今回、私は敢えて「脱走派」という表記をしてきたが、旧幕府側の武士たちは、視点の置き方により様々な言われ方をしてきた。
例えば、倒幕派に対しては佐幕派という言われ方もあるが、明治政府成立後は新政府軍が官軍と言われたのに対して賊軍という言われ方さえしたのである。
まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の象徴的な事例である。
尊王攘夷に始まり、ついには倒幕運動を通して王政復古のクーデターとも言うべき動きに出た薩長連合は、天皇親政をとったわけではない。
むしろ、天皇を利用して藩閥政治を行なったという見方が妥当かもしれない。
その意味では、江戸幕府時代(もっと遡って平安中期以降という考え方もあるが)は、天皇が存在していたものの政治の実権は幕府にあったので、象徴天皇制が続いていたとも言える。
ところが、明治新政権は天皇を前面に出した政治利用を巧みに行なったのである。
何れにしても民衆が立ち上がって時の権力を倒したのではなく、薩長連合が幕府内に芽生え つつあった近代的な政治改革を武力で潰しにかかったという見方も可能だ。
江戸城開城により江戸に留まることを良しとせず「脱走」した武士たちが、どんなに崇高な志を抱いていたかは知る術はないが、少なくとも武力で新政権に従わせようとする政府軍に対抗する旧幕府軍には限りなくシンパシーを抱かざるをえない。
戊辰戦争は、その後の明治政府によって位置付けが明確にされたのである。
同じ戦死者も、新政府軍の死者は殉死とされ時の行政によって丁寧に葬られているのに反し、旧幕軍の死者はその墓さえ明らかでないものもある。
私が訪れた海神の念仏堂の墓地には、撤兵隊(「市川・船橋戦争」で戦った旧幕軍)の江原鋳三郎(江原素六)と格闘して戦死した新政府軍の小室弥四郎たちの墓が整然としてあった。
いわゆる官修墓である。
傍に立てられた表示板によると、「千葉県は殉国の志を哀れみ、明治十九年三月にこの 墓碑を建立しました。」と書かれていた。
また、墓碑の左側面には「賊徒追討ノ役...」の文字も読み取れた。
ここ海神の地は、「市川・船橋戊辰戦争」の最激戦地だったとも伝えられており、江原は味方の援護によって九死に一生を得たのだが、旧幕軍は敗走した。
かつては、ここにも旧幕府側の戦死者が葬られた墓石も在ったようだが、既に現在は存在が不明となっている。
残念なことだ……。
最後に、私たちの地域を象徴する船橋大神宮(意富比神社)に遺(のこ)る戊辰戦争の傷痕を紹介する。
この神社は、原初に溯れば古代の太陽神信仰に基づくものとも言われており、歴史ある神社である。
氏子のみならず多くの地域の人々からも信仰や人気を集めているが、家康を筆頭に時の権力者たちも多くが何らかの関わりを持ってきた場所でもある。
この地に、撤兵隊(旧幕軍)の本陣が置かれたのである。
しかし、新政府軍に南北から挟み討ちにあい、砲弾を放たれて炎上し敗走するに及んだ。
この際に敷地内の樹木も焼かれて消滅したが、焼かれながらも唯一生き延びたと言われる欅の木があるのだ。
当時の本木は命尽きて今では焼け痕を残すのみだが、その根元から出てきて育った新木が大きく育っている。
神社では、この木を神木として現在も大切にされている。
目に見える形で、それも生きて存在する戊辰戦争の証人とも言えるのではないか……。
「脱走派」という客観的な表記は当の武士たちには不本意であろうが、時の新権力に抵抗する武士たちに熱き思いを一方的に寄せる私には、敢えて彼らを客観視して対象化するのが相応しかった。
これで生まれた新政権は、天皇制を巧みに使い戦争と民衆抑圧の時代へ突入する。
そして、民衆の大きな犠牲を経て成立した戦後の民主主義は、今、安倍政権によって脅かされ、明治政府時代に戻るような理念のもとで政治がなされている。
こんな今だからこそ、自分の足下をしっかり見つめ直し、「負の歴史」からも学び取る必要があると考えている。
