「歴史の回想・治承寿永の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
1180年(治承4)の以仁王・源頼政の挙兵から。1189年(文治5)の奥州合戦に至るまでの、10年間にわたって全国的に展開した内乱。1179年11月、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して政権を樹立すると、翌年以仁王・源頼政らは、以仁王の令旨を発して諸国の反平氏武士に蜂起を呼びかけるとともに、平氏の政策に反発する園城寺・興福寺などの權門寺院勢力と糾合して挙兵の準備を進めた。1180年5月個の挙兵は事前に露顕し、平氏軍によって鎮圧されたが、8月伊豆国で源頼朝、9月に信濃国源義仲が挙兵し、甲斐・紀伊・豊後・土佐・伊予などの諸国でも蜂起が相次ぎ、内乱は同時多発的形態をとって瞬く間に全国的に広まった。子の内乱が地域社会に巻き込んで一斉に広まった理由について、かつては古代的貴族階級に対しする在領主階級闘争として理解されてきた。しかし」王朝貴族の、封建領主としての性格が指摘されとともに、鎌倉幕府に結集することが必ずしも在地領主制一般の発展コースではなかったことが主張されるようになり、この見方は後退ししつつある。むしろ荘園公領制の形成に伴って、地域社会の在地領主間の競合・矛盾が展開されてきた。富士川の戦のあと上洛を主張した源頼朝に対して、有力御家人の上総広常や千葉常胤らが反対して、彼らと所領紛争を続けていた。平氏軍の北陸道遠征での敗戦であり、7月の平氏西走、木曾義仲・源行家軍の入京と、情勢は急激に変化していった。1184年1月、義仲軍を破って入京した頼朝派遣軍は2月に一の谷の戦で勝利し畿内、近国を軍事制圧し。翌年1185年(元暦2)3月壇ノ浦で平氏一門を滅亡させた。
「応仁の乱の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。
原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。細川方は室町第(花の御所)と細川邸を本営として、山名方はその西側の堀川を隔てた山名邸を本営とされた。細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれた。東軍の兵力は16万1500余名、西軍方は大内軍を加えて11万6000余名の戦力で約10年間、京都を荒廃させ不毛な戦いが繰り広げられた。
応仁の乱はこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息するのは1485年(文明17)の山城国一揆成立であり、畿内(きない)の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。以後、大乱に参加した諸大名は、幕府の権威による分国支配が困難となり、実力による領国統治権の確保の必要性に迫られることになった。また幕府の実質的支配領域、すなわち幕府の威令の届く範囲も漸次縮小され、1487年(長享1)の六角征伐、1493年(明応2)の河内出陣を通じて幕府の動員兵力は畿内近国の守護軍と奉公衆に限られるようになり、幕府の裁判権行使も畿内に限定されてくる。このように事実上、畿内政権と化した室町幕府を、実力で押さえるようになるのが細川氏であった。同氏は他の大名と異なって、家督紛争を起こさず族的結合を維持し、乱中乱後を通じて首脳部が京都に常駐し、1493年4月の政変で将軍の廃立を強行し、政敵畠山政長を暗殺してからは完全に幕閣の主導権を掌握した。細川氏が畿内において戦国大名化の道を踏み出したこの年を、戦国時代の始まりとする説が有力である。政所執事、侍所開闔(かいこう)、右筆方(ゆうひつかた)など幕府の諸機構は、事実上、細川氏の行政機関化するに至る。
