10日の日曜日、三鷹駅構外の跨線橋が渡れる最終日、その後一般には閉鎖され、来週末の渡り納めで撤去されると。
築94年、戦争前の設置だったのですね。
かみさんの実家に用事があったので帰りに寄ってみました。
もっと車が多く路駐しているかと思えどあまりいない。
もっと停めていれば、まぎれて置いちゃうんだけど。
2時過ぎに。地元の人が多いのかな?
このコンクリートがいつの物かは知りませんが、荒れた表面はよる年波を感じさせます。
この跨線橋、太宰治がよく訪れていたそうで、ぼーっと景色を眺めていたとか。
入水した玉川上水の地は東に1km位、お墓は南に1km位。
ちなみにお寺の住職は高校の先輩(らしい)。
更に言えば三鷹事件で車庫から電車が暴走した地。 この先頭車のモハ63、私が中学に入る頃も置いてありました。
裁判の証拠だったそう。 他の63形が全部73形に変わっていっても、最後の一両としてそのまま壊れた姿をさらしていました。
その三鷹事件で編成中間で被災した63057、西武鉄道に払い下げられクハ1451に(後年クハ1401)。
これは国分寺から萩山間に閉じ込めて使用した頃、学校帰りに時々乗ってましたねえ。
さて、竹下通りみたいな跨線橋上、200人ぐらいいるかなあ。
見たところ地元の方が多いのかしら。
葬式厨といえば鉄ちゃんが有名だけど、さすがにこんな施設の最後には興味が無いか。
電車が来ました。
こんなのを子連れで見ているお母さんもいたのだけど、本日は身動き取れないところも有り、見かけなかった。
この跨線橋の下に模型屋さんがあり、散々来ていたのですが30年ぐらい前に廃業。
この地に移転する前に日大二高の校門前にお店があった頃、自転車で良く行っていた店ですから付き合いは長かった。
跨線橋の根元、いまは駐車場になっていますが、その当時は釣り堀でした。
上からの景色も懐かしい。
その反対側。
さすがに現役の頃は知りませんが右側の保線用の線路、武蔵野競技場への廃線跡を活用しています。
左右の端は金網、隙間から写真を撮ってますが入っちゃったね。
道路にもこちらを撮影されている方がいますね。
中学生の頃、この辺はちょっと遠い遊び場でしたから最後のお別れに立ち寄れて良かった。