「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
細川氏は、足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曾孫義季が鎌倉中期に三河国額田郡細川郷を本領としたのが始まりと言う。義季の曾孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄妹の顕氏・定禅・皇海兄弟は足利尊氏に属し近畿・四国などで軍功を積み一族で数カ国の守護になった。和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが失脚し、頼春の子頼之は管領幼少の将軍義満を助け、幕府権力の確立に努めた。嫡流の当主はは、頼之の弟で養子の頼元を以降代々右京大夫に任じられ、京兆家と称され、幕府管領及び摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲した。庶流の内五氏はそれぞれ和泉頼春の孫頼長が和泉上守護家、基之が和泉下守護家として共同統治し、阿波・淡路・備中の守護を世襲した。その後、管領勝元は山名持豊(宗全)と対立し応仁・文明の乱を引き起こした。その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。以来一族・家臣の分裂抗争が続き、家臣の阿波三好氏の台頭を招き、永禄四年(1561)細川晴元が三好長慶に降り、京兆家は没落した。
江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉上守護家の細川基常の甥で養子の藤孝(幽斎)より興る。藤孝は故実・歌道に通じ、足利義昭・織田信長に仕え、丹後田辺城主となった。その子忠興は信長・秀吉に・家康に仕えて軍功を重ねた。忠興の子忠利は熊本54万石を領し、子孫がこれを世襲した。
「歴史の回想・桶狭間の戦い」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
「桶狭間の戦い」は1560年(永禄3年)5月19日、織田信長が今川義元を尾張国桶狭間村(現名古屋市緑区)を含む丘陵地帯で敗死させた戦い。1550年代、三河を勢力圏に組み入れようとして織田氏と今川氏は、調略によって尾張鳴海城を奪取。これに対して信長は鳴海城の周辺に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いて封鎖した。鳴海城の南にある大高城も鷲津砦、丸根砦を築き抑えようとした。1560年5月、義元は鳴海城の確保と織田軍の撃破を目的として出陣、19日に鳴海城外の桶狭間山に本陣を置いた。今川軍は早朝から織田軍の砦群を攻撃、鷲津砦、丸根砦を攻略、昼頃戦場に到着した信長は、温存していた主力群を率いて今川軍の正面から破り、混乱に乗じて義元を倒した。この結果、今川氏は衰亡へ向かい、信長は美濃の斎藤氏対策に専念、徳川家康は今川氏と服属関係を断って信長と同盟するに至った。戦闘の経緯は信長の家臣太田牛一の「信長公記」に詳しく書いてある。なおこの戦いを、天下を目指して上洛する途上の義元を、信長が豪雨の中、善照寺砦から大きく迂回して、田楽狭間の窪地に休息する義元の本体を丘の上から奇襲で倒したものとする説が有力とされている。
「諏訪氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
信濃国諏訪郡の豪族、神職と武士と言った二面性を諏訪地方の豪族。諏訪大社大祝家。神氏を名乗る信濃武士団の中核でもあった。諏訪盛重は源頼朝に従って鎌倉幕府の御家人となったり、承久の乱後は北条氏の得宗被官(御内人)の筆頭として権力を握った。南北朝期に南朝方として行動。一族の諏訪円忠(1295~1364)は室町幕府の奉行人として活躍した。室町期以降は惣領家と大祝家に分かれて内紛が続いたが、永正年間(1504~1521)に惣領家に勢力が統一され、諏訪地方を中心に勢力を伸ばす。その後、武田氏によって惣領家の諏訪頼重が滅ぼされたが、頼重の従兄弟頼忠が旧領を回復し、徳川家康に従った。一時移封となったが、頼水の時諏訪に戻り高島城に入城諏訪藩主として幕末に至る。
「上杉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。
「歴史の回想・永享の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
永享の乱は、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実、将軍足利義教と展開した抗争。鎌倉府は氏満の頃から自立性を強め幕府と関係を悪化させていたが、持氏は上杉禅秀の乱を機に東国大名、国人への圧力を強める一方、奉公衆の整備や結城・佐竹氏らとの連携を強めた。これに対して幕府は持氏が圧迫する大名、国人を京都扶持衆として支援、憲実は守護領国支配を基盤に自立的動きをとり持氏氏と対立を深めた。1438年(永享10)持氏は嫡子の元服将軍を偏諱を拝領する前例を無視、これを諫めた憲実は危機を感じて本国上野へ退避したため、持氏の追討を受け幕府に援軍を求めた。将軍義教が関東・奥羽に持氏追討を命じと、憲実は今川、武田、小笠原氏らと関東に出陣、持氏は抗しきれず剃髪し永安寺に入った。翌年2月、持氏は幕府軍に攻撃を受けて自殺。1年余りのち、持氏の遺児・与党が幕府・上杉方に巻き返しを図り結城合戦が起こるが鎮圧され、持氏の遺児成氏の復帰まで鎌倉府は断絶、関東は機内に先駆けて内乱状態になる
「歴史の回想・二・二六事件」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
二・二六事件は昭和一一年(1936)早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件。陸軍第一師団下の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校20名、下士官88名、兵1375名などが総理大臣岡田啓介、内務大臣斎藤実(即死)大蔵大臣高橋是清(即死)教育総監渡辺錠太郎(即死)らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯が原町で前内大臣牧野伸顕を急激した。蜂起部隊は永田町・三宅坂一帯を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。収集を急ぐ陸軍大臣川島義之は宮中の協議の結果、この日の午後3時30分「陸軍大臣告示」を決起舞台に下達した。そこのは「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノと認ム」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかに見えた。しかし、翌27日午前8時50分、東京市には戒厳令が施行され、28日午前5時8分には「反乱軍」の原隊復帰を命ずる「奉勅命令」が下された。この状況転回には、重臣の殺害に激怒し、自ら近衛師団を率いて討伐するとさえ言った昭和天皇の強い意思が働いていた。事態は杉山元参謀総長と石原莞爾作戦課長を中心に鎮圧に向けて動くが「紅軍相撃」の危機も切迫、これを回避するため「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送が流され、帰順を勧めるビラがまかれた。こうして29日の午後、反乱軍は帰順し事件が終結した。同年3月4日「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」の特設陸軍軍法会議が設置され。7月5日には死刑17人を含む判決が出された。また翌年8月には村中孝次、磯部浅一、とともに思想的指導者として北一輝、西田税が処刑された。この事件の背後には、権力の掌握によって「高度国防国家」の次元を目指す統制派幕僚と「君側の奸」を排除した「一君万民」の理念の実現(昭和維新)を目指す皇道派青年将校との、国家構想をめぐる二重の対立が含まれていた。その意味で、反乱軍の鎮圧は軍幕僚の主導権の確立を意味し、以後、軍部は政治的発言を増し、戦争への道を突入していった。
「武田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。
義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。
しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安芸武田氏から、室町時代後期になって若狭竹田氏が分出。甲斐武田氏はその後守護職を世襲、武田信虎の時に本拠を石和から躑躅ケ埼館に移して戦国大名の道を進み武田信玄の時、全盛期を迎えた。しかしその子武田勝頼が継ぎ、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)信長に滅ぼされた。