ー 中学の頃 ー
中学校の校舎は木造わら葺き
テレビの普及を見て、“一億総白痴化”と悪態をついた社会評論家がいたことは大人になって知った。 白痴とは「精神遅滞の重度のもの」(世界大百科事典第2版)とされているようだ。平たくいえば知恵遅れだろう。
小学生の頃、家にテレビはなかった。中学生になって、やっと近所の同級生の家が一軒だけ白黒テレビを入れた。ほかの家が買い始めたのはずっと後だったから、評論家のいう白痴化からは免れた。貧乏神が居てくれたおかげだ。
だから、悪童連の日常は相変わらず肥後守を中心に回った。肥後守は大抵ひとり一本持っていて、学校に行くときは必ずポケットに入れて行った。鉛筆を削るのにくるくる回せば削れるものなどなかった。休み時間には出して自慢し合った。長くてピカピカに研いであるほど格が上だった。
肥後守とのこぎりと、ちょっとしたひらめきがあれば大抵の遊び道具は自分で作ることができた。
ゴム銃、釣り竿、木刀、弓矢、ブランコ、竹馬、ヤス、罠、木製の四輪車、メジロかご、凧・・・。友達のひとりはおそろしく高い竹馬を作り、庇からそれに乗って歩いてみせた。みんな手が器用で、体を動かすのが得意だった。
頭の方は本に向かった。漫画は大抵の子が小学校の低学年で卒業した。私も他の何人かの友だち同様、図書室の本を片っ端から読んだ。シャーロック・ホームズ、紅はこべ、ターザン、アムンゼン、マゼラン、ロビンソン・クルーソー、15少年漂流記、宝島・・・。
雨月物語を読み始めたのは夜一人で父親の帰りを待っている時だった。怨霊が出そうなくだりにさしかかると、頭から布団をかぶってそっとページをめくった。
テレビがなぜ白痴をつくるのかわからないが、素人なりに見当はつく。楽だからである。
たとえばマゼランが小島に上陸する場面だと、本ではボートが波に揺れる様や、舳先にあたる波しぶきやオールのきしみを自分で頭に描かなければならない。
これに対してテレビは親切にも絵を写してくれる。本を読む時やるような作業がいらない。手間いらず、脳は寝ていればいい。使わない脳は錆びる。そんなところだろう。
・・・ウォーキングの途中よく公園に立ち寄る。ほとんどの人がスマホを見ながら歩いている。何を見てるんだろうと気になって、ある日、スマホを持って石に座っている若い人に尋ねたことがある。「ゲームです」という答えが返ってきた。
ゲームがどんなものか知らない。もし、絵が出るものだったらテレビと同類である。
※ 文中の用語は当時のものをそのまま使った。気を悪くされた方があったらお許しを乞い たい。
( 次回は ー 年金の行方 ー )