知覧平和公園
特攻平和会館玄関
知覧特攻平和会館は旧陸軍知覧飛行場跡地の一角に置かれていました
会館内は、ほぼ写真撮影が禁止となっていましたが毎正時に約30分の語り部によるお話とビデオ放映が交互に視聴ができます。
現在の某有名国立大学の学生の数割は精神に異常をきたしているとの調査結果もありましたが、特攻隊員の彼らは精神も身体も強健で、競争率50倍以上の難関を超えて少年飛行学校に入学。とてつもなく厳しい3年間の訓練を経た17歳から23歳の将来有望な若者が親兄弟の住む国を守るために「必死の覚悟」で沖縄の海に飛び立って行った現実が垣間見られました。
前列真ん中の一人と後列の2人は17歳、前列の左右2人は19歳と20歳と語り部の方が説明されていたと記憶しています。
この写真は出撃1時間前で、3時間後には全員がこの世にはいないことが分かっているのに特攻隊員の平然とした笑顔に驚かされました。
知覧高等女子学校生徒【現代での中学生】なでしこ隊が出撃する特攻隊員に桜の枝花を振って見送っています。
語り部の方のことばで
「見送っている女子生徒の視線を見てください。自分たちがお世話をして来た兵隊さんが二度と戻らぬ出撃姿に眼を合わすことが出来ずに隊員が手を振っていても見ることはありません」
「眼が合ってしまえば、とめどなく涙が溢れてしまい『見送りに際して決して涙を見せてはいけない』という軍の指示に反してしまいます」
三角兵舎
特攻に出撃する前夜などに宿泊する仮の宿
実際には雨風を凌ぐだけ、爆撃されても隊員の命を守るために半地下にしただけの粗末な兵舎
内部の様子
夜間の哨戒隊員が特攻隊員の就寝中にも巡回していましたが毛布に包まって嗚咽している隊員もいたと証言しています
寝具の準備や片づけなどは知覧高等女子学校生徒が担当していましたが、隊員が使っていた枕は涙で濡れていたといいます
そんな若者たちが翌日の出撃前には。死を覚悟したもののふの表情とは少し違う穏やかな顔をしています。
特攻平和観音堂
特攻平和観音堂 境内
特攻機に使われた戦闘機「隼」
特攻勇士の像
事前に計画・立案されていた「特別攻撃」
決まっていた路線に最後にGOを出して特攻の父とされた、大西中将
大西中将は若者たちも特攻を始めれば天皇陛下も「戦争を止めてもよい」と仰っていただけるだろう との思いもむなしく天皇は何千人もの子供たちや若者が死んでも自らが敗戦国のトップとして裁かれることを恐れて継戦を命じ続けました。
大西中将は特攻作戦当初から「決してお前たちだけを死なせはしない」と決意していましたが 終戦の日に官舎で割腹自決を図り、駆け付けた部下に救命措置はするな!と厳命し内臓が飛び出しても苦しみ抜いて絶命しました。
大東亜戦争で310万人もの軍人・軍属が戦死しても日本軍最高指揮官昭和天皇は陸軍大将などに罪を着せて自らはノーネクタイの米軍マッカーサーに命乞いに訪れてエテ公のような写真を撮られても一族は今も栄華を極め、災害にも国難にも目をくれず園遊会などに興じています。
私が皇居宮殿で拝謁し、2mほどの距離からお言葉を賜った平成天皇は、韓国神社にはお詣りしましたが靖国神社にはお詣りしないまま退位されました。
一度は知覧特攻平和観音堂にも立ち寄っていただきたかったと思います。
※藤井 一 少佐 (2階級特進)
茨城県の農家の7人兄弟の長男
妻・福子さん 群馬県高崎の商家の生れ
夫が特攻作戦に従事する兵の訓練に当たって、「お前たちだけを死なせはしない、俺も後から必ず行く」と言っているのを知り 夫の考え方や性格を充分に知っていたことから「自分たちがいたのでは後顧の憂いになり思う存分の活躍ができないでしょうから一足先に逝って待っています」と書き残して飛行学校近くの荒川に3歳と1歳の娘と手を紐で結んで入水自殺した。
藤井 一 中尉はその後志願して昭和20年5月28日早朝、米駆逐艦 ドレクスラーに突入。当時29歳。