始まったものと伝えられています。

都留市にある石船神社では、護良親王の首級と伝えられる首が祭られており、毎年1月15日に行われる祭礼当番引き継ぎの神事の際に開帳されています。

明治天皇は、武士から天皇へ国政が移譲した「建武の新政」と「大政奉還」を重ねられていたようです。
そして父後醍醐天皇を助けて建武中興に尽くし、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、その御意志を後世に伝えることを強く望まれたそうで、親王終焉の地である東光寺跡に神社造営の勅命を発せられて、自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。
日本の歴史で、たった一か所だけの天皇が自ら命じ創建した神社です。

鎌倉宮には土牢が再現されています。

鎌倉宮最寄りのバス停は、その名も「大塔宮」です。



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