「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「水野氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 16:35:50 | 温故知新


「水野氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
江戸時代の普代大名・旗本の姓氏、初代重房は尾張知多郡に住し、その子重清は春日井郡山田荘の地頭職に任じられ水野に住んだので水野を名乗ったという。重房から13代の貞守が三河に進出、17代の水野忠政(?^1548)は刈谷城に拠って織田氏の三河攻略の先鋒を務め、松平広忠(1526~1549)と争う。一旦は和睦し、娘於大(伝通院)は広忠に嫁して家康を産んだが、於大の兄信元(?~1576)が織田信秀に与したため、離縁された。信元は讒言によって信長の命に殺害。弟水野忠重が跡を継ぐが、本能寺の変後は家康。小牧・長久手の戦後は豊臣秀吉に仕え、関ケ原の戦いから徳川家に復帰。忠重の子水野勝成・水野忠清(1582~1647)の系統がそれぞれの結城藩・沼津藩、忠清の四男忠増(?~1649)の系統が上総鶴牧藩に封じられたほか、忠政の八男忠分の三男重央(1572~1621)は紀伊徳川家の付家老として新宮藩主となった。一方、忠政の四男忠守(1525~1600)は信元殺害以降家康に仕え、その系統は駿河田中・三河吉田・岡崎・唐津・出羽山形など転々とするが水野忠邦は老中として天保の改革を指導した。水野十郎左衛門など旗本家も多数分出している。


​​​​​​​「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 16:34:00 | 温故知新

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出羽国の武家。延文元年(1356)羽州管領(のちの羽州探題)として最上郡山郡山形城に入部した斯波兼頼(1316~1379)を始祖とする。兼頼は奥州管領斯波家兼の次男。兄の斯波直持が奥州管領を継ぎ、ともに足利一門三職斯波家の一族として奥羽に勢力を固めた。分郡の最上・村上2郡に依拠し最上氏を称したのは、15世紀初期・欧州探題シナ氏が大崎氏を名乗った頃で、直家・満直父子の代とみられる。
天童、中野、高擶などの2郡内の郷を名字とする多くの庶家分出し、特に最上氏に養子を二度も送り込んだ中野氏と天童氏は重鎮的位置を占めた。
義定・善守の頃、戦国大名として勢力を強め、最上義光の代に最高期を迎え、豊臣期・徳川初期にも巧みな外交・内政で危機を切り抜けて、庄内まで領地を確保した。しかし元和8年(1622)に義俊は近江国に1万石に改易、子の義智以降は5000石の幕府の高家として命脈を保つことが出来た。


「歴史の回想・長尾景春の乱」アマゾン電子書籍紹介グーグル・。角川・

2020-03-04 14:56:08 | 温故知新

「歴史の回想・長尾景春の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。
永享11年(1439年)の永享の乱で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、享徳3年(1454年)に関東管領上杉憲忠を暗殺、上杉氏との全面戦争を始めた。成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。
山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。古河公方との戦いで扇谷家は山内家を支え、特に扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍によってその力を増していた。資清・資長父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における守りと攻めの拠点とした。
享徳の乱は互いに勝敗を分けながら20年以上に及び続いた。古河公方と対立する両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。










「千葉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 14:53:56 | 温故知新

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中世の武家。院政期に下総国千葉荘を名字の地として成立。へら忠常の子孫。嫡流は下総権介を世襲したために、本領地名を合わせて千葉介と称した。鎌倉幕府成立の際千葉常胤が活躍して下総守護のほか各地所領を獲得。以後、一族の多くは「胤」を名の通字とした。13世紀後半から伊賀守護を兼ねる。蒙古来襲来の際には、宗胤が肥前小城郡に下向したため、弟の胤宗が千葉介を継承。宗胤の子孫は肥前千葉氏となり、室町時代には小城・佐嘉・杵築3郡に勢力を振るったが、やがて龍造寺・鍋島氏に従属した。一方、胤宗の子孫は室町時代にも下総守護を世襲したが、15世紀半ばに古河公方と上杉氏の対立に巻き込まれて勢力を失った。上杉方に立った一族は武蔵に移る。公方派は佐倉に本拠を移し、子孫は戦国期には小田原北条氏に属し、千葉介の伝統的権威をっ持った下総国内の諸勢力の頂点に有ったが、天正18年(1590)北条氏と共に滅びた。


「歴史の回想・長州下関戦争」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 11:35:13 | 温故知新

