『月の沙漠』数年間、毎年夏に結核の療養のために御宿海岸を訪れていた静岡県焼津市の詩人、加藤 まさをによる童謡
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ひと昔前に御宿町の伊藤、加藤と二代の町長とも交流があったことから 2022年新春に久しぶりに御宿町の様子をうかがいに行き、過去に説明を受けていた岩和田地区の『メキシコ記念公園』を訪れてみました。
千葉県指定重要史蹟
ドン・ロドリゴ上陸の地 日・西・墨三国交通発祥
1609年(慶長14年) スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号は 秋9月30日未明フィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。
1609年(慶長14年) スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号は 秋9月30日未明フィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。
乗組員373人中56人は溺死、残る317人は岩和田村民により救出された。この時 海女たちは、飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを素肌で暖め蘇生させたと伝えられている。
大多喜城主本多忠朝により 遭難者たちは37日間 岩和田大宮寺に滞在、村民の手厚い保護を受けた後、翌1610年 家康が三浦按針に建造させた新しい舟を与えられ無事メキシコに帰国した。
昭和3年10月1日 森矗昶、浅野重雄等発起人となり、この日西墨交通発祥記念之碑が建立された。
ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑 メキシコ記念公園設置
昭和53年11月1日 国賓として来日されたホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領は、この日、日西墨交通発祥の地である、我が御宿町を訪問され、大統領は若者たちのかつぐ、みこしに乗り、日の丸の扇を高くかざし、「エルマーノ!」(兄弟よ!)を連呼した。
和歌山県でも
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エルトゥールル号遭難事故
1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した海難事故
木造の1864年建造で全長76mあまりのエルトゥールル号は、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣。1889年7月14日にイスタンブールを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて1890年6月7日にようやく日本へ到着。
横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、同年6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受け、その帰途に和歌山沖で岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ、座礁した。
エルトゥールル号は艦齢26年の老朽艦だったうえ、補給品の不足や乗員の経験不足などもあり、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。
そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、1890年9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。
そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路についた。
このように無理を押してエルトゥールル号が派遣されたのには、イスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。
遭難事件はその帰途に起こった。
1890年9月16日21時ごろ、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生し、夜半に沈没した。
司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った。
通報を受けた現串本町の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。
この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。
この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。
その後、神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸の和田岬消毒所へ搬送・収容された。
各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金や弔慰金も寄せられた。
日本海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が生存乗員を分乗させてオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた。
串本町では5年ごとに追悼式典が行われており、2008年(平成20年)には訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領が同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し、献花を行った。
現在でもこの顛末は、トルコの学校教科書に載っておりトルコ人なら殆どが知っており親日国の所以である。
日本国は、法律で制限され自衛隊機を向けられず、民間機の労働組合が100%の安全が確保されていないとして邦人救出に行かないときに同じ民間航空のトルコ航空は自国民の救出に先駆けて日本国民の救出に向かった。
🔶🔶🔶世界では珍しい日本人の性質🔶🔶🔶
世界中の常識
少し昔は
『近隣で外国船が難波したのを見つけたら 乗っていた船員は皆殺しにして積み荷は強奪するのが当たり前』
だったそうです。
これは、特段悪いことという認識はなくて善男善女もフツーにそうしていたそうです。 魚を裂いて食べたり、犬を殺して食べるのがフツーなように・・・
そんな世界のフツーの常識とは違う異常な国民がニッポン人だったのでしょう。
和歌山県庁を訪れたハサン・ムラット・メルジャン駐日トルコ特命全権大使(当時)は、声を震わせてこう言いました。「私の次の任地はアメリカですが、本当に日本から離れたくないです」。大使の言葉には、約130年前までさかのぼる和歌山との縁がありました。
義理堅い国トルコ 大恩を受けても恨みしか持たない隣国と違い・・・
さて、時は流れて1985年3月17日、イラン在住の外国人は一斉にテヘラン空港に詰めかけていました。というのも、隣国イラクの当時の大統領サダム・フセインが、「48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機をすべて撃ち落とす」との声明を発表したからです。タイムリミットが迫る中、在住外国人の母国からは続々と救援機が到着していました。
しかし、日本政府は、自衛隊を送れば憲法違反になるとの意見に押され、さらに民間機を飛ばすのも危険すぎるとの理由で、世界で日本だけが立ち往生する国民に救いの手を差し伸べずにいたのです。テヘラン空港に残されたのは日本人だけになっていました。
そして、フセインが発表した期限に迫ろうとしていたその時、1機のトルコ航空の飛行機がテヘラン空港に緊急着陸し、日本人216名全員を乗せ、そのまま成田へ飛び立ったのです。これはまさに奇跡としか言いようのない出来事でした。
トルコ航空の日本人救出の理由は、駐日トルコ大使によってすぐに明かされることになります。大使は、100年近く前のエルトゥールル号でいかにトルコの人々が日本に恩義を感じているかを熱く語りました。トルコでは小学校の教科書で「トルコ人を救った日本」というテーマであの事件が紹介されていると言うのです。つまり、テヘラン空港の件は、「トルコの恩返し」だったというわけです。
日本政府が日本人を救出できなかった理由は、まず自衛隊機の派遣を検討しましたが、自衛隊法の制約で海外に飛ぶことが不可能ということが分かりました。
[その後、野党の猛反対を抑えて自衛隊法は改正され、現在では同様の事態が発生した時には、自衛隊機による救助は可能になりました]
そこで、直ちに日本航空に臨時便を要望しました。
ですが、なんと、当時の労働組合が「乗務員の100%の安全が確保されない状態では出発できない」という理由で、出発を拒否したのです。
戦争の中、しかも48時間後には撃墜される可能性がある危険な空域を飛ぶことには、大きなリスクがあります。
組合としての判断は「安全第一」というものでしたが、これも戦後一貫して「平和憲法」を奉じてきたために、リスクを冒すという発想がなかったのかもしれません。同じ日本人として、実に残念な判断でした。
私も和歌山県人ですので、トルコ船の話は聞いた事有りますし、
記念碑にも行った事有ります。
にしても イラクの話 胸が熱くなるのと同時に
何をしている日本国 と思ってしまいます。
平和とは何か?? 自国民を守れない平和って何なんだ!!
と思ってしまいます。
それにしてもよく聞く言葉ですが世の中に万全とか、100%の安全なんて『100%どこにも無い』でしょう??
あ!!ハムニダ国とかは、墓まで掘り起こしますね。。。
日本では敵であっても亡くなれば丁重に弔うのが普通ですが。
靖国さんに神となって祀られている方々にも
誰の指図か分かりませんが
A級とかB級とか、分祀しろとかの無理な論調もありますから。