私の頭の中の鉛筆

とりあえず書いておこう

集めておこう

テレビが見たいんだとさ

2015-01-04 15:53:53 | 介護


ラジオが聞きたい

はい買ってきました

はいモウ聞いていません

テレビが見たい

はい買ってきました

見えにくい

はい分配器を買ってきました

はい見えにくいです

はいアンテナを買ってきました

小さいから見にくい

座ってみるのは疲れる・・・・・・はい・・・

どうぞご勝手にやってれば


私はビール4本目




ドリルがやりたい

100均で良いからね

本屋で1000円のを買ってくる

いや買わされる

もーぶっちぶっち

年寄り2人おいていこうっと!!どこへ・・・?

日本の女性を敬うことをしない日本の女   韓国にばかり目がいく

2015-01-04 09:15:35 | 日記
>>移送[編集]

占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[15]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[16]。


>>シベリアに抑留された軍人、軍属、民間人は、みんな男、とわけもなく思い込んでいた。7月26日の読売新聞に<シベリア抑留 看護婦の証言>という記事が大きく出ていた(ネットには不掲載)。

広島市在住の元看護婦、高亀カツエさん、99歳。28歳だった1943年7月、日赤広島支部から旧満州北東部のチャムス第一陸軍病院意配属され、2年後、看護婦養成の教育隊の班長となった。1945年8月9日未明にソ連の参戦を知り、逃げ惑ったたものの、ソ連兵に捕まって、ハバロフスクなどの収容所に入れられ、日本人が入院していた内科病棟で看護婦の仕事を手伝っていたという。1947年6月、帰国指令を聞き、1年10ヶ月の抑留生活を終えたという。

シベリア抑留者には看護婦や電話交換手などの女性がいたことは知られていたが、その人数は資料や記録が少なく、不明という。風化が進んでいるのだ。歴史の空白に目を向けてもらうため、高亀さんが体験を語った記録映画が8月23日、24日に京都、東京、大阪で上映される。
2014,8,1


坂間文子著
『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
復刊リクエスト投票にご協力下さい!UP!

 この本は、旧満州・大連のソ連領事館で日本語を教えていたことから終戦後にスパイ嫌疑をかけられてシベリアに連行され、ラーゲリと流刑地で10年抑留された日本人女性・坂間文子さんが著した体験記です。ソ連の恐怖の収容所生活が赤裸々に描かれています。日本兵のシベリア抑留体験記は数多いですが、民間人でしかも女性の抑留体験記は非常に珍しいものです。

 この本は著者が帰国して20年後の昭和50年に出版されましたが、現在絶版です。ぜひ復刊リクエスト投票にご協力下さい。上記ページをクリックして詳細をお読みいただき、賛同いただけましたら、『復刊ドットコム』から投票してください。

 1992年に坂間さんは「朝日歌壇」に、

 流刑の我が書を読みて良い気味と手紙一通韓国の女

 という歌を寄せています。それに対して朝日新聞は、その非常識な朝鮮女を擁護するかのような読者投稿を掲載しました。折りしも朝日が焚きつけた従軍慰安婦問題で世間が揺れていた頃のことです。坂間さんの心痛はいかばかりだったでしょうか。

 このような朝鮮人と朝日新聞は、絶対に許せません。