今年もと云うか毎年のように年賀状に振り回されている。
現職時代の年賀状は友人・親戚・教職員・教え子・組合等々と対象者別に振り分けて裏面を別々に作成していた。
最も多いときは500枚くらいにもなった。
《裏面作成 始めはフェルト版画》
教員になった頃、宛名は手書きで裏面はフェルト版画を使っていた。これは木版画とほぼ同じで、フェルトが張ってある面に絵柄を描く。
カッターで切り抜き、絵具を付けてバレン . . . 本文を読む
文科省が中教審に諮問し、教育制度や教育課程の見直しをはかるのは良いですが、教員や児童生徒の負担が軽減されない様な形の改定はもうやめにしませんか。
大胆な改革が必要です。
1日当たり7時間45分の勤務時間の中で、授業を目一杯行い、授業準備や学級事務、校務分掌上の業務、学年の打ち合わせの時間が、合わせてもわずか30分程度しか取れないので、労基法で規定された休憩時間も仕事をしつつ、やむを得ず長 . . . 本文を読む
《震災遺構 浪江町請戸小学校の見学》
ここも私は三度目の見学となった。
学校周辺がどんどん変わっていきススキの原っぱだった所は整地している最中だった。
大平山が近くに見えて見通しの良い広大な土地がひろがっている。
ここに住宅が出来るのか、工場が出来るのかは分からないが防潮林にする松の苗木畑も広がっていた。
校舎階段下には今年も咲いたと思われる直径20cmほどの桜の木が自生し時の流れを感じる . . . 本文を読む
■この時期に文科省から発表されるのが公立学校教員の休職の状況です。「教員 精神疾患の休職最多」と朝日新聞(12月21日)の見出しは書いています。報道の要点は以下の通りです。
①2023年度の統計では精神疾患を理由に休職した教員の数は7119人で、三年連続過去最多となったこと。これは教員全体の0.77%(昨年より0.06%増加)であること。これはちょっと危機的な状況です。
②通常、90日間の病気 . . . 本文を読む
二日目
フィールドワーク バス車中での学習と施設見学
《講師 柴口正武さん(福島退教事務局次長)》
①震災後家族・親戚の離散の実情を語ってくれた。
浪江町の実家には2012年10月に一次立ち入り。長女はこの立ち入りが最後。
柴口さんは相馬市へ、家族は二本松市の父方本家といわき市の母方本家に避難する。
その後家族は千葉や埼玉、茨城の親戚に避難。
2020年7月 浪江町の実家を解体する。
両親は避 . . . 本文を読む
学習会 Ⅱ 「原発事故難民として考える」
《講師 山崎健一さん(元福島県立高校社会科教諭)》
山崎さんは「平和」「人権」「環境」の3つから世の中を見ていくといろいろ見えてくると云う。
3つのテーマに沿った活動はあまりにも多く紹介しきれない程だが、
新聞投書や9条の会・日退教の学習に発信してきたものは多くの方に伝えたい貴重な証言と記録だ。
◆山崎さんが教員になった1968年6月頃福島第一原発の建 . . . 本文を読む
日退教は福島県退教と共催で「福島原発事故から13年半『福島』の今を学ぶ」の「第6回福島学習の旅」を11月10日~11日にかけて実施した。
参加者は東北・関東・近畿・四国からの総勢21名で、学習会会場の福島県教育会館に向かった。
<一日目>
学習会 Ⅰ「福島原発事故から13年半~被ばく当初に考えたこと、行動したこと~」
《講師 国分俊樹さん(元福島県教組委員長)》
自宅は郡山市にあり放射線量が . . . 本文を読む
10月某日保護司の施設視察研修に参加した。
場所は茨城県の「茨城農芸学院」バスで出発した。
茨城農芸学院の研修は午後からなので、牛久シャトーで休憩・昼食になる。
《牛久シャトー 休憩・昼食》
牛久シャトーは1903年(明治36)に実業家神谷傳兵衛が建設した日本初のワイン醸造場の建物を今に残す施設。
2007年に近代文化遺産、2008年に国の重要文化財に指定。
2020年に日本遺産に認定された。
. . . 本文を読む
今朝は有価物の回収日、私のお宝を放出することになりました。
先日、実家の物置に「開放厳禁」と書いてある段ボールがありました。
「これは兄貴のものじゃない⁉︎」と、整理をしていた弟に言われて見に行ったのです。
亡き母が私の意を受けてずっと保管していたようです。
開けるまでは自分でも何が入っているか分かりませんでした。
出てきたものは高校生の頃お世話になった参考書類でした。
遠い記憶を辿る . . . 本文を読む
先月27日の総選挙と同時に「最高裁判所裁判官の国民審査」も行われた。
過去、一人たりともこの制度で「罷免」された裁判官はいない。
さらに、白票は「信任」とされているし、よくわからないと棄権する有権者も多い。
せっかくの主権者である国民の権利だが、有効に機能しているとはいいがたい。
今回の投票にあたっては、いま一つ「判断に迷う」ところがあったので、初めて選挙公報と共に送られた「国民審査広 . . . 本文を読む
連休中に久しぶりに映画を観に行った。
1990年代から30年に及ぶガザ地区の取材をもとにした土井敏邦監督の「ガザからの報告」という映画である。
ほぼ満席で、若い人も多く観に来ていた。
映画を通してガザ地区のパレスチナの人たちの生活を知り生の声を聞くことができた。
若者が仕事がない。
働けないから収入がなく深刻な貧困に陥る。
子どもに与える食べ物がない。
ハマスがなぜパレスチナの人たち . . . 本文を読む
わが集落では減反に応じる農家が少なかった。
それは、減反助成金を得るより水田を荒廃させることなく維持したかったからだ。
我が家の様に小規模な農家ほどその思いが強かったように思う。
しかし、時は流れ兼業農家の担い手たちが高齢化し、若者たちは農家を継ぐ者がほとんどいなくなった。
そこに現れたのが蓮根栽培企業だ。
耕作者のいなくなった水田を次々に買い取り、改修して蓮田に変えてしまったのである。
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24戸で形成されていた集落はどの家も水田や畑を持っていたが、完全な専業農家は数軒に過ぎず、我が家のように兼業をする家が多かった。
それは耕地面積が少なく、米作だけで生計が立つ家はごくわずかであったからだ。
私が地域社会の様子をある程度は理解できるようになった頃は、既に高度経済成長の終盤にさしかかっていた。
初めて「出稼ぎ」という言葉を知り、稲作中心の東北地方の農民が農閑期に都会へ出て働き高度 . . . 本文を読む
その後、私は家を出て下宿生活を始めたが、就職しても実家には戻らず都市生活者となってしまった。
したがって、私が実家に居た頃の地域の風景の変遷を見ていたのはこの時期までである。
この間にも年老いた父は退職後の趣味として始めたEM農法による米作りを行なっていた。
代々受け継いできた水田が小規模ながら残っていたからだ。
もちろん、農薬を拒否しつつ狭いながらも独自耕作を行なっていたが、周囲はヘリコプター . . . 本文を読む
先日、秋の彼岸に実家の墓参りに行った。
父母が亡くなってからは春秋の彼岸と夏の盆の時期に足を運ぶ程度になってしまった。
私が生まれたのは、下総台地に入り組んだ谷の一部で典型的な谷津の地形をなしている小さな集落である。
集落の中央を流れる小川を挟んで水田が広がり、崖を背にして住宅が立ち並んでいた。
その川で私たち子どもは魚を獲ったり川遊びをしていたものだ。
また、家の裏には清水が湧き、サワガニ . . . 本文を読む