<すばる>
例えば、倒幕派に対しては佐幕派という言われ方もあるが、明治政府成立後は新政府軍が官軍と言われたのに対して賊軍という言われ方さえしたのである。
まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の象徴的な事例である。
尊王攘夷に始まり、ついには倒幕運動を通して王政復古のクーデターとも言うべき動きに出た薩長連合は、天皇親政をとったわけではない。
むしろ、天皇を利用して藩閥政治を行なったという見方が妥当かもしれない。
その意味では、江戸幕府時代(もっと遡って平安中期以降という考え方もあるが)は、天皇が存在していたものの政治の実権は幕府にあったので、象徴天皇制が続いていたとも言える。
ところが、明治新政権は天皇を前面に出した政治利用を巧みに行なったのである。
何れにしても民衆が立ち上がって時の権力を倒したのではなく、薩長連合が幕府内に芽生え つつあった近代的な政治改革を武力で潰しにかかったという見方も可能だ。
江戸城開城により江戸に留まることを良しとせず「脱走」した武士たちが、どんなに崇高な志を抱いていたかは知る術はないが、少なくとも武力で新政権に従わせようとする政府軍に対抗する旧幕府軍には限りなくシンパシーを抱かざるをえない。
戊辰戦争は、その後の明治政府によって位置付けが明確にされたのである。
同じ戦死者も、新政府軍の死者は殉死とされ時の行政によって丁寧に葬られているのに反し、旧幕軍の死者はその墓さえ明らかでないものもある。
私が訪れた海神の念仏堂の墓地には、撤兵隊(「市川・船橋戦争」で戦った旧幕軍)の江原鋳三郎(江原素六)と格闘して戦死した新政府軍の小室弥四郎たちの墓が整然としてあった。
いわゆる官修墓である。
傍に立てられた表示板によると、「千葉県は殉国の志を哀れみ、明治十九年三月にこの 墓碑を建立しました。」と書かれていた。
また、墓碑の左側面には「賊徒追討ノ役...」の文字も読み取れた。
ここ海神の地は、「市川・船橋戊辰戦争」の最激戦地だったとも伝えられており、江原は味方の援護によって九死に一生を得たのだが、旧幕軍は敗走した。
かつては、ここにも旧幕府側の戦死者が葬られた墓石も在ったようだが、既に現在は存在が不明となっている。
残念なことだ……。
最後に、私たちの地域を象徴する船橋大神宮(意富比神社)に遺(のこ)る戊辰戦争の傷痕を紹介する。
この神社は、原初に溯れば古代の太陽神信仰に基づくものとも言われており、歴史ある神社である。
氏子のみならず多くの地域の人々からも信仰や人気を集めているが、家康を筆頭に時の権力者たちも多くが何らかの関わりを持ってきた場所でもある。
この地に、撤兵隊(旧幕軍)の本陣が置かれたのである。
しかし、新政府軍に南北から挟み討ちにあい、砲弾を放たれて炎上し敗走するに及んだ。
この際に敷地内の樹木も焼かれて消滅したが、焼かれながらも唯一生き延びたと言われる欅の木があるのだ。
当時の本木は命尽きて今では焼け痕を残すのみだが、その根元から出てきて育った新木が大きく育っている。
神社では、この木を神木として現在も大切にされている。
目に見える形で、それも生きて存在する戊辰戦争の証人とも言えるのではないか……。
「脱走派」という客観的な表記は当の武士たちには不本意であろうが、時の新権力に抵抗する武士たちに熱き思いを一方的に寄せる私には、敢えて彼らを客観視して対象化するのが相応しかった。
これで生まれた新政権は、天皇制を巧みに使い戦争と民衆抑圧の時代へ突入する。
そして、民衆の大きな犠牲を経て成立した戦後の民主主義は、今、安倍政権によって脅かされ、明治政府時代に戻るような理念のもとで政治がなされている。
こんな今だからこそ、自分の足下をしっかり見つめ直し、「負の歴史」からも学び取る必要があると考えている。
<すばる>