地方では荘園制の解体が決定的となり、守護代層や有力国人が台頭し、彼らのうちには自ら戦国大名化する者も出現した。荘園制と在地領主制を基軸とする中世国家の枠組みが最終的に崩壊するのも、この乱の重要な結果である。したがって、日本の歴史を二分する大きな時代転換の契機をこの大乱に求める説が有力である。一方、戦争による混乱にもかかわらず、義政の浄土寺山荘を中心に東山(ひがしやま)文化という公家(くげ)、武家、禅の融合による新しい思潮、芸術が発生し、戦乱を地方に避けた僧侶(そうりょ)や公卿(くぎょう)たちによってそれが地方に伝播(でんぱ)された。この文化は、庶民の生活様式のなかに定着するという重要な一面をもち、近世庶民文化の源流をなす意義をもつ。また、戦火を免れた奈良は京都に次ぐ大都市として発展し、一条教房(いちじょうのりふさ)が乱を避けた土佐(とさ)中村や、京の禅僧が多く流寓(りゅうぐう)した周防(すおう)山口、出雲(いずも)富田(とだ)は、戦国大名の庇護(ひご)とも相まって、西国における新興都市として文化の中心地となっていった。応仁の乱は大儀無き約10年間も不毛の戦いであり、一族を二分にして消耗戦を繰り返し、得るものは何もなかった。京都の町は荒廃し、治安が乱れ、天候不順の飢饉が諸国を襲った。足利幕府の統治能力の欠如が無法地帯を作り、下克上と理不尽で自分たちの一族の都合を優先させた異夢同床の離合集散の両軍の戦いであった。
「平安摂関家の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「摂関家。摂政・関白の職に就く家柄。9世紀後半に藤原氏北家の良房・基経によって例を開いた摂政・関白の職は基経の子忠平のとき、摂関制としての形を整えた。忠平の長子実頼は冷泉朝の関白・円融朝の摂政となる。その没後は、外戚政策に成功した実頼の弟師輔の長子伊尹が継ぐが、伊尹の弟兼通・兼家の対立の結果、関白となった実頼の子頼忠を最後に、摂関は兼家に独占される。兼家の子道長は、兄たちの後を受けて関白に準ずる文書内覧の宣旨を受け、未曾有の外戚関係を構築する。外孫の後一条天皇の摂政になったが、短期間で摂政を若年の長子頼通に譲り、背後でこれを支えた。以降摂関の地位が、外戚関係に関わらず、道長の子孫に継承される前例を開いたと言える。鎌倉時代に入ると、忠通の嫡男基実を祖とする近衛家、その弟の兼実を祖とする九条家、近衛家に分かれて兼平を祖とする鷹司家、九条家より別れ、良実を祖とする二条家、更の一条家に分かれ、五摂家として権勢をふるっていった。
「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。
「古河公方の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、上杉氏に対立して康正元年(1455)頃古河に入ったことに始まる。成氏氏は梁田氏や重臣たちを近隣に配置し、お山・結城氏ら北関東の大名たちを従えて、
上杉氏と戦いを続け享徳の乱室町後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方が古河公方に拠点を移し関東管領の上杉氏派の戦で、20年間近く及んだ。享徳3年(1454)足利氏は上杉氏を遂に成氏氏が関東管領の上杉憲忠しを謀殺したのである。そのことを機に、翌年より本格的戦乱状況に入った。成氏氏はその時の拠点が下総古河を居所として、梁田ら重臣と直臣たち遠山・結城氏ら北関東の大名たちと糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉しとその家老ら、さらに越後の上杉氏ら連合して対抗した。結局講和してその地位を保った。成氏の子政氏と、その子も多か高基の子も、大名ららの支持を得て活動したが、高基の子の足利晴氏が北条と結んだためその影響に置かれ、次の義氏は完全に同氏が男子がなく死去すると攻防は消滅するが、娘が家を継承し、近世には喜連川氏と称した。
「宇都宮氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
