ー 接 ぎ 木 ー
3年ほど前、実に黒いブツブツが出るのが厭で根元から切った富有柿の木。
迷惑なことに脇からまた新芽を出した。ひこばえというらしい。それがもう3メートルくらいに伸びて、ピンポン玉くらいの実を5個つけている。
今度はひょっとしたら色艶のいい実になるかも知れんと、3年前の仕打ちを脇において待ってみたが一向に大きくならない。
首をひねっていると、ウォーキングの途中立ち寄った知り合いが教えてくれた。最初植えたのはピンポン玉の台木に富有柿の穂木を接いだいわば2階建ての接ぎ木。
3年前に切ったのは1階の台木の部分だから出てくる芽はピンポン玉の芽であり、なる実はピンポン玉だという。
“ お里が知れる ” ということばが頭をよぎった。「お里が知れた。所詮ピンポン玉だった んだ」と柿の木にそそぐ視線が急に冷たくなった。
次に、「いや待てよ。そうではなく、ピンポン玉は幸せだ。しがないピンポン玉で終わるところを富有柿という出会いを得た」と取ることもできると考えた。
人生にもいろいろな出会いがある。
仕事との出会い、友との出会い、女(男)との出会い、本との出会い・・・。いろいろな出会いが背中を押してくれる。時に急ブレーキをかける。
大過なく40年、50年と時を重ね、好々爺となって人生を終わる。それに越したことはないかもしれないが、世の中一寸先は闇、いい出会いに恵まれず奈落に沈むこともある。しかし例え奈落に沈んだとしてもこれも人間修行のひとつと思えばくよくよすることはない。
凡庸な人生を過ごした者より大波小波をくぐった人間の方が味がある。人を許すことができるし、人の痛みもわかる。。そんな話を前に聞いたことがある。