「歴史の回想・長島一向一揆」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
長嶋一向一揆16世紀後半、当時は尾張国海西郡に属した中島は(現桑名市)を舞台に、一向宗門徒を中心とする在地勢力が織田信長軍の抵抗した一揆。1570年(元亀元)石山本願寺の廻文で蜂起した一揆勢は、織田信興(信長の弟)を自殺に追い込み、願証寺を中心に要害を築いて激しく戦った。1574年(天正2)信長は、陸路で北伊勢に侵攻する一方、伊勢湾に軍船を浮かべ、海路から総攻撃を行い、島ごとに築かれた城砦を破壊した。一揆勢は約3カ月籠城したがが死者が続出し、一揆勢は船で退去する際に砲撃を受けて、2万人の男女が城に追い込まれ焼き殺された。これにより門徒領体制は崩壊した。
「三好氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「三好氏」(みよしし)阿波国(あわのくに)三好郡(徳島県三好市、三好郡東みよし町)を本拠にした武将の氏。阿波小笠原(おがさわら)氏の一族。三好氏を名のるのは南北朝期の三好義長(よしなが)のころである。
三好義長は信濃(しなの)の小笠原貞宗(さだむね)の孫の京都の小笠原長興(ながおき)の子。母が阿波の小笠原長隆の娘であった縁で、長隆の養子となり、三好郡に住し、三好氏を名のった。南北朝期以後、阿波国の守護細川氏の被官となり、その下で勢力を拡大し、戦国期には細川氏を擁立して畿内(きない)支配の実権をねらった。
永正3年(1506)三好之長(ゆきなが)は、管領(かんれい)細川政元の養子となった阿波守護細川家の澄元を擁して幕府権力を握ろうとしたが、細川高国に敗れて自刃した。その孫元長(もとなが)は足利義維(あしかがよしつな)、澄元の子晴元(はるもと)を伴い畿内支配を目ざしたが、河内)の守護代木沢長政(きざわながまさ)と一向一揆(いっこういっき)に攻められ敗死。その子長慶(ながよし)は天文1年(1549)将軍義輝(よしてる)、管領晴元を近江(おうみ)に追い畿内を支配したが、晩年は失意のうちに死去した。次に家督を継承した義継(よしつぐ)は松永久秀(ひさひで)、三好三人衆らとともに将軍義輝を殺害し、長慶政権を継承」、入京した織田信長に降った。義継は天正1年(1573)に信長に背き殺された。三好氏は細川氏を中心とした管領制支配を終わらせ、独自の畿内支配を行ったが、幕府に依存する体質が最後まで抜け切れず、信長にとってかわられた。
「歴史の回想・長篠の戦い」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
長篠の戦・織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。
「筒井氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
中世の武家。興福寺成身院の家元。本拠は大和国添下郡筒井平城(現大和郡山市)代々興福寺の官符衆徒に任じ、一条院門跡の坊人となる。出自については諸説があるが、未詳。南北朝内乱末期から台頭。官符衆徒の棟梁として活躍する一方、いわゆる大和武士として、大和の制圧を目指して越智氏らと鋭く対立した。
大和にも影響力も大きい河内守護畠山氏に分裂が起きると筒井順永と兄の成身院宣(1390~1469)が畠山政長を強力に支援以降も代々政長を支持して、畠山義就流を支持する越智氏らと抗争を繰り返した。天正4年(1576)筒井順慶は織田信長から大和一国の支配を任され、郡山に築城。その後、家臣の対立でお家騒動、改易、後継者に恵まれず、不遇な戦国の世に生きたが、しかしも定次の世で理不尽にも、豊臣秀吉によって伊賀上野城に転封させられ、大坂の陣後は筒井氏は断絶した。
「歴史の回想・小牧・長久手の戦い」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
小牧・長久手の戦いは1584年(天正12年)羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が尾張及び北伊勢を主要な舞台として繰り広げた戦い。織田信長の死後、両者は対立関係を深めたが、家康は信雄と連合して小牧に陣をとり、大坂城を発した秀吉は犬山に対峙した。4月に秀吉側の一隊は家康の本拠を衝こうとして尾張東北部の長久手で合戦となり、家康側が勝利した。しかしこの局地な戦いでは決着せず、同年末に講和が結ばれた。結果としては秀吉は家康を服従させることに成功したが、両者の緊張関係はその後も続き、政局の展開に大きな影響を与えた。