政府やメディアはリモートを推進しろとうるさい。しかし、リモート拒否派は依然として多い。
そうは言っても、コロナ禍を経て「リモート」の時代に進むのは間違いないだろう。
考えてみれば、なぜ毎朝、時間をかけて遠い職場へと通わなければならなかったのか。
なぜ一日の仕事を終えて、疲れた体で、再び遠い自宅へと帰らなければならなかったのか。
そもそも、なぜ営業や企画、人事や経理など様々な部署の社員が、同じ職場で一緒に仕事をしなければならなかったのか。
確かに昔は、トップからシモジモまで、同じ職場で一緒に働くのが効率的だった。
今のように便利な通信手段など無く、フェイスツーフェイスで、紙に書いた書類をベースに仕事をしていたのだから当然。
会議も、情報交換の場として重要な役割を担っていた。
古き良き時代だ。
ところが現在は、情報通信技術の飛躍的な進歩で、通信コストは著しく低下。とりわけインターネットによる情報通信には、ほとんどコストがかからなくなった。
日々の業務の中で大量に生み出される様々な成果物も、サーバーやクラウドに保存され、世界中のどこからでも、瞬時にアクセスできる。
それなのに、なぜトップからシモジモまで、毎日、同じ職場に集まって仕事をしなければならないのか。
答えは簡単。
トップは1人ぼっちが大嫌い。部下を集めて号令するのが大好き。だからリモートなんて、もっての外。
たくさんの人に取り入って、身を粉にして働いて手に入れたトップの座。自分の周りにたくさんの部下を侍らしたいのだろう。
そればかりではない、組織では、報告、連絡、相談の「報連相」が重要。そのせいで会議がやたらに多い。
ところが、会議の実態はと言うと、実に情け無い。仕事のプロ同士の会議なのに、議題の深彫りもしないで、どうでもよいプレゼンの枝葉末節にこだわる。
「資料の字が小さ過ぎて読めない」とか、「もっと見やすい図や写真を使え」とか、「説明を平易にして、もっとわかりやすくしろ」などなど。
とにかく、肝心の会議の内容については、準備をした部署以外は、ほとんど無関心。
出席した幹部たちの、自己アピールのような、どうでもよい意見を散々聞かされた挙げ句。会議体のトップによる、まとめと称した「与太話」で会議終了。
終了後、結論が何だったのかを、出席者全員で「会議体トップの意向」を忖度しながら推測する始末。
まさに、何を言っているのかよくわからない「ノストラダムスの預言」の解釈をするような馬鹿げた会議ばかり。
しかも、その解釈も、結局は、社内政治に長けた俗に言う「茶坊主」たちに、都合よくねじ曲げられる。
巷で、いくらリモート推進と叫んだところで、フェイスツーフェイスで生きてきた世代が一掃されない限り、何も変わらない。
ITだAIだ、デジタル化だと言ったところで、頭が古くて、その恩恵を受けられない頑迷古老なオッサンたちがいる限り、無理な話だ。