中世下野の武家。北関東の名族で知られ、室町時代には「関東八屋形」(やかた)にも数えられた。出自については、下毛野氏、中原氏、藤原氏などの諸説がある。各種系図では、関白藤原道兼の曾孫宗円を祖とする者が多い。鎌倉初期に宇都宮二荒山神社の検校職や伊賀、九州、四国などの地頭職を安堵された。一時勢力拡大を極めた宇都宮公綱も評定衆、引付衆として幕府中枢にも地位を得、所領支配を目的にした「宇都宮家式条」は最も初期に属する武家家法である。ところが家臣の内紛を機に宇都宮家の屋台は崩れ、収拾、再興がままならぬ状況に打つ手はなかった。しかし学芸の家柄としても優れ、特に和歌では「宇都宮歌壇」という一大歌壇を形成した。「新〇和歌集」は宇都宮国綱功績が大きい、又、弓道の武芸でもその名を馳せたが、豊臣秀吉の小田原攻めに佐竹氏らとともに参陣したが、しかし、慶長2年(1597)突如、所領を理不尽にも秀吉から改易で没収され滅亡した。
「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受けたものが少なくない。近代に入っても義民顕彰活動は展開され、特に自由民権運動には各地で活発に行われた。
「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
戦国時代の武家。北条早雲、伊勢宗瑞を祖として、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模小田原城(神奈川県小田原市)を本城として関東一円に勢力を張った。早雲は今川家の家督相続をめぐる内紛を解決し、駿河興国寺城主となり、その後、堀越公方を追って伊豆を収め、ついに小田原を奪取して相模に進出、永正13年(1516)三浦氏を滅ぼし、相模一円を手中に収めた。氏綱の代には姓を伊勢から北条に改め、鎌倉幕府執権北条氏の後継と言う政治的立場を明らかにした。早雲以下5代の北条氏を鎌倉北条氏と区別し、小田原北条氏、後北条と呼ぶ氏綱以降氏康、氏政、氏直と北条氏は領国の拡大と領国経営に努め、八王子、江戸、鉢形などの支城を築いていった。5代100年にわたり伊豆及び関東に君臨したが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに敗れ滅亡した。
「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
江戸時代の普代大名。戦国時代は甲斐武田氏に仕え、後に徳川氏の家臣となる。柳沢安忠(1602~1687)のとき、3代将軍家光の弟駿河大納言徳川忠長付となる。忠長の改易により浪人、やがて上野国舘林城主綱吉に仕えた。その子柳沢吉保は、綱吉の将軍家相続に伴って幕臣になり、側用人、老中上座、甲府城主(15万石余)にまでなり、松平姓を名乗ることを許される。子の柳沢吉里(1687~1745)のときに大和国郡山藩主となり、幕末まで存続。帝鑑間詰。明治維新後は柳沢姓に復し、伯爵を授けられた。別に吉保の四男経隆は越後黒川藩主、五男の時陸も越後国三日市藩主となって分家し(ともに1万石)幕末に至った。2家とも帝鑑間詰。維新後は子爵だった。犬将軍徳川綱吉と柳沢吉保の特別な側用人で江戸幕府の政治が行われ、生類憐みの令や功罪、混在した政治が執り行われた。
「前九年・後三年の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。
後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対する一族の不満があった。同年陸奥として赴任してきた源義家は事件に介入、真衡を支援して清衡・家衡を破ったが、真衡が急死したために両社の調停にし、奥六郡の内胆沢・江刺・和賀の3郡を清衡に、残る3郡を稗貫・紫波・岩手の3郡を家衡に与えた。しかし応徳2年(1085)家衡が清衡を襲撃したために、義家は清衡を支援し、家衡を出羽の沼柵に攻め込んだが、冬の寒さもあって苦戦に陥った。家衡は叔父武衡の参戦を得て金沢柵に移って抵抗したが、義家も弟義光の来援もあって、寛治元(1087)兵糧攻めで金沢柵を攻略、家衡・武衡を討伐した。しかし朝廷は義家に対して追討官符を下さず私闘とみなし恩賞を与えなかった。これは義家の勢力強大化を恐れた抑圧と思われ、義家も朝廷の停止命令を無視した行動が見られたためだった。結果義家が帰京した後に清衡は奥部の実質的な支配者になり、その子孫が奥州藤原の一大勢力を創り出すことになった。