「歴史の回想・長州下関戦争」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。


「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 11:00:59 | 温故知新


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江戸時代の普代大名。戦国時代は甲斐武田氏に仕え、後に徳川氏の家臣となる。柳沢安忠(1602~1687)のとき、3代将軍家光の弟駿河大納言徳川忠長付となる。忠長の改易により浪人、やがて上野国舘林城主綱吉に仕えた。その子柳沢吉保は、綱吉の将軍家相続に伴って幕臣になり、側用人、老中上座、甲府城主(15万石余)にまでなり、松平姓を名乗ることを許される。子の柳沢吉里(1687~1745)のときに大和国郡山藩主となり、幕末まで存続。帝鑑間詰。明治維新後は柳沢姓に復し、伯爵を授けられた。別に吉保の四男経隆は越後黒川藩主、五男の時陸も越後国三日市藩主となって分家し(ともに1万石)幕末に至った。2家とも帝鑑間詰。維新後は子爵だった。犬将軍徳川綱吉と柳沢吉保の特別な側用人で江戸幕府の政治が行われ、生類憐みの令や功罪、混在した政治が執り行われた。


「歴史の回想・生麦事件と薩英戦争」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 08:22:06 | 温故知新


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幕末の外国人殺人事件。文久2年(1862)9月14日、当日、街道に出ることを控えることとした幕府の通告を知らずに馬で遠乗りに出かけたイギリス人4人が、神奈川県近郊の生麦村で、勅使大使大原重徳を擁して幕政改革を朝命を伝達して京都に帰る途中島津久光の行列と遭遇。行列を乱したとして奈良原喜左衛門ら薩摩藩士により上海商人リチャードソンが殺害され、貿易商人マーシャルとハード商会のクラークが負傷、ボロデール夫人は難を逃れた。事件を知った横浜居留民団は激高し、報復を要求をしたが、イギリス代理公使ニールは冷静に対処し即時交戦を回避。翌年4月に、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(焼く40万ドル)、第二次東禅寺事件の賠償金と合わせ11万ポンドを要求、幕府は賠償金支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には犯人の処罰と貴族負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求、幕府は賠償金を支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には藩に処罰と遺族・負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求しクーパー司令官指揮の下イギリス艦隊7隻が鹿児島に遠征し交渉したが決裂、8月15日16日、薩英戦争を引き起こした。
薩英戦争、生麦事件に端を発した翌1863年6月27日イギリス東洋艦隊司令長官ALキューパーは7隻で鹿児島湾に侵入、翌日犯人処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸など3隻wp拿捕した。薩摩藩の天保山砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスルング大佐、副長、水兵名が戦死し、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたので、砲撃が2時間も遅れたという。翌3日も小戦闘が続いたが、4日に至りイギリス艦隊は、食料、弾薬、石炭が欠乏し、船体朱里のために退去、横浜に帰った。イギリス艦隊の旧式方の4倍の所定距離を持ち、集成館、鋳造所や城下町の一割を焼亡させた。死傷者は、イギリス側の戦士13名、負傷50名に及んだが、薩摩藩側は戦死5名、負傷十数人にすぎなかった。しかし薩摩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し、無謀な攘夷を反省する機運が生まれた。講和は、薩摩藩が大久保利通、重野らを交渉委員に立て、償金を幕府立て替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入の斡旋することなどの条件で成約した。以降、薩英関係が急速に緊密になっていった。



歴史の回想「大坂城代歳時記」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 07:28:05 | 温故知新

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大坂城代は江戸幕府の職名。将軍たる大坂城に常駐してこれを守備、守衛するとともに、大阪在勤中の幕府諸役人の最高責任者として政務を統轄した。併せて西日本諸大名の監視の任務と非常時における軍事指揮権を持っていた。大坂は元和元年(1615)の大坂城落城、松平忠明の城主時代を経て1619年幕府の直轄地となり、内藤正信(1568~1626)が最初の大坂城代に就任。任期は不定期で幕末まで続き伸べ70代を数えた。江戸時代中期以降は奏者番兼寺社奉行から大坂城代に進み、さらに京都所司代に、そして老中に進む昇進事例が多かった。また坂城代の下に大坂在番が置かれた。大坂在番は、大坂城代の指揮下にあって大坂城の警備の常駐と幕府軍事組織で、定番・大番・加番・目付をさす大阪定番は、京橋口定番と、玉造口定番の定員2名で、1,2万国の譜代大名が選ばれた。任期不定。大坂大番は、東大番と西大番があり、それぞれ大番頭が1名、大番衆0名からなっている。大阪加番は、大判を補強するためにあり、山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番・の4加番・がある、3万から1万国級の譜代大名が選ばれ任期は1年。大坂目付は大坂在勤の1万石以下の役人を監視する役目で定員2名からなる。旗本から選任され任期は1年が基準であった。




歴史の回想「京都所司代の歳時記」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALK」

2020-03-04 07:21:23 | 温故知新

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京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると、所司代がさらにその家人を小所司代に任命し、雑事を務めさせるようになる。室町時代の侍所は京中の検断・断罪を掌握としており、所司代は小舎人・雑色らを指揮して将軍外出の警護、犯罪人の逮捕などにあたった。京極持清の下で同役を務めた多賀高忠や、赤松政則の下で活躍した浦上政則の下で活躍した。応仁文明の乱後は、所司補任が断絶するとととに同代官として所司代も廃絶したが、戦国時代以降、時々の権力者は京都を実質的に支配する要職に所司代の名を